第二話
あの雨の夜に起きたことを、この先忘れることは、ないだろう。
お昼頃からぱらぱらと振り出した雨は、夜には本降りになり、さめざめと降っていた。美代姫が亡くなってからというもの、お仕事以外は自室にこもりきりだった忠広に呼ばれた右近が、部屋へ入ると、梅雨の時期独特の、木が水分を含んだような湿っぽい匂いがあたりに漂うなか、忠広が青白い顔をして、佇んでいた。
床いっぱいに描かれた、五芒星の円。その中心におかれた人骨と毛髪の束と、一枚の女性画。絵は、忠広が描いたものだろうと、すぐに右近には推測ができた。
「まさか、美代さまを」
右近は恐ろしくなって、最後まで言うことができなかった。かわりに、
「忠広さま、どうしても、その術をおやりになるのですか」
ゆうらゆうらとゆれる灯台の炎に照らされた絵のなかの女性は、生前の美代姫そっくりだった。つややかな黒髪に、白い肌。灯りがゆれるたびに、こちらに向かって微笑んでいるように見えた。
「この三ヶ月、何度も、あの女人を忘れようとしてきました」
忠広が、描かれた漆黒の女性を見つめたままつぶやいた。
「もう、あの女人はこの世にはいないのだと、何度も自らに言い聞かせようとしてきました。けれど」
真っ白の狩衣の袖元で握られた忠広の拳は、小刻みに震えていた。一筋の涙が、頬を伝って、狩衣の胸元を濡らした。
「忘れようとすればするほど、あの女人の微笑が、香りが、鮮明によみがえるのです。夢のなかで、わたしにあの笑みを、なげかけてくるのです。」
右近は、美代姫がまだお屋敷にいた頃のことを思い出していた。あの頃の、活気あふれていた頃に、忠広を戻せるのは、美代姫しかいないのかもしれない、そんな考えも、浮かんでいた。
「しかし忠広さま、これは陰陽師の禁忌に触れております。もしも――もしも公になったら、忠広さまは京にいられなくなってしまいます。それどころか主上から極刑を賜ることだって……。それに、この術は理論こそ成り立っていても、実際に行った者はまだいないのでしょう。少しでも間違いがあれば、忠広さまの御身に、術の反動が……。忠広さま、まだ、今ならまだ……」
「右近」
忠広の声は、落ち着いていた。
「分かっています。『陰陽師たるもの、死者を甦らせるべからず』『陰陽師たるもの、人間を創り出すべからず』生まれたときから、ずっと言われ続けてきた掟です。わたしがこの術を行ったことが公になれば、どうなるか……。分かっています。それでも」
忠広は、愛しい人に向ける、優しさと切なさを湛えた瞳で、絵の女人を見つめていた。
「いまの私は、死んでいるのも同然なのです。あの女人がいなくなってから、わたしの日々は、灰色で、何も感じられないのです。もう一度……もう一度、あの女人にお逢いしたいのです。このままでは、あの女人が気の毒すぎる。入内したばかりに、あんなことになってしまって……。一瞬でもかまわないから、昔の、あの日々に戻りたいのです。それが叶うのなら、どんな罰を受けても、かまわない」
切実な訴えに、右近はなにも言いかえすことができなかった。ただ、涙を流して、灯台の灯りで揺らめく忠広の横顔を見つめることしか、できなかった。
「右近」
「はい」
「お願いがあります。この術が成功したら、たとえ、私の造った女人がどのような女人であっても、あなたには、受け入れてあげてほしいのです。」
「どういうことですか。」
右近には、忠広の言葉の意味が分からなかった。
「美代さまが生き返られるのではないのですか」
忠広は首をふった。
「この術が成功しても、生前のあの女人がそのまま蘇るわけではありません。この術で造られるのは、あの女人に瓜二つの別の女人です。どんなに研究を重ねても、いまのわたしには、亡くなった人間とそっくりの女人を造ることはできても、亡くなった人間を蘇らせる方法は、分かりませんでした。そこまでは、まだわたしの力が及ばなかった。」
