第一話
あらすじ:
歴代陰陽師のなかでも天才と謳われた加茂忠広の日記を手に入れた滋川清行。日記に描かれていたのは、落ち葉の君と瓜二つの女人であった。陰陽師としての立場と、一人の青年としての立場との板ばさみになった清行は、落ち葉の君のもとを訪れる。「話していただけませんか。加茂忠広さんのことを。そして、加茂家と滋川家に、何があったのかを。」落ち葉の君が過ごしてきた日々が、ついに明らかになる。
*『宇治で解かれる事件手帳』の七作目。
あの冷たい雪の日のことは、今もはっきりと憶えている。肌が切れるような寒さのなかで、黒炎に包まれ崩れていった、あの男の苦痛に満ちた表情も、焦げついた、むせ返るような煙の息苦しさも、褪せることなく、この瞳に、鼻に、鮮明に焼きついている。
身を守るため反射的に描いた黒い炎は、瞬く間に熱を帯びて不気味なほど静かに、細い目の男を飲み込んだ。誰にも消せない漆黒の炎のなかで、男は驚愕のまなざしをこちらに向け、声すら上げずに、崩れた。
もしあのとき、この身の運命を知ることができていたのなら――。
永遠に朽ちることのないこの身体で、生きる意味の見出せない日々を、ただ虚しく重ねていくしかないことを知っていたのなら――。
――あの場で祓われることを、望んだだろう。
二冊の古い書物を挟んで、一人の女人と陰陽師が向かい合っている。二人の間に置かれた書物の表紙が、吹き込んできた風にあおられてかさかさと音をたてた。
「私は……あなたを祓いたくはありません」
張り詰めた空気をおもむろに破ったのは、苦しそうな表情を浮かべた滋川清行だった。言葉に表現できないもやもやとした感情を無理やり形にするかのように、慎重に言葉を選びながら
「私は、陰陽師です。陰陽師である以上は、人間でないものを排除するのが仕事です。京の安定を守るために、人々が安心してすごせるようにするために。ただ――」
「ただ?」
清行の澄んだ視線は、畳の上を弱々しげに漂っていた。陰陽師としてあるべき姿と、一人の青年としての姿との板ばさみにあっていた。
やがて――。
「話していただけませんか。加茂忠広さんのことを。あなたがすごしてきた、百五十年間のことを。そして、加茂家と滋川家に、何があったのかを」
うつむけていた顔を上げると、あの意思のこもった揺らぎのない瞳で、まっすぐと落ち葉の君を見つめた。波紋のたたない水面のような静けさの奥に、熱い炎を燃やしている瞳――。
「おかたさま……」
落ち葉の君は、再び目の前に置かれた萌黄色の日記を手に取った。いとおしそうに表紙をなでてから、はらはらとページをめくっていく。涼しげな瞳には、懐かしさと暖かさがこもっていた。
「百五十年前のことをお話しする前に、一人の姫君のことをお話しなくてはなりません」
落ち葉の君は日記を清行に返すと、小さな吐息をついた。
「おかたさまが忠広さまと出会う以前、忠広さまには、一人の想い人がいらっしゃいました。後に、主上の命で入内し、桐壺の女御と呼ばれるようになる女性、美代さまです。」
それまでこわばっていた表情の右近が、遠い日々を懐かしむような表情を浮かべた。百五十年前、右近は、加茂忠広に仕えていたのだった。
「忠広さまは、美代さまのお父上の壬生少納言さまと大変親しくされており、そのため、少納言さまのお屋敷へ呼ばれることも多く、美代さまと親しくなったのは、自然なことでした。仲睦まじくお話をする忠広さまと美代さまのお姿は、とてもほほえましいもので、少納言さまは、いずれは美代さまを忠広さまのもとへ、とお考えだったほどです」
若くして歴代のどの陰陽師よりも天才と謳われ、相手の身分にかかわらず誰に対しても平等に接し、そして人一倍優しく思いやりのある加茂忠広のことを、壬生少納言は高くかっていた。そして人見知りであまり人と話したがらない美代姫も、唯一、忠広にだけは心をひらいていたことを、少納言は知っていた。壬生家のお屋敷に来ては、御簾越しに笑いあっている二人の幸せを、お屋敷の者はみな、願っていた。
「しかし、少納言さまのお考えは、叶わぬ夢となってしまいました。主上が、美代さまの入内を求めたのです。」
ときの帝の冷泉帝は、すでに左大臣を父にもつ姫君を北の方に迎えていたが、二人の仲は決して良いとは言えないものであった。そんなときに京中の女人を束にしても敵わない美しい姫君、という美代姫の噂を耳にし、お側に、と考えたのであった。
「主上の命に、少納言である壬生さまが異を唱えられるはずはありません。それに、美代さまの入内は、壬生一族にとっての好機でもありました。周りの進言もあり、壬生少納言は、悩んだ末、美代さまを入内させることにしたのです。」
少納言から美代姫の入内の話を聞かされた忠広は、一言も反論せずに、了承した。それまで右近が一度も見たことのない、悲しい笑みを湛えて。
決して強くはない美代姫をそばで支えてほしい、と少納言と忠広に頼まれた右近は、美代姫付きの女房として、美代姫に仕えることになった。
「入内した美代さまを、主上は、それはそれは大切にされておりました。お忙しい毎日のなかにほんのすこしでもお時間があれば、美代さまのお部屋へいらっしゃっていたほどです。入内したばかりで、なおかつ宮中においては最も身分の低い美代さまが、長く主上にお仕えしている宮中の誰よりもお上に寵愛されているという事実は、誰の目からも明らかでした。主上の寵愛を一身に受ける――女人方にとってこれほどの幸せはありません。しかし、美代さまの場合にかぎっては、これはむしろ悲劇でしかなかったのです」
宮中での生活を思い出したのか、右近の顔が曇った。
「美代さまの入内後、少納言だった壬生さまは中納言の位を主上から賜りましたが、それでも美代さまのご身分が宮中で一番低いことには変わりありませんでした。身分の低い者が、主上の寵愛を誰よりも受けていることを、快しとしない者は大勢おり、左大臣を父君にもつ北の方をはじめとして、姫君や女房たちから、嫌がらせを受けるようになったのです。」
気の弱い美代姫は、彼女たちの嫌がらせに、ただ耐えることしかできなかった。何をされても涙をこぼさず静かに耐え忍ぶ姿はいっそう彼女たちを逆撫でし、嫌がらせは激しさを増していった。主上も美代姫が嫌がらせを受けていることを知っていたが、皮肉なことに、主上が美代姫を庇えば庇うほどに、主上の見えないところで、嫌がらせは度を越えていったという。衣装がぼろぼろに引き裂かれていたり、襟元に刃物が仕込まれていたり、食事に虫が入れられていたり、お部屋の廊下を汚されたり……。そのようなことが日常茶飯事となり、美代姫は、日に日にお心を病んでいった。
「主上にお仕えしていた忠広さまは、宮中で耳にする美代さまの境遇に、心をいためておりました。けれども、忠広さまに、なにができたでしょう。入内前に親しかった忠広さまと美代さまがお会いになっているところを見られれば、また人になにを言われるか……。なにより美代さまが、忠広さまに頼ろうとはしませんでした。ご自分にかかわることで、忠広さまの評判になにかあれば、と気にかけていらっしゃったのです。」
入内して半年後。
例年より早く満開になった桜の下で、美代姫は、主上に見取られて、亡くなった。
「美代さまが亡くなられて、私はまた、忠広さまにお仕えすることになりました。久方ぶりにお会いした忠広さまのお変わりように、驚かずにはいられませんでした。快活としていたお顔はすっかりやつれてしまわれていたのです。」
美代姫の入内後、忠広に縁談の話は何度か持ち上がっていたが、忠広は、どの女人にも合おうとはしなかった。忠広は美代姫のことを、忘れることができなかったのだ。
「お仕事はこれまでどおり変わらずこなされておりましたが、やはり、美代さまを失くされた悲しみは深いようで、忠広さまが以前のように笑われることはありませんでした。そして」
右近は一旦言葉を切ると、深く息を吐いた。白いお顔に、悲痛さが滲む。
「忠広さまが、おかたさまをお造りになられたのは、それから三ヶ月ほどしたころの、雨の晩のことです。」