三度目
少将の呼びかけで右近に出迎えられた三人は、簡単な挨拶を交わすとそのままいつもの場所へと案内された。陽はもう空のかなり高いところに昇っていて、簀子に座る三人の背に、柔らかな日差しを投げかけている。
いつ来ても、時間を感じさせない心の休まる場所――落ち葉の君のお屋敷を、少将はそんな風に感じていた。京とは隔絶された、ただただ、静かな空間。ここへ来ると、気疲れのする宮中での人間関係も、わずらわしい仕事のことも、不思議と忘れられた。京にいるときはとにかく波風の立たないよう、様子を伺いながら、心に何枚もの重い仮面をかぶせていなければいけないが、ここにやってきたときだけは、自然とその仮面が外れ、素の自分でいられるのだった。
さらさらと優しい衣擦れの音が近づいてきて、御簾の向かいに落ち葉の君がそっと座る気配を感じた。座ったときの風で、ほんわかと甘い墨の香りが、少将たちのほうまでふわっと伝わる。落ち葉の君から、京の女人たちが漂わせているようなわざとらしい香の匂いがしたことはなく、それが少将には好ましかった。
「落ち葉の君さまのお力を、また貸していただけないでしょうか」
少将に続いて、清行と葛木も静かに頭を下げる。落ち葉の君は涼しげな声で
「今回は、どうなさったのですか?」
「はい、実は、こちらの葛木秋雅どのが、亡くなられた北の方さま(正妻)のことでご相談があるそうでして」
「葛木秋雅さま……もしかして、絵師の葛木さまでいらっしゃいますか?」
落ち葉の君のぽっと明るくなった声に、葛木も嬉しそうに
「私のことをご存知でなのですか?」
「ええ。葛木さまの絵の評判は、伺っております。竹取物語絵巻がとくにすばらしいそうですね」
落ち葉の君の言葉に、葛木は頬を赤らめた。謙遜しつつも嬉しそうに礼を述べる。
「では、お話をお聞かせください」
「あ、はい。ありがとうございます」
落ち葉の君に促されて、葛木はもぞもぞと姿勢を正すと、とつとつと話し始めた。
「実は、私の妻が一昨日の嵐の晩に、亡くなりました。もともと体が弱かったところを、あの晩、雨に濡れながら出掛けたことが、原因でした」
葛木は七歳年下の北の方、野風の君をとても大事にしていた。野風の君も年の大きく離れた夫を献身的に支えていたという。二人が一緒にいる様子は、絵に描いたようなおしどり夫婦だった。
ほうっとため息をついて、葛木は右近の出してくれた茶を一口飲む。葛木にとって、野風の君が亡くなってしまったことは言葉では言い表しきれないくらいつらいことだった。
「そのことで、分からないことがあるのです」
「分からないこと?」
葛木は小さくうなずいて、
「妻は、あの嵐の晩だけでなく、妻はこの三ヶ月ほど、毎晩夜遅くに私に隠れて出掛けていたのです」
「どこへお出かけになっていたかはご存じないのですか?」
落ち葉の君の問いに、葛木は心底困ったようにうなだれた。
「分かりません。浜岡という女房が、妻に付き添って出掛けていたようなのですが、どれだけ聞いても教えてくれないのです。妻から、私に行き先を決して言ってはならないと、きつく言いつけられたから話すことはできないと一点張りなのです」
「葛木さまは、いつごろから野風の姫君さまが夜にお出かけされることに気づかれたのですか?」
「一ヶ月ほど前です。ふと目覚めたら、隣にいるはずの妻がいなくて、心配になって……。次の朝はいつもどおり隣で寝ていたので、聞いてみたのですが、やっぱりそのときもはぐらかされてしまって」
葛木の表情が徐々に翳っていく。
「夜、姫君さまの跡をつけてみたことは?」
「……あります。毎晩、必ず子の刻(午後十一時~午前一時)頃にでかけていくので、不思議に思って様子を伺っていたのです。そうしたら……」
葛木の表情が、青ざめた。まるで、何かを恐ろしいものを見てしまったように、さあっっと血の気が引いていった。震える声をやっとの思いでしぼりだしながら
「市女笠をかぶって、裸足で出掛けていくのです。裸足ですよ。私は、妻が物の怪かなにかに憑かれてしまったのではないかと急に恐ろしくなってしまって……」
「ついていかなかったのですね」
「……はい」
葛木の声が沈んだ。
「亡くなられた晩も、出掛けられていたということですが、そのときも裸足だったのですか?」
「そうです。浜岡も、裸足でした。ふたりとも、擦り傷とか打ち身とかが酷くて……。おまけに、あの雨でしたから、体がとても冷えてしまっていました……」
葛木の色白の頬をすっと涙が伝う。無意識に膝の上で握り締めた拳に、その涙がぽつんとおちる。今彼の目には、冷たくなった野風の姫君が映っているに違いなかった。
「そうですか……」
落ち葉の君が、考え込むようにしばらく黙り込み、中途半端にのしかかるような重い空気が流れる。
やがて、葛木が弱弱しい声で、
「落ち葉の君さまはこれまで多くの事件を解決してきたとお聞きしました。どうか、このことも、調べていただけないでしょうか? 私は来月、唐に渡ることになっているのですが、このままではとても行けません。もし妻がなにかに憑かれていたのなら、ちゃんと供養をしてあげたいのです。それに、あんな嵐の晩にも出掛けなくてはならなかったのはなぜなのか、知りたいのです」
葛木は必死に涙をこらえながら、落ち葉の君に向かって頭を下げた。その背中は小さく小刻みに震えている。少将はそれをみて、葛木がどれだけ野風の君のことを大事に思っていたかが分かった。
「わたくしでよければ、お力になりましょう」
落ち葉の君の凛とした声は、とても優しく響いた。
「こちらを、見ていただきたいのです」
葛木は御簾越しに紅色の唐衣を渡した。とても鮮やかな深い赤色だったに違いないその唐衣には、払われてはいるもののあちこちに土がつき、また大きなシミもついている。
「妻が、あの日の晩に着ていた唐衣です」
とても良い色の唐衣ですね、と落ち葉の君が涼しげに言った。
「紅色は、妻の一番好きな色でした。なかでも、その唐衣が一番気に入っていたのです」
ふうわりと吹き込んできた春の風が、落ち葉の君と三人を隔てる御簾を静かに揺らした。かさかさと御簾はあたりの空気を揺さぶり、ほんのりとした墨の香りがふわっと漂う。
「では――」
落ち葉の君はその白い華奢な左手を、静かに唐衣の上に載せた。
暖かい陽射しが、簀子に座る三人の背中を優しく照らしている。陽射しに暖められた空気はぬるくなり、そうっと少将や葛木、清行を包んでいる。春特有の土くさい香りは――まだわからない。
「唐衣のことづて、ただいまうけとりました」
「葛木さまにお尋ねしたいことがあります」
御簾の下から、落ち葉の君はそっと唐衣を葛木に返した。
「野風の姫君さまは毎晩お出かけになるとのことでしたが、どのくらいの間お屋敷を留守にしていたかはわかりますか?」
「だいたい一刻半(三時間)から二刻(四時間)ほどだったように思います。毎晩、だいたいいつも同じくらいの時間には戻ってきていたようです」
そうですか……と落ち葉の君は考え深げにうなずくと続けて
「もしよろしければ、葛木さまのお屋敷周辺の地図を見せていただきたいのですが」
「地図、ですか?」
葛木は思わず隣に座る少将を見た。少将もまた、葛木と同じように訳がわからないという表情を浮かべている。清行は……このお屋敷に来たときから深刻そうな顔つきをして座っている。
「ここには持ってきておりません。屋敷に戻れば、あるのですが」
当惑した表情を浮かべて答えると、落ち葉の君は涼しげに言った。
「では、葛木さまのお屋敷に向かいましょう」