忠広の声は悲しげであった。
「この術は、成功します。けれども、造られる女人はあの女人と瓜二つの別の女人です。わたしはそれでもかまわないのです。けれども、もしわたしの側で仕えるあなたに受け入れられなければ、きっと傷つくことになります。だから、あなたにも、どうか、受け入れてほしいのです。愚かな私に仕えてくれているのと同じように、あの女人のお側でお仕えしてくれていたときと同じように、お仕えしてあげてほしいのです。」
忠広が、右近の顔を見て懇願した。その切実な感情が滲んだ表情に、右近は胸が締め付けられるような思いになった。
「かしこまりました」
右近の頬をつたった涙が、床に小さな跡をつけた。
「覚悟はできています」
忠広は、自分に言い聞かせるようにそうつぶやくと、人差し指と中指を立てた左手をそっと口元に持っていき、小さく言葉を唱え始めた。
低く、一語一語が重たいその言葉は、忠広と右近の周りをめぐり、円の中心へと集まっていくように感じられた。灯台の灯りが激しく揺れ、お部屋に置かれたさまざまなものがカタカタと音を立て、ただならぬ空気がお部屋いっぱいに満ちていき、右近は思わず、身震いし、後ずさった。
――と、突然、床に描かれた五芒星に、変化が起きた。
まるで狐火のような青い光と煙が、円の周囲にたちこめ、半紙に描かれた美代姫を覆い隠していった。なにかが焦げるような臭いが、右近の鼻を突いて、思わず袖で鼻元を塞ぐ。それから、青白い光と煙に混じって、チッチッチッチッと火花が爆ぜるような音がし、小さな稲妻のような白い光がバチバチッとはしった。
忠広の唱える言葉は激しさを増していた。必死に言葉を唱えるその横顔には、一種の狂気すら感じさせるほどだった。
右近は、目の前で起こっているあまりにも現実とかけ離れた光景を、半ば呆然と、眺めていた。視界をさえぎるほどにたちこめる青白い光と煙、苛烈にはしる白い光線、焦げ付いた臭い――永遠に続くかと思われたその光景はしかし、終わりを迎えた。
忠広は言葉を唱えるのをやめ、口元にあてていた左手をそっとおろした。
まだ焦げついた臭いと青白い煙は残っていたが、狐火のような光と光線は、なくなっていた。
「けほっけほっ」
煙の向こうで、なにかが咳をするのが聞こえ、忠広と右近は顔を見合わせた。
忠広の紅潮した頬を、一筋の汗が伝っていく。
「た、忠広さま」
右近は、驚きと不安とで、金縛りにあったように、その場から動くことができなかった。そうしている間に、視界をさえぎっていた濃い煙は徐々に薄くなっていく。
「けほけほっ」
忠広が、両手で煙を払いながら、円陣の中心へ近づいていく。その後ろを、恐る恐る右近がついていく。
五芒星の中心におかれていたはずの毛髪と人骨は、なくなっていた。あの、つややかな黒髪をした女人の絵も、なくなっている。
そのかわりに、紛れもない、美代姫がいた。いや、正確には、美代姫に生き写しの、女人が座っていた。墨を流したような漆黒のつややかな髪が、女人の色白の背中を流れ、夜の海のように床に広がっていた。右側に曲げられた両膝から伸びる足も、体を支える両腕も、血の通った人間と同じように、透き通った肌をしていた。
「わたくしは……」
目の前の女人が発した声に、右近は言葉を失った。声までもが、美代姫と全く同じ、あの凛とした、涼やかな声だったのだ。
立ちすくむことしかできない右近をよそに、忠広は、座り込んでいる女人をいとおしそうに抱きしめた。
「よく、この世に戻ってきてくださいました」
深い闇のように黒い瞳をきょとんとさせている女人を、真っ白の狩衣でふうわりと包み込むようにして抱きしめる忠広の目元で、きらりと涙が、輝いた。