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宇治で解かれる事件手帳  作者: 柏木弓依
~忘れ形見の章~(全8話)
27/54

一.

しずしずと雨が連日降り注ぐなか、「次期内大臣に」と目されていた男が宇治で全裸の遺体となって発見された。『我罪人也われはつみびとなり』と刻みこまれた検非違使たちも見たことのない残虐な遺体に、落ち葉の君は鋭いまなざしを向ける。「今回の事件の犯人は、気のおかしい者ではありません。むしろ、正常な判断力と、ある確固とした目的をもった者による事件です」凛とした涼しげな声で、そう落ち葉の君は断言するが、果たして遺体に残された言葉の意味とは一体――?

*『宇治で解かれる事件手帳』の六作目。


 

 澄んだ夜空をくすませるような霧のように柔らかい雨が静かに降り注ぐ夜。一人の女君が、静かな微笑を浮かべて屋敷の庭を眺めていた。

 その視線は、とくに何かを見ているわけではなかった。

 彼女の視界では春を待ち望んでいた色とりどりの花が咲き乱れていたが、どの花一つとして、彼女の瞳を惹きつけるものはなかった。

 それならば、何に対して微笑んでいるのか――うっすらとむなしさの漂う微笑みであった。

 女君はそうしてしばらく庭をぼんやりと眺めていたが、やがてすっと立ち上がると、梁からたらされている縄の前に踏み台を置き、ふわりとその上に立った。

 それから容易なことでは切れそうにない縄の端をそっと手で持ち、ためらうことなく静かにその細い首に巻きつけていく。

 その間もやはり、微笑みを浮かべている。

 ――なにかを、あきらめたような、なにかに見切りをつけたような、そんな表情――。

 

 か弱げな両足が踏み台を蹴る。

 口元には、わずかに微笑が残っていた。 




 それから約二週間後の、絹のように繊細な雨が舞い落ちるお昼すぎ――。

 少しの汚れもついていない、真っ白な狩衣を優しく纏った一人の男が、とあるお屋敷の部屋で静かに座っていた。糸のように細い目が特徴的な陰陽師、滋川清行である。

 「せっかく来てくださったのに、このような見苦しい部屋で申し訳ありません」

 盆に二つの湯飲みをのせて、加茂友平が静かに部屋に入ってきた。少し猫背で小柄な青年。清行が前に友平と会ったとき、彼の顔には青痣がたくさんあったが、今は一つも見当たらなかった。清行の前に静かに自分も座ると、湯飲みの1つを清行の前に差し出し、お茶を注ぐ。

 「京を離れられるというお話は、本当だったのですね」

清行の言葉に友平はうなずいた。

 加茂友平は由緒ある陰陽師一族、加茂家に生まれた陰陽師であったが、数ヶ月前に事件を起こしたため、今は官位を剥奪されていた。そして来週には東へ下ることが決まっている。以前友平のお屋敷には、彼以外に付き人などがいたが、今は友平以外の気配はなく閑散としていて、部屋の隅にはいくつか荷物がまとめられていた。 

 「……穏やかな瞳をされておられますね」

 友平の丸い瞳はもう、清行の知っている焦燥感や苛立ちにあふれた瞳ではない。友平は寂しげに微笑んで湯呑みに口をつけた。

 「それで、お話というのは?」

 「はい」

 清行は姿勢を改めて正すと、真剣なまなざしでまっすぐ友平と丸い瞳を見つめた。

 「加茂忠広さまについての記録を見せていただきたいのです。加茂家の宗家である友平さまなら、なにかお持ちではと思いまして」

 加茂忠広、の名前を聞いた瞬間、それまで穏やかだった友平の表情に明らかに不快感がにじみ出た。二人の間に、灰色の空気が影を投げかける。

 友平はため息を一つ落とすと、

 「……申し訳ありませんが、滋川さまにお見せすることはできません。罪人であるわたしが言えることではございませんが、加茂忠広は、わたしたち一族の間でも大変忌まわしい存在とされているのです。加茂家の誰もが思い出したくない、触れられたくはない闇の歴史なのです。滋川さまがどうして記録をご覧になりがたられるのか存じませんが、滋川家の方にお見せすることはできません。滋川さまを信用していないというわけではないのですが、これについてはわたしだけの問題ではなく、加茂家の者全てに関わってくる問題ですので……」

 硬い友平の表情を見て、清行も小さくうなずいた。

 友平に断られることは、初めから予想していたことではあった。対立関係にある滋川家の、それも次期当主候補の自分に、友平が自分の一族の汚点である記録を快く見せてくれるとは思っていなかった。

 加茂家の社会的な地位や評判は、友平の事件のためにまたもや著しく下がっている。加茂家の陰陽師を頼りにしていた貴族たちは競うようにして離れていったため窮地に立たされていた。しかしその一方で滋川家の評判は、事件解決に清行が関わっていたこともあり、ますます上がっていた。加茂家を遠ざけた貴族たちは代わりに滋川家の陰陽師を頼るようになったのである。

 そんな状況だったから、清行が加茂家の忌まわしい過去である忠広の記録を使って加茂家に決定的な打撃を与えるのでは、と友平が心配したのも無理はないだろう。

 二人の間にわだかまった重苦しい空気から逃げるように、友平は湯呑みの中身を飲み干した。

 「実は、友平どのに見ていただきたいものがあるのです」

 清行は真っ白な狩衣の懐から、一冊の古びた書物を取り出した。かなり古い書物のようで、表紙のところどころが黄ばみ、よれよれとしている。清行はぱらぱらとそれをめくると、あるページを友平に見せた。

 「これは……」

 「滋川家の当主が代々書き残してきた記録です」

 開かれたページを見た友平は、驚きと当惑の入り混じった視線を清行に投げかけた。

 「まさか……。いや、でもそんなはずは……」

 友平の視線が、『加茂忠広の創りし女』と題のついた女人の絵の上を当て所なくさまよっている。四尺四寸(百三十五センチ)あまりの身長、墨を流したごとく漆黒の黒髪、と一言添えられているその女人は、友平の事件を暴いた女人そのものにしか、思えなかった。

 「この記述は三代目当主の滋川是人が書き記したものですが、ここの日付を見てください。これは、是人が不審死を遂げる三日前に書き残したものです」

 「是人さまが……」

 滋川是人は今からおよそ百五十年前に滋川家の三代目当主を務めていた陰陽師だった。是人は加茂忠広よりも十五歳年上で、それなりに頭脳明晰で優秀な陰陽師ではあったが、天才と称されていた忠広には一度も及ばなかった。常に辛酸をなめさせられてきた是人はやがて忠広の弱みを探し始め、忠広が人を創りだしていたことを知ると、それを公にしたのであった。

 これによって加茂忠広は捕らえられ、さまざまな取調べが行われたが、結局、忠広の創りだした女人については忠広が極刑を受けた後も分からなかった。 

 そして忠広の刑が執行されてから一月あまりしたころ、是人は嵐山で変死体として発見されたのである。体中に焼け爛れたような跡があったが、どうしたらそんな状態になるのか誰にも見当がつかなかった。やがて、是人の死は忠広の祟りだという噂や、是人を憎んだ加茂家の者の仕業だという噂が広まると、滋川家と加茂家の関係はさらに険悪になり、また世間の間では滋川是人と加茂忠広の話題そのものが忌まわしいものとなったのであった。

 「わたしは、三代目の死にはここに描かれている女人・・・・・・宇治の落ち葉の姫君と何らかのかかわりがあるのではないかと考えています。そして、家柄も素性も謎に包まれているあの姫君を知るために姫君を創りだした忠広さまのことを知りたいのです」

 その昔、京中の女人を束にしても敵わないと謳われた女御そっくりの顔の、あまりにも美しすぎる女人――落ち葉の姫君は百五十年前のあの忌まわしい出来ことと、必ず関係がある、そう清行は確信していた。

 友平は古びた書物を清行に返すと、その澄んだ丸い瞳で問いかけた。

 「もし是人さまの死に落ち葉の姫君さまが関係されていたとしたら、滋川さま、あなたは姫君さまをどうなさるおつもりなのですか」

 友平の丸い瞳に問いかけられた清行は言葉に詰まった。

 ――人知れずひっそりと、たった一人の付き人とともに宇治の山で暮らす姫君。

 ――今まで数多くの事件を解決してきた、凛とした姫君。

 そしてなにより、深い悲しみの底にいた幼馴染を救い出し、暖かい光を投げかけた姫君――。

 もし落ち葉の姫君が本当に人ならざるものであったなら、一体自分は――『陰陽師』としての滋川清行は――どう行動するのだろうか……。

 清行の脳裏に、仲睦まじそうにしている幼馴染と落ち葉の君の姿が浮かぶ。真実に直面する時が来たとき、自分は何を守ろうとするのだろう――。

 「……まだ……わかりません」

 ゆっくりと、慎重に言葉を選びながら口を開いた。 

 「陰陽師の使命は、人のための世である京の平安を守ることだと信じています。そのために、人ならざるものは排除しなくてはならない。人ならざるものに対抗するために、陰陽師わたしたちがいるのですから。しかし……落ち葉の姫君は……」

 波紋のない水面のような清行の瞳が暗く沈む。清行のなかで、いろいろな思いが交錯していた。

 「……私は真実が知りたいのです。あの姫君が何者で、何を思ってすごしてきたのかを。そして滋川家と加茂家に、どこまで関係しているのかを。いずれ滋川家の先頭に立つものとして、そして、姫君に強く惹かれている幼馴染の友人として、私はあの姫君について知っていなくてはならない」

 清行の物静かな、けれども奥深くに炎を秘めた瞳にひたと見据えられた友平は複雑そうな表情になった。

 柔らかい雨粒が奏でるさわさわとした雨音が聞こえてくる。

 「わかりました」

 影がかった笑みを浮かべるとゆっくりと友平は言った。

 ほうっとため息をついて

 「では三日後に、また来てくださいますか。そのときに、記録をお渡ししましょう」




 「かなり強くなってきましたね」

 橘康之少将と付き人の惟雅、そして落ち葉の君とその女房の右近は絹のように繊細な雨の降る宇治の山道を急いでいた。ここ二週間ほど雨の日が続き、今日も、朝から重たげな雲がどんよりと空に覆いかぶさっていたが、昼過ぎになるとやはり雨に変わってしまったのだった。

 少将が落ち葉の君と最後に会ってからおよそ三週間が経っていたが、その間少将は落ち葉の君とは全くやり取りをしていなかった。といってもこれは特別なことではなく、少将は普段から落ち葉の君と文を交わすこともなかった。事件が起きたときだけ会う、それだけの間柄。知り合いよりは親しく、しかし恋人ではない距離感を、少将は意識して保っていたのだった。亡き北の方への心遣いもあったが、そうして距離をとらずに近づきすぎてしまったら、この美しく奥ゆかしい姫君との関係を壊してしまうような気がしていたのだった。

 近すぎず、遠すぎない間柄。

 その微妙な距離感を、少将は大切にしていた。

 そんな少将のもとに落ち葉の君から和歌とともに文が届いたのは昨日のお昼頃だった。

 ――桜を見にいらっしゃいませんか――

 繊細で優美な文字の綴れられた文を受け取った少将は大喜びですぐに惟雅に返歌を届けさせた。そして今朝から四人は宇治の山の一画でお花見を楽しんでいたのである。

 「せっかく来ていただいていたのに、こんなふうに雨になってしまって本当に申し訳ありません」 

 落ち葉の君がすまなそうに言った。

 「いえ、雨が降ったのは誰のせいでもありませんよ。それに、美しい桜を見ることができてわたしはとても幸せです。明日になったら、きっとこの雨で散ってしまっているでしょうから」

 まとわりつくような柔らかい雨が少将や惟雅の烏帽子や狩衣を重たく濡らしていく。ぬかるんだ山道に足を取られないように気をつけながら、四人は急いだ。

 

 「あれは?」

 一番後ろから着いてきていた惟雅が、ふいに何かに気づいたように声を上げて立ち止まった。

 少将たちが振り向くと、惟雅は丸い目を細めて何かをじっと見つめている。

 「惟雅さま、どうかされましたか?」

 「あそこに、なにやら人のようなものが……」

 少将に続いて右近や落ち葉の君も惟雅のもとへやってくる。

 惟雅が指し示すすこし先には、こちらからははっきりとは見えないけれども、人の身長くらいの大きさのものが木にずっしりとぶら下がっていた。

 それはたしかに人のように見えた。ただ、人だとするなら何も身に纏っていないようだった。

 少将はなぜか背筋がぞわりとして、顔をしかめる。

 このまま、なにも見なかったことにしてこの場を離れたほうがいい、そう直感した。

 「ぼく、ちょっと見てきます」

 指貫さしぬき(ズボン)の裾が泥で汚れないように気をつけながら、木にぶら下がっている『なにか』に近寄っていく惟雅を三人はじっと見守っている。 

 奇妙な緊張感のなかで、雨が覆いかぶさるように降ってくる。

 木までたどり着いたところで、惟雅が驚きのあまり一瞬言葉を失ったのが離れていても分かった。

 それから思い出したように声にならないような叫び声を上げて数歩後ずさり、腰を抜かしてその場にへたりこんだ。

 「惟雅! どうしたんだ!」

 少将も驚いて駆け寄る。その後ろを右近と落ち葉の君も追いかける。

 惟雅の目が凝視しているものを見て、少将も思わず絶句した。

 少し遅れて追いついた右近の、物悲しい悲鳴が宇治の山に響きわたる。


 それは人だった。


 首を吊った、全裸の男の遺体。

 声を出させないように口にきつく巻かれた布。

 手首にくっきりと浮かび上がる何重にも縛られていた赤い痕。

 胸から腹部にかけて黒く浮かび上がっている、『我罪人也』の文字。

 顔にも全身にも残された、浅黒く痛々しい痣の数々。

 そして、男の両足の付け根。そこにあるはずのものが切り落とされていた。切断されたままの痕がくすんだ紅色に染まり、両足を伝って地面にまで沁みている。


 「堤……大納言……」

 「橘さまは、この方とお知り合いなのですか?」

 右近が青ざめている少将を心配そうに見つめた。

 「ええ。父と同じ太政官に勤めていた方です。よく、父の屋敷にも来てくださりました。数日前から行方不明になっていたと聞いていたのですが、まさか、こんなことに……」

 

 血の気を失った、全裸の男の青白い顔にも、卯月の冷たい雨は降り注ぐ。

 時折吹く風が、ざわざわと木々の葉をゆらし、葉についた雨粒を振り落とす。

 

 あたりに立ち込めた異臭のなかで誰もがその無残な光景に呆然とする中、落ち葉の君だけは、目の前の物言えぬ男に射抜くような鋭い視線を向けていた。


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