三.
しとしとと雨が降り注ぐ中、落ち葉の君と少将と舘内の三人は堤大納言の遺体が発見された場所に来ていた。今はもう、血溜まりも鼻を捻じ曲げるような異臭もすっかりと雨に流されてしまったようだった。
「堤大納言が吊るされていた木は、これです」
舘内が示す木の前に、落ち葉の君は静かに立つ。天に向かってそびえたつようにずっしりと生えているその太い木と向き合う落ち葉の君は、いっそう、か弱げで儚げな姫君に見えた。
「少し静かにしていていただけますか?」
おだやかな声でそう言うと、落ち葉の君は差していた傘をたたんで、そっとそのか細い両手で木の幹に触れて目を閉じた。風が吹いて、あちこちの葉が揺れ、小さな雨粒がぱらぱらと落ち葉の君に落ちてくる。少将はすっと横に立つと、落ち葉の君を雨粒から守るように、自分の傘を落ち葉の君の上に差した。 さわさわさわと雨が木の葉を打つ音が辺りを覆い、土の独特な香りがあたりにたちこめる。ときおり、傘の淵から雨粒が垂れて、少将の肩をしっとりと濡らしていたが、少将はそれに気づかないようで、ただただ落ち葉の君をそっと見守っている。舘内も生真面目そうな表情を浮かべて、落ち葉の君の後姿をじっと見つめていた。
それから少しして――。
「そういうことでしたか」
落ち葉の君はそっと両手を幹から離した。それからゆっくりと目の前の木を見上げ、少将が傘を差してくれていたことに気づいて、少しはにかんだ。
「傘を、ありがとうございます」
少将はすこし頬を赤らめながら
「いえ、大したことでは。それより、どうでしたか?」
と真顔にもどった。
「ここには、確かに犯人たちの『想い』が残っていました」
「で、どんな犯人なんですか?」
「……」
落ち葉の君はすぐには答えなかった。いつもなら、凛とした声で「ことづてを受け取りました」と言い放ち、滔々と話し出す落ち葉の君が、どことなく悲しげな、哀れむような表情をして、目の前の木を見つめている。まるで、目の前に立っている誰かを、哀れむようだった。
「今回の事件の犯人は二人います」
さわさわと雨音が響く中、落ち葉の君がゆっくりと口を開いた。
「二人!? 誰ですか?」
「まだ分かりません。ただ、犯人は、女性と男性です」
「女性……。ですか?」
舘内と少将は不意をつかれたように顔を見合わせた。あれほどの暴行の傷跡、体に刻まれた文字から、犯人は男性だろうと決めてかかっていた舘内と少将にとって、落ち葉の君の発言は衝撃的だった。
霧のようだった雨は次第に強くなり、雨音が激しくなる中、落ち葉の君の凛とした声が続ける。
「ひとつ、舘内さまにお聞きしたいことがあります」
落ち葉の君はすっと振り返る。少将の肩ほどくらいしかないその小柄な立ち姿はしかし、切れ味のするどい雰囲気をほのかに纏っていた。雨の香りに一瞬、墨の香りがのせられる。
緊張したように、舘内の肩がこわばる。
「堤大納言と亡くなられた北の方との間には女の子が一人いらっしゃいますか?」
「ええ。佳衣さまという十八歳の一の君さまがいらっしゃいました。ただ……」
舘内は先を言いよどんだ。
「ただ?」
「三週間ほど前に、亡くなられています。あまりに急なことだったので詳しい事情は分からないのですが」
「そのことなら、わたしも聞きました。たしか病とかで突然……」
そうですか――と落ち葉の君はうなずく。
「その佳衣さまのもとに通われていた方はいらっしゃったのでしょうか?」
「いないはずです」
舘内と少将は断言した。そのはっきりとした返答に不思議そうな落ち葉の君に、舘内は続けた。
「堤大納言はたった一人の北の方の忘れ形見である佳衣さまをことに大切にされていて、佳衣さまに文を届けようとする人を片端から遠ざけていたのです」
少将もうなずきながら
「わたしのまわりにも佳衣さまに文を出したものはたくさんいましたが、誰一人として、佳衣さまからお返事をいただいたものはいなかったようです」
堤大納言が佳衣姫を大切にしているという話は、宮中ではかなり知られた話であった。大納言という父をもつ女人を妻に、と考える貴族たちは当然多く、そのためいろいろな貴族たちが競って文を届けさせたが、結局誰一人として返事をもらえたものはいなかった。
堤大納言が全て処分していたのである。
「女房にも文などを取り次がないようきつく言いつけて、それでも取り次がせようとした女房は容赦なく暇を出されていましたし、垣間見すらもさせない徹底振りだったのですよ。本当に徹底していました」
少将の話に舘内もうなずきながら
「一時期、『佳衣さまは本当にいらっしゃるのか』って噂になるほどでしたね」
「その噂、わたしも宮中で耳にしました。結局、誰とも文を交わさずに亡くなられたのですね……。落ち葉の君さま?」
少将と舘内の話を聞いた落ち葉の君は、いつの間にかまた木に向き直ってなにやら考えているようだった。ときおり、何かを小声でつぶやくのが聞こえたが、内容までは聞き取れない。風にあおられた雨粒が落ち葉の君の纏った小袿の背を濡らした。
やがてまたすっと少将と舘内の方を振り返ると涼しげな声で言い放った。
「『我罪人也』の意味を明らかにする前にいくつかはっきりとさせなくてはならないことがあります。ここで得られる手がかりは、全て得ました。次は――そうですね、堤大納言のお屋敷に行きましょう。呉羽さまのお話も伺ってみたいですから」
堤大納言のお屋敷を訪れたのは次の日だった。昨日一日中降り続けていた雨は、今は止んでいるものの、またいつ振り出してもおかしくないような空の色をしている。
少将と落ち葉の君を出迎えたのは、女房の中で一番年上の呉羽だった。堤大納言の失踪に最初に気づいた女房でもある。
「あの、落ち葉の君さま、まだ舘内少尉がいらしてないのですが」
呉羽の案内にしたがってお屋敷の奥の部屋へ向かう途中、そっと少将が落ち葉の君に耳打ちした。すると落ち葉の君は小さくうなずいて
「舘内少尉には、今日は別のことをお願いしているのです。なのでここへはいらっしゃいません」
「そうなんですか」
「――どうぞ、こちらです」
少し狭いが、風通しのよいお部屋に案内された二人は呉羽に促されるままにそっと座った。それに続いて、呉羽も二人の正面にすっと正座する。雨の匂いを含んだ風がさあっと室内を通り過ぎた。
「このたびのこと、心よりお悔やみもうしあげます」
落ち葉の君が小さく頭を下げると呉羽は
「ありがとうございます。本当にあのような酷い事件に巻き込まれてしまったらもう……」
と言葉を詰まらせる。
「やはりみなさまが話していらっしゃるように、気のおかしい者に、堤さまは殺されてしまったのでしょうか」
「それは違います」
涼やかな声ではっきりと断言する落ち葉の君に、呉羽は納得いかないような表情を返す。
「気のおかしな犯人の事件だとするには、いくつか不自然な点があります。そのうちの一つが、遺体に残されていた『我罪人也』の言葉ですが、あれは犯人からのことづてです」
あの文字も本当にひどい……と呉羽はため息をついた。
「わたくしはもう何年も堤さまにお仕えしてきましたが、今回の事件の犯人に心当たりが全くないのです」
「呉羽さまはいつから堤大納言のもとでお仕えされているのですか?」
呉羽は時を遡るような遠い視線をすこし漂わせる。
「亡くなられた、おかたさまとご結婚されてからです。ですからもう二十年近くになりますかね」
「そんなにですか!」
それまで静かに聞いていた少将が驚いた。
「もともと、わたくしはおかたさまのもとでお仕えしておりました。歳が一つ下だったわたくしに、おかたさまはいつもとてもよくしてくださりました。堤さまとご結婚されたのは十七歳のときでしたが、そのときにわたくしもこちらのお屋敷に参ったのです。それから佳衣姫さまがお生まれになって……。あの頃は、幸せでした」
呉羽は遠い記憶をいとおしむような表情を浮かべた。
「その佳衣姫さまですが、先日亡くなられたと聞いております」
呉羽はうなずいた。そのお顔にかげりがともる。
「ええ。病でした。以前から体調を崩されていて……」
「お葬式などはされたのですか」
「堤さまのお言葉に従って、屋敷の者だけで小さく済ませました」
うつむいて話す声がすこし震えていた。気まずく沈黙した空気をなんとか和らげようと、呉羽は顔を上げてよわよわしく微笑む。
「姫さまはおかたさまの唯一の忘れ形見だったんです。本当に、姫さまはおかたさまによく似ていらっしゃいました。おかたさまの亡くなられた後は多忙な堤さまに代わってわたくしが大切にお育てして参りましたが、成長されるにしたがっていっそうおかたさまによく似た女人になられて。それなのにあのような若さで突然亡くなられてしまったのが、今でもつらくて……」
話しながら、正座の上に添えていた両手が硬く握られていく。透明な涙が静かに落ちていった。
「佳衣姫さまにはお付き合いされていた方がいらっしゃらなかったと聞いたのですが、それは本当ですか?」
呉羽はうなずいた。
「ええ、本当です。あまたの文や和歌がいつも送られてきましたが、決して堤さまはそれを姫さまにお渡しになるようなことはありませんでした。堤さまも、姫さまのことをとても大事に思っていらっしゃいましたから。」
そうですか、とつぶやくと落ち葉の君は黙り込んだ。感情をほとんど表に出さないその整った横顔からはなにも読み取れないが、考えをめぐらせているに違いなかった。
やがて、涙をぬぐった呉羽が静かに
「他になにかお聞きになりたいことはございますか」
「そうですね、もしよろしければ佳衣姫さまが亡くなられたお部屋を見せていただけないでしょうか」
「姫さまのお部屋ですか?」
不思議そうにする呉羽につづいて少将も
「落ち葉の君さま、今日は堤大納言のことを聞きに来たのでは?」
落ち葉の君は答えなかった。けれどその凛とした雰囲気から、けして気まぐれで言っているのではなくなにか考えがあるのだろうと少将は感じた。
「もう片付けてしまっておりますが、それでもよろしいでしょうか」
不安そうに尋ね返す呉羽に、落ち葉の君は涼しげな声で答える。
「かまいません。ありがとうございます」
少将はよくわからないまま、静かに呉羽と落ち葉の君の後ろについていった。