二度目
「今まで、事件を解決されていたのは別の方だったのですか」
清行が葛木から相談を受けた翌日、清行、葛木、橘康之少将の三人は、宇治の山道をゆっくりと登っていた。狩衣姿の多い少将は、今日は珍しく鳥襷文(模様の一種)のはいった小豆色の直衣(男性の略装)を纏っている。葛木は薄紫色と萌黄色を合わせた藤の襲の狩衣を、そして清行はいつもどおりのしわ一つない真っ白な狩衣にふんわりと身を包んでいた。
事件を解決していたのが少将だと思っていた葛木に、清行は落ち葉の君のことを話し、少将から落ち葉の君を紹介してもらおうと、まず少将のお屋敷を訪れたのだった。
「わたしは、ただ落ち葉の姫君さまと一緒だっただけですよ。いままで、いろんな事件に関わってきましたが、お恥かしいことに、一度もわたしが解決したものはないのです」
と、情けなさそうに言う少将に、清行は
「仕方がないさ。落ち葉の君さまには『あのお力』だってあるのだから」
「『あの力』というのは?」
どうやら葛木は、落ち葉の君の『残像を読み取る力』について知らないらしい。少将がこれまでの事件のことに触れながら簡単に説明すると、驚きの表情を浮かべていた。
「しかしなぁ、清行。落ち葉の姫君さまを紹介するだけなら、私はいらなかったのではないか? この前の件で清行だって落ち葉の姫君さまと親しくなられたのだから」
ところどころに咲いている小さな花を踏まないように注意して歩きながら、少将が言った。山の景色は以前来たときよりも春らしくなり、木の枝の先や地面に根を張る花にはつぼみがぷっくりとふくらんでいる。
「確かに落ち葉の姫君さまとはお知り合いにはなれたが、やはり姫君さまと付き合いの長い康之がいたほうが、なにかと話が通りやすいと思ったのだよ。それに」
清行はすっと少将に近づくと、そっと
「そのほうが康之だって安心するだろう?」
「――!」
耳打ちされた言葉に、少将は自分の顔が真っ赤になったのが分かった。思わず、見られまいと、高熱がでたように、一気に赤くなった顔をそむける。
そんな様子をおかしそうに横目で見ていた清行は、今度は葛木に話を振った。
「ところで葛木どのは、来月唐に渡られるとか?」
「はい、そうです」
「この時機に船を出すのは異例なことですよね?」
「そのようです。いつもは文月(七月)や葉月(八月)に遣唐使を送ることが多いそうですが、今回は少々、違うようでして」
遣唐使は大抵、船の到着を唐の正月の式典にあわせるため、文月や葉月に唐へ渡ることが多い。そしてこの時期は台風の起こりやすい時期でもあるので、難破することも稀ではなかった。
「唐へは、やはり絵を学びに行かれるのですか?」
清行の問いに、葛木はうなずいた。
「大変恐れ多いことなのですが、私の絵をお気に召してくださったかたがたが、今回推薦してくださったのです」
「葛木さまの竹取物語絵巻、わたしも拝見いたしました。本当に、すばらしいと思います。繊細で、とても丁寧で、見ていて心が落ち着きます」
葛木にとって竹取物語絵巻は、名が知れ渡るきっかけとなった絵だ。この絵巻が主上や女御の目に留まり、結果的には遣唐使にも選ばれるようになった。
「もったいないお言葉を、ありがとうございます」
うっとりとした少将の言葉に、葛木は少し照れながら、心底嬉しそうにお礼を述べた。
ゆっくりと山を登っていく三人を、時折、春のぬるい風がなでていく。まだ花の香りは薄かったが、柔らかい風には、春らしさが滲んでいる。
突然、三人の前を真っ黒なウグイスが横切り、三人は驚いたように立ち止まった。空を切るように飛んでいったウグイスは、そのまま近くの梅の木の枝先に留まった。
「……あれは……ウグイスでしょうか? あんなに真っ黒な種類がいたとは……それに、ずいぶんと低い位置を飛んでいきましたね」
梅の花をつついている、漆黒のウグイスを見上げながら、葛木がつぶやく。
「……そういえば、以前にもウグイスではなかったけれど、あのように真っ黒いミコトリをみたことがあります。たしか……この山でしか見られない種だとか……」
少将は、初めてこの山にやってきたときに見た、漆黒のミコトリのことを思い出していた。今のように突然横切って飛んでいった、くちばしから足先まで真っ黒だったミコトリ。なぜか、あれを見たときに、居心地の悪い不吉さを感じたのだった。
「……ちがう」
突然、清行が険しい声を発した。
「ちがう?」
少将には答えず、清行は懐からすっと扇をとりだし、閉じたまま、狙いを定めるようにウグイスを指した。そして人差し指と中指を立てた左手をそっと口元に持っていくと、かろうじて聞き取れるくらいの低い、ぼそぼそとした声で、言葉を唱え始める。少将にとっても葛木にとっても、清行の口から滑り出てくる呪文のような言葉は、それまで聞いたことのない響きの言葉だった。
「あ、あの……滋川さま?」
突然、真剣な表情で聞きなれない言葉を発し始めた清行に心配そうに近づこうとする葛木を、少将は手で制した。
「今は、だめです。今は」
清行はまだ唱えている。一転して鋭くなったその瞳は、瞬きすることもなく漆黒のミコトリを見つめている。それまで緩やかだった場の空気に鋭い緊張が走り、葛木は息を止めてウグイスと清行を見つめている。
すると――突然――三人の見ている目の前で――真っ黒なウグイスがぱしゃんと破裂した。
――いや、破裂したように、少将には見えた。それまでウグイスの形をしていたものが突然破裂し、中から真っ黒な液体が飛び散ったように。
「うわぁっ。な、なんですかっ」
真っ黒な液体は、それまで漆黒の鳥が留まっていた枝やそばの梅の花を黒く染め、また葛木たちのほうまで飛び散った。
葛木の色白の頬や、清行の真っ白な狩衣に、まだら模様の黒い染みをつける。
「こ、これは墨……?」
手や狩衣にかかった液体の匂いをそっと嗅いだ葛木が、驚いたように言った。少将も直衣にかかった液体の匂いに、
「墨……ですね……」
少将は呆然と立ちすくんでいる清行の横顔を見た。いつも冷静そのものの表情には、明らかに動揺が浮かんでいた。ほんのりと赤みが差しているはずの頬が、今はすうっと青ざめている。
「清行……?」
まるで雷に打たれたかのように放心状態の姿に、少将は恐る恐る声をかけた。居心地の良くない空気が、その場に重く圧し掛かっている。
「これは……この術は……。いやしかし……ありえない……」
「『ありえない』って、どうしたんだ?」
心配そうな少将と視線のあった清行の澄んだ黒い瞳は、ゆらゆらと揺れていた。こんなに狼狽している清行を見たのは、少将は初めてだった。
「文献で、読んだことがある……。あれは、さっきのウグイスは、式神の一種なのだが、普通の陰陽師では扱えない、とても難しい、式神なのだよ……。わたしでさえ、いや、歴史上あの式神を扱えた陰陽師は、おそらくいない……。ただ一人を除いて」
どこかでばさばさと鳥が飛んでいる。昼が一瞬で夕方になってしまったような気味の悪さを、少将は感じた。さっきまで春を感じさせていた心地良い風が、妙にまとわり憑く。山に茂っている木々の陰に、何かが潜んで聞き耳を立てているような気持ちの悪ささえ感じる。
「まさか、その一人って……前に清行が話した……」
ふと思い当たって、少将は顔を上げた。
清行の深い、黒い瞳と目があい、思い当たる人物が同じであることを察した。
「百五十年前の京で、加茂家の全盛を築いた天才陰陽師、加茂忠広。後にも先にも、この術を使えたのは、彼しかいない」
そのままその場にとどまっているわけにも行かないので、また三人は歩き始めた。どことなく、まだ重たい空気を背負っている。
「あの……思ったのですが……」
葛木が、口を開いて、重たい沈黙を破った。
「さっきのは、その加茂というかたが作った式神が、今も残っていたのではないのでしょうか?」
「なるほど」
少将もその意見には同感だった。
「清行、そういうことはないのか?」
「それはおそらくないでしょう」
前を向いたまま、やんわりと清行は葛木の考えを否定した。
「式神や術は、術者が死んでしまえば、解けてしまうものなのです。つまり先ほどの式神は今生きている術者によるもの。そしてあの墨を使った式神は加茂忠広が自ら生み出した術で、その方法は加茂家の者でさえ知らされていなかった。だから誰にも真似することはできないはずなのです」
「そうなのですか……」
葛木が小さくうなずく。
「ということは、清行。まさか、加茂忠広という術師がまだ生きているということなのか?」
少将はすっと青ざめた。加茂忠広は、百五十年前に極刑に処せられたことになっている。
「いや、そんなはずはない。そもそも人間が百五十年も生きるなど……。それに加茂忠広は間違いなく極刑を受けている。記録だって残っている」
「極刑って、一体何をしてしまったのですか?」
顔を引きつらせる葛木に、少将は
「人間を創り、主上のお怒りに触れてしまったそうです」
「に、人間を?」
葛木の表情が、薄気味悪そうに青ざめる。
「百五十年前の陰陽師の亡霊、か……。清行、この謎も落ち葉の君に相談してみるか?」
話しに熱中するうち、三人は森の少し開けた場所にやってきていた。
飾り気の全くない、お屋敷と呼ぶにはあまりにもこじんまりとしすぎている、小さな建物。漆黒の黒髪の、謎めいた美しい女人が、たった一人の付き人とひっそりと暮らしているお屋敷。
両脇には梅の木が生え、紅色の花をいっぱいに咲かせている。ふわぁっと風が吹いて、まるで夢のように花びらが舞った。
「……いや、まずは葛木どのが先だ」
墨の飛び散った白い狩衣の肩に、舞っていた紅色の小さな花びらが一枚、そっと乗っかった。