一度目
あらすじ:
京で有名な絵師の妻が亡くなった。嵐の晩に出かけたために健康を損ねて亡くなったその女人は、毎晩決まった時刻に素足でどこかへ出かけていたという。行き先を調べてほしいと絵師から頼まれた少将と落ち葉の君は女人の着ていた唐衣を手がかりに、謎を解き明かしていくが――。
*『宇治で解かれる事件手帳』の五作目。
「おかたさま、もうあと少しでございます!」
大粒の雨が降り注ぐ、丑の刻(午前一時~午前三時ごろ)。地上のものを全てなぎ倒すような強風が吹き抜ける路上に、二人の女がいた。
おかたさま――そう呼びかけられたほうの女は気を失っているのか、すっかり顔は青白くなり、もう一人の女に背負われている。
二人の袿は雨に打たれ、泥にまみれ、まるで死人のように二人の肌にまとわりