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宇治で解かれる事件手帳  作者: 柏木弓依
~忘れ形見の章~(全8話)
30/54

四.

 呉羽が言ったように、佳衣姫が亡くなっていたという部屋はきれいに片付けれていて殺風景だった。庭に面したその部屋にときおり、雨の香りに混じった色とりどりの花の香りがそうっと漂ってくる。来たときには止んでいた雨も、とうとうまた降り始めたようだった。

 「一度、こちらを離れてもよろしいでしょうか」

 落ち葉の君と少将を部屋へ案内した呉羽は、遠慮がちに言った。

 「まだ奥にいろいろと残してきておりまして……。このお部屋でしたらご自由にご覧になってかまいませんから」

 「これは長いことお時間をとらせてしまいすみません」

 落ち葉の君は静かに言った。

 「なにかお困りのことがございましたら、近くの女房にお声をおかけください。わたくしも奥におりますから」

 すまなそうに部屋を出て行く呉羽を見送ってから、ついに少将が口を開いた。

 「あの、落ち葉の君さま、どうしていきなり佳衣さまのお部屋をお調べになるのですか? 今回の事件に関係があるのですか?」

 「それはまだ分かりません」

 床に敷かれた畳を注意深く観察しながら、落ち葉の君は短く答えてから、

 「ただ、呉羽さまは一つ嘘をつかれました」

 「嘘……?」

 「はい」 

 少将は落ち葉の君がちょこちょこと室内を動き回るのを眺めながら、言葉の続きを待った。落ち葉の君は庭側の畳の表面を撫でたり、そっとその匂いを嗅いでいたかと思えば、すっと立ち上がって廊下側の畳の表面を撫でたり、そうかと思えば部屋の隅に置かれた踏み台の上に立って天井や柱を調べている。やがて少将の視線に気づいて、ふっと顔を向けた。

 「あの、呉羽さまのついた嘘がなんなのか、わたしにも教えていただきたいなと思いまして」

 邪魔をしてしまったとおそるおそる尋ねた少将に、落ち葉の君は涼やかで少し冷たいいつもの声で

 「佳衣姫さまはおそらく病で亡くなったのではありません」

 「え? どういうことですか?」

 「この辺りの畳と、あちらの畳とを見てなにかお気づきになりませんか?」

と、室内の廊下側の畳と庭側の畳とを指し示す。少将はしばらく難しそうな表情を浮かべて室内を行ったり来たりしながら畳を睨みつけていたが、やがて降参したようなすこし情けない表情を浮かべて落ち葉の君に答えを求めた。

 「この部屋の畳のうち、庭に面したこちら側の畳はごく最近張り替えられたものです」

 落ち葉の君の言葉を聞いて、少将は改めて畳を見た。たしかに、廊下側の畳は色が黒ずんでいて、ところどころ毛羽立っているのに対し、庭側の畳はまだあざやかな色をしていて触った感触もさらさらとしている。それも縦横九尺(約三メートル)くらいの範囲で畳の色が変わっていた。

 「匂いも、こちらの畳のほうがまだ新品の藺草の匂いがしますよ」

そう言われて、少将も色のまだ明るい畳の匂いを嗅いでみる。たしかに藺草の香りがはっきりと残っていた。

 「確かにそうですね……。庭側のほうがまだ新しい。でも、これと佳衣さまの死とどう関係があるのですか?」

 すると落ち葉の君はふわっとしゃがんでまだ新しい畳の表面を撫でながら、

 「この張り替えられた畳の状態から推測して、おそらく張り替えられたあとこの部屋は使われなくなりました。もし人が生活していたなら、表面がもっとかさかさとしているはずでこのようななめらかさは保てないからです。張り替えられた時期はいつごろか――おそらく、佳衣姫さまが亡くなられた後、ここ三週間ほどの間でしょう。ではなぜ佳衣姫さまの亡くなったあと畳が張り替えられたのか……それも廊下側の畳は張り替えずにこの庭側の畳だけです」

 「えっと、それは佳衣姫さまが亡くなってしまったあとの暗い雰囲気を変えるためでは……?」

落ち葉の君は首を降った。

 「それならこのように中途半端に廊下側だけそのままにせず、この部屋の全ての畳を張り替えるほうが自然です。庭側の畳だけを張り替えた理由――それは畳が張り替えざるを得ない状態になってしまったからです」

 「えっと、それはつまり……?」

 「橘少将なら、どういうときに畳を張り替えられますか?」

 落ち葉の君の何もかもを見通すような瞳が、少将に向けられた。その涼しげな瞳に少将はどきりとして、慌てて視線を下げる。

 「張り替えるときですか……。えっと……長い間使ってぼろぼろになってもう使えなくなったとき?」

 「他には?」

 「他ですか……。そうですね……」

 つとめて難しい顔をして少将は考え込んでいたが、やがて自信なさそうに答える。

 「畳がどうしようもなく汚れてしまったとき」

 その答えに、落ち葉の君は満足そうにうなずく。

 「それが今回、庭側の畳だけが張り替えられた理由です。庭側畳だけ、佳衣姫さまが亡くなられたときに汚れてしまったから急遽張り替えられたのです。さて、ここでまた一つ奇妙な点があります。病の人がこれだけの広さの畳を果たして汚すのか、という点です」

 「嘔吐した場合は……」

そう言いかけて、少将は口をつぐんだ。どんなに嘔吐しても、これだけの広さの畳は張り替えない。しかも、新しい畳に張り替えられている場所にも同じ畳があったであろう廊下側の古い畳一枚の大きさは、そんなに大きくない。仮に嘔吐が原因で張り替えるにしても、張り替えすぎだった。

 「嘔吐なら、たぶんこんなに張り替えないですね……。たぶん多くて二枚でしょう。でも六枚ほども張り替えられています。もし佳衣さまが伝染病のようなものにかかっていらしたとしたら、一部ではなく全ての畳を張り替えるでしょうし……」

 落ち葉の君はまた小さくうなずく。それから音もなく踏み台を持ってくると、その上に立って一本の梁を指し示した。 

 「これがなんの跡か、おわかりになりますか?」

 落ち葉の君が示す梁は庭側の梁のうちの一本だった。その梁の調度真ん中あたりに一周、最近何かが擦れたような跡が残っている。

 「なにか、紐のようなものを巻いていたみたいですねぇ」

 暢気な声の少将とは反対に、落ち葉の君の声は冷たく鋭い。

 「ただ紐を巻いていただけでは、このようにこすれた跡はつきません。これは丈夫な縄のようなものをこの梁に巻いた後、さらにとても重さのあるものを勢いよくぶら下げたときに縄がこすれてできたものです」

 「はあ……」

 よく分からない、という風に少将は落ち葉の君を見る。

 落ち葉の君はすぐには答えなかった。石のような重さをもった粒として次々に激しく降り注ぐ雨音が、静かになった室内を満たしていく。

 「ここに巻かれていた縄の先に勢いよく下げられたもの――それは、佳衣姫さまです。佳衣姫さまは、病で亡くなったのではなく自殺されたのです」

 庭を背に立つ落ち葉の君の斜め上のほうで、一筋の稲妻があおくはしった。




 佳衣姫の死について少将と落ち葉の君が話している頃――。薄暗いお部屋に、呉羽はいた。自分に与えられた部屋だった。

 堤大納言のお屋敷では呉羽を含めて女房は五人ほど仕えていたが、住み込んでいるのは呉羽だけだった。他の若い女房や大納言の付き人たちは皆、夕方になるとそれぞれのお屋敷へと帰るのだ。それは堤大納言が決めたことだった。

 他の女房や付き人たちの知らない夜の『堤家』を、呉羽だけは知っていた。他の女房は決して知る由のない、このお屋敷の夜を。

 呉羽は中様ちゅうよう(当時貴族たちが手紙のやりとりに使った上質な紙)をにぎっていた。桜色の表面には亡き北の方そっくりの繊細で美しい文字で和歌が綴られている。佳衣姫がこの世に残した最後の和歌だった。

 「あのとき、姫さまのお言葉に背いてでも止めに入るべきでした……。そうしたら、こんなことにはならなかった。わたくしは、おかたさまを裏切ってしまった……」

 正座の上に載せられた左手が、強く強く握り締められていく。

 すすり泣く声は強い雨音にかき消され、呉羽の周りだけにわだかまっていった。

 

 

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