第二話
「わざわざ京からとは、ようこそいらっしゃいました。粗末な家ですが、どうぞ」
良正法師は人懐こい笑みをうかべて康之少将と惟雅を迎え入れた。
法師が言ったとおり、出家した身分にふさわしい、無駄のない家だった。あたりは木に囲まれ、雑音の一切ないこの場所は、修行するにはもってこいであろう。
「実は友人の滋川清行から、あなたのことをうかがいまして」
「彼のことはよく存じておりますよ。私が京におりましたときには、話を聞いていただいたり、お世話になったものです。あれほど優秀な陰陽師を私は知りません。お元気でしたか?」
法師は清行をとても買っているようだった。相変わらず陰陽術に励んでおりますよ、と答えると法師は陽気に笑った。
「今日はお尋ねしたいことがありまして」
「宇治の山に住む姫君のことでは」
少将も惟雅も驚いて法師をみた。法師は朗らかに笑っていた。
「あなたがたのような風流人がこのような山奥までわざわざいらっしゃるとしたら、それしかないでしょう。今までも、何人もの男のかたが、どこからか姫君の話を聞きつけては会えるよう取り計らってくれとやってきました。姫君を自分の屋敷に住まわせたい、と姫君の分の牛車まで用意してきたかたもいらっしゃったほどです」
どうやら法師は少将が宇治の姫君に逢いに来たと思っているらしい。口調は穏やかだったが、「そういう目的なら取り計らうつもりはない」と暗にほのめかしているようにも聞こえた。
「法師、わたしはその姫君に求婚しに来たわけではないのです。その……滋川にも解決できないことがありまして、彼がその姫君なら何か分かるかもしれないと申しておりましたので、お力を貸していただきたく、こうしてやってきました」
「なんと、あの滋川さまにも出来ないことがあったとは。そういうことでしたか」
法師は少将が色恋を求めてやってきたのではないとわかって安心したのか、少し警戒を解いたようだった。
「それならば、私から姫君に手紙を差し上げておきましょう。あちらからお返事がきましたら、ご案内します」
「法師、実は……その……時間がないのです。今すぐに、姫君のところへお連れくださいませんか?」
少将の言葉に、さすがの法師もやや迷惑そうな目を向けた。少将の心の奥を探るような視線だった。
「姫君は、大変内気なかたでして、まず手紙を書いてからお連れするように、と私は言われております。もし、どうしても、とおっしゃるのでしたらその理由をお聞かせ願いたい。」
少将は惟雅をみた。惟雅も「お手上げです」というように肩をすくめた。姫君に会うためには話すしかないようだな――そう判断すると、法師に向かって座りなおした。
「これからの話は内密にお願いします」
「おかたさま? どうなさったのですか? ぼんやりなさって」
女房に呼ばれた女主人はぼんやりと空を眺めていた。色白で透きとおった肌、墨を流したように黒くつややかな髪。言葉どおり、絵に描いたような美しいその女主人は凛とした声で
「いえ……とくに。ただ、妙な胸騒ぎがするのです」
「はい?」
女房は不思議そうに女主人の次の言葉を待った。やや丸い体型の、おっとりとした品格のある女房だった。女主人ほどの美しさはないが、やはり肌は白く透きとおっていて、髪はつややかな黒髪をしていた。
「なにか……わたくしの生活が変わるような……そんな気がしてならないのです」
女主人のみている風景の中で、一羽の真っ黒なミコトリ(ホオジロの一種)が、空に舞った。
「妹君さまが失踪を」
康之少将は、良正法師にこれまでのいきさつを全て話していた。父の橘中納言から「内密に」と言われていたが、少将にとってはもう知ったことではなかった。とにかく、このままでは橘家は全てを失いかねない。世を捨てた者には話してもかまわないだろうと思っていた。
「そういうことでしたら、ご案内しましょう。ただ先ほど申し上げましたように、姫君は大変内気なかたですから、必ずお話できるかどうかは分かりません。それでもよろしいでしょうか」
かまわない、という少将の返事を聞くと、法師は出掛ける用意をするから戸口のところで待っているようにと言った。
「では、まいりましょうか。この山道では牛車はかえって不便でしょう。歩いたほうが早いと思いますよ」
道は決して歩きやすくはなかった。辺りは鬱蒼としていて、草木は自然にまかせての伸び放題。今にも鹿や熊が出てくるのではないかと思うほどだった。
「こんなところに住んでいる姫君とはどのようなかたなのでしょうね」
微妙な表情で耳打ちしてきた惟雅に、少将も首をひねるしかなかった。
「ここには、ほかにも住んでいらっしゃるかたはいるのですか?」
少将は足元に気をつけながら法師に話しかけた。
「いいえ、めったにおりませんよ。こんな山奥をわざわざ選ぶような物好きは、私くらいのものです。夜は鹿の鳴き声などがしますからね。なかなか住もうなどと思わないでしょう。そういえば、今朝、どこかのかたが牛車でこの山道を登ろうとしていましたが、それはもう、大変そうでした。あんまり様子がお気の毒だったので、途中まで手伝ってあげたのです。私は、家までお車を押すのをお手伝いしようとおもっていたのですが、途中で相手に、もう一人でいいからと固く断られましてね。京からやってきたかたのようで、それなりに立派な格好をなさっていましたよ。この山を牛車で登ろうとするなんて。普段こういう場所にはいらっしゃらないのでしょうねぇ」
法師の言葉には、どこか皮肉めいた響きがあった。せっかく手を貸そうと申し出たのを途中で断られたのが、気に入らなかったのかもしれない、と少将は思った。
「法師は、その姫君とは親しいのですか?」
「そうですねぇ、親しいといえば、親しいかもしれません。私がこの山へ来る前から住んでいらっしゃいました。女房と二人暮らしのようですが、どうしてこんな山奥を選んだのか。一度、姫君のお力に助けていただいたことがあったのですよ。あのとき助けていただいていなければ、私は今ここにはいられませんでした」
突然、漆黒のミコトリが三人の目の前を横切っていった。
「……今のは、ミコトリ、ですかね」
惟雅が誰に尋ねるわけでもなくつぶやいた。
「そのようだが……あんなに真っ黒なミコトリは初めてみたよ」
少将は横切っていった鳥を思い返えしていた。くちばしの先から足先まで、全身が真っ黒だった。
「おそらく、この宇治の山にしかいない種類だと思いますよ」
見慣れているのだろう、法師はなんでもない風に微笑んでいたが、少将は墨で塗りつぶしたように黒かった鳥に感じた、あの得体の知れない不快感を消せなかった。
「こちらが、姫君のお屋敷です」
実際のところ、屋敷というにはあまりにも粗末な家だった。法師の住まいとかわりはなく、建物は小さくて、また嵐がきたら屋根などは飛んでいくのでは、と心配してしまうほどだった。そして、ほのかな墨の匂いに包まれていた。
「まあ、これは良正法師さま」
やや丸い体型の優しそうな顔つきの女性――その姫君の女房だろうと少将は思った――が法師をみつけて嬉しそうに近づいてきた。
「右近さま。お元気そうですね」
「はい。おかげさまで。こちらのかたがたは?」
右近と呼ばれた女は不審そうに少将と惟雅をみた。
「はじめまして。わたしは橘康之、こちらはわたしの乳兄弟で付き人の惟雅と申します。今日は姫君にお願いがあって参りました」
少将は相手の警戒心を和らげようとしたつもりだったが、右近の目つきはかわらなかった。優しそうな人柄だが、主人である姫君への忠誠心は並一通りではないように感じられた。
「実は」
「おかたさまへの縁談でしたら、お断り申し上げます」
右近は少将の目をまっすぐに見据えてきっぱりと言い放った。一歩も引かない強い目つきだった。それからやや非難めいた視線を法師に向けて
「こういうことはまずお手紙を、と以前申しましたが」
「申し訳ありません。しかし右近さま、橘少将はそのようなお話をするために参ったのではないのです。落ち葉の君さまのあのお力で、どうか少将を助けて差しあげてください」
法師が頭を下げたのに続いて、少将も惟雅もお願いしますと頭を下げた。
右近はそれをみて迷惑そうに
「……おかたさまをお呼びしてまいります。ただ、必ずお話しできるとはお思いにならないでくださいね」
ふかいため息をつくと、三人を簀子へと案内し、御簾のむこうへとひっこんでいった。
「姫君は落ち葉の君とおっしゃるのですね」
右近の嫌がりようといい、よほど人とかかわるのが苦手な姫君なのだなと少将は思った。法師はうなすいて
「落ち葉の君さまは今までに何人ものかたから求婚されましたが、ただの一度もお逢いになろうとはしませんでした。もし今日お話しできたなら、私の存じ上げているかたのなかでは橘少将が姫君とお話しした最初のかたになるでしょう」
三人は落ち葉の君がやってくるのを待った。いつのまにか日は暮れかけていて、ただでさえうっそうとした山は重い闇につつまれつつあった。
しばらくして、申し訳なさそうな顔をした右近がでてきた。少将も惟雅もその顔つきから姫君の答えを悟った。
「申し訳ありませんが、おかたさまはお会いしたくないとのことです」
「どうしてですか! 話ぐらい、聞いていただいてもよいではないですか!」
惟雅が右近につっかかるのを、少将は手で制した。
「右近さん、落ち葉の君さまが物から残像を読み取れるというのは本当ですか」
今度は少将が、右近の目を見据えてたずねた。右近も目をそらさずに答えた。
「はい」
「どんな物でも、読み取ることができるのですか」
「はい。少なくとも、今まで読み取れなかったことは一度もございません」
右近の目は女主人への忠誠心と信頼に満ちていた。少将はうなづくと法師にむかって
「良正法師さま、今日はありがとうございました。私はこのままここに残りますので、先にお帰りください」
「少将! もう日も暮れています! 今この山から下りないと、今日はもう帰れませんよ!」
惟雅の言うとおり、辺りはもう、ほとんど闇に包まれている。今下山しなければ、朝までは身動きが取れないだろう。
「惟雅も先に帰ってくれてかまわない。わたしは姫君に話を聞いていただけるまでここに残る」
法師も惟雅も右近も驚いて少将を見つめた。
「正気ですか! 少将! このようなところでお一人で夜を明かされるなどとは! 物の怪が現れたらどうなさるおつもりですか! 危険すぎます!」
法師も少将をなだめるように
「私もこの山で、それに外で夜を明かすのはどうかと……。明日、また日が昇ってから出直すのが」
「わたしには時間がないのです!」
少将は法師の言葉をさえぎって右近に向き直った。
「わたしには三日、いえ、もう二日しかありません。二日以内に失踪した妹を見つけなければ、私の一族はおしまいです。今ここに持っている和歌と手紙しか手がかりはありません。あの清行でさえ何の手がかりもつかめなかった。もうあとは落ち葉の君さまに頼るしかないのです」
少将の熱意におされて、右近は思わずたじろいだ。
「しかし、おかたさまは」
「御簾の向こうにいらっしゃるのでしょう? 落ち葉の君さまにお話を聞いていただけるまで、私はここに居続けます」
少将の目には右近と同じくらいの一歩も引かない強い決意があらわれていた。
惟雅は明日の朝にお迎えにあがりますと言い残して、法師と山をおりていった。
「それなら……どうぞ。私は失礼させていただきますが……」
心底困ったように家の中へ戻っていく右近の背中を見送ると、闇に一人残された少将は、簀子に腰かけて空を見上げた。
「あと二日、か」
夜空には、禍々しいほど完璧な満月が、青白い光を放っていた。