二.
それから五日後――。
降り続いていた雨が一時的に止んでいるお昼頃。
落ち葉の君のお屋敷を、橘少将とともに一人の検非違使が訪ねてきていた。辺りには雨の匂いや土の香りが立ち込めていて、すこし空気も霧がかっている。
「私は、今回の事件を調べることになりました、舘内と申します。落ち葉の姫君さまのこれまでのご活躍は、検非違使たちの間でも評判になっております」
緊張した面持ちでお辞儀をした彼は、少将よりも若い、小柄な青年だった。去年の秋に検非違使の少尉に就いたばかりの彼にとって、初めて担当する事件が今回の堤大納言の事件であった。
そこはかとないあどけなさは残っているが、責任感のありそうな、正義感のにじみ出た瞳を御簾の向こうの落ち葉の君に向けて、背筋を伸ばして正座している。
「一週間前の事件のことでしょうか」
落ち葉の君の凛とした声に、舘内はうなづく。
「はい。実は、その……全くどうしていいか分からなくて困っているんです。でも亡くなられたのが堤大納言ですし、あのような酷い事件なので、早く解決しなくてはならなくて……」
堤大納言は次の内大臣に、と噂されていた権力者で、現右大臣にも気に入られていた。そのような人があのような無残な事件に巻き込まれたのだから、周囲が早く事態をはっきりさせるようにと検非違使たちをせつくのも自然なことといえる。
「どうか、今回の事件の解決に、協力していただけないでしょうか。ご迷惑なのは重々承知しております。どうか、お願いします」
落ち葉の君が静かに吐息をつくのが御簾越しに座る二人のもとに伝わった。けれどそこには、拒絶するような感じはなかった。
「ひとまず、事件前のことからお話していただけませんか?」
「はい。今分かっていることを全てお話申し上げます」
舘内はほうほうと湯気の立つお茶を一口含むと、事件の数日前のことから話し始めた。
「呉羽という女房の話では堤大納言が失踪されたのはご遺体が見つかった日の五日前だったそうです――」
落ち葉の君や少将が堤大納言の遺体を見つける五日前の朝方。いつものように朝食を用意した女房の呉羽が大納言の部屋へ行くと、そこで休んでいるはずの大納言はいなかった。寝具が、朝方大納言がするように片付けられていたため、夜中のうちにどこかへ出掛けたのだろうと呉羽は思ったという。
「そのようなことは普段からよくあるのですか?」
少将の質問に舘内は首を振った。
「それが、女房たちの話によればここ数十年ほどなかったそうなんです」
「恋人のもとで夜を明かされるようなことも?」
不思議そうな落ち葉の君に舘内は
「堤大納言には北の方さま以外に恋人はいらっしゃらなかったようです。その北の方さまが十年前に亡くなられて以後、新しい恋人もいらっしゃらなかったと、女房たちが話していました」
その話なら少将も聞いたことがあった。北の方を誰よりも寵愛していた堤大納言は、北の方の死後、周囲に再婚を勧められたが全く聞く耳をもたなかったという。
「堤大納言にとっては、北の方さまのことを忘れることができなかったのでしょうね」
しみじみとつぶやく少将に、舘内も静かにうなずいた。
「女房たちはお昼には屋敷に大納言が戻られるだろうと待っていたそうですが、ついに翌日になっても戻ってきませんでした。それで大騒ぎになって……」
宮中では、今まで遅刻すらしたことのない大納言の無断欠席に、右大臣をはじめとして皆がさまざまな憶測をささやきあった。そのうちのいくつかは、少将もここ数日度々耳にしていたのだった。
「遺体は詳しく調べられたのですか?」
落ち葉の君が涼やかな声で訊いた。
「はい……。本当に酷い遺体で……。亡くなられた直接の原因は首を絞められたことでした。ただ、その前に激しい暴行を受けられたようで、お顔を含めて全身に痛々しい痕がいくつも残っていました。それから、足首と手首を紐のようなもので縛られていたようで、くっきりと痕が残っていました。あとはご覧になられたとおりです。口にはきつく布が巻かれていて、それから、その……」
言いよどんだ舘野は、あの無残な遺体を思い出して顔をゆがめ、うつむいた。暗い空気がその場を支配するようにわだかまる。
いつの間にかまた雨が強く降り出したようで、あたりの音を吸い込むように雨音が絶えず聞こえてくる。
「検非違使たちの間では、その……犯人は気がおかしい男だという話になっているんです」
わだかまった暗い雰囲気のなかで、ぽつりと舘内がつぶやいた。検非違使たちの間でもこれまであのような酷い状態の遺体見たものはいず、話題にすることもはばかられるような状態になっていた。ほとんどの検非違使たちが手がかりの少ない残虐で気味の悪い今回の事件の担当になることを嫌がり、半ば押し付けられるようにして少尉になりたての舘野が担当になったのである。
「それはおそらく違います」
落ち葉の君ははっきりと否定した。
「この事件は、正常な判断力と、ある確固とした目的をもったものによる殺人事件です」
「で、でも大納言のあの遺体は……」
困惑したような表情の少将と舘内に落ち葉の君は揺らぎなく続ける。
「残虐な殺人を好むものによる事件だとすると、いくつか奇妙な点があるのです」
「奇妙な点?」
「はい。まず首を吊ったようなかたちで遺体が木につるされていたことです。残虐な殺人を好む犯人は、被害者を痛めつけることに快感を覚えるのがふつうです。そういった場合は被害者が亡くなってしまった後、つまり遺体となってしまったあとはあのように木につるしたりせずにどこかに捨ててしまうものです。しかし遺体はあのように木に吊るされていた……。それもまるで首を吊ったように、です。また、あの遺体の先は埋葬地であることも無視できません。それにここ二週間ほどは毎日のように雨が降っていますから、犯人は雨の中あるいは雨が止んだ一時にわざわざ遺体をあの場所まで運んで木に吊るしたことになります。男性一人を木に吊るすだけでかなりの労力がかかるにもかかわらず、このような天気の悪い日に、ただ事件の残忍性だけを求める犯人がそのようなことをするでしょうか。それに吊るしているところを人に見られる危険性も十分にありえたはずです。そんな危険を冒してまで、なぜ犯人は遺体を、あの場所につるしたのでしょう」
落ち葉の君の問いかけに、誰もすぐには答えられなかった。舘内は難しそうな表情を浮かべて考え込んでいる。
停滞してしまった重苦しい空気をとばすように、涼しげな声で落ち葉の君は続ける。
「それからもう一点。手足を縛っていた紐は解き、口を縛っていた布だけをそのままにしたのはなぜなのでしょうか。そして最後に、あの言葉です。」
「言葉?」
「胸からお腹にかけて刻まれていた文字を憶えていらっしゃいませんか?」
「『我罪人也』のことですか?」
黒ずんだ文字を思い出したのか、少将はかすかに顔をしかめる。
「そうです。あれは刃物で身体にあの文字を刻んでから墨を流し込んでできあがったものです。ただ人を残忍な方法で殺める犯人は、あのような言葉をわざわざ遺体に刻むようなことはしません。あれは犯人が伝えたかったことだと思います」
「伝えるって、何をですか?」
「世間に知られていない、堤大納言の犯した罪です」
「でも、堤大納言は罪を犯すような人ではないと思うのですが……」
少将のつぶやきに、舘内も小さくうなずいて
「確かに、今の地位まで上り詰めるためにそれ相応のことはしてきたと思いますけれど、でもだからといってこんなことになるような後ろめたいことはなさらないような方でした」
堤中納言の京での評判は、悪いどころかむしろ良かった。周囲を敵に回さずに地位を上げていく立ち回り方を知っていたのだ。
「どれほど立派で聡明な人にも、なにかしら表にできないことはあるものです」
何かに思いをはせるように、ため息とともに小さくもれ出た落ち葉の君のそのつぶやきは、しかし、これまでの堤大納言の噂や立ち振る舞いの記憶を必死に辿っている少将の耳には届かなかった。
「ところで今日は、事件の手がかりはお持ちではないのですか?」
落ち葉の君に舘内は心底残念そうな声で答えた。
「実は、それができないんです。唯一の犯人の手がかりとなる堤大納言のご遺体を縛っていた布や紐は、回収してしまって外部に持ち出せない状態なのです。今日こちらへ持ってくる許可も下りませんでした」
「そんな……。それでは『残像』が読み取れない。『残像』が見えなければ、この先どうしようも……」
少将が困り果てた表情を浮かべてうつむく。
御簾を隔てた空間に、再び重い空気がわだかまりだす。
と、御簾の向こうで落ち葉の君がすっと動く気配がして、顔を上げた。
「これ以上こうしていても、進展はありません。まずは、遺体の見つかった場所に、もう一度行ってみましょう」
「で、でもあの場所は検非違使が片してしまって手がかりになるようなものはもうなにもありませんよ」
「いえ、あの場所そのものが一つの大切な手がかりなのです」
御簾の向こうで出掛けの準備をはじめた姫君につられて、慌てて立ち上がった少将と舘内はその涼しげな声に一瞬動きを止めた。
「それは、どういうことですか?」
「犯人は雨の中わざわざ遺体をあの場所まで運び、遺体の首に縄をかけ、木に吊るしました。あの場所には、犯人をそうまでさせた『想い』が今も深く根を下ろしているはずです。凶器などと同じように、あの場所には犯人の『想い』が深く刻まれています。その『想い』がどのようなものなのか――それを見に行きましょう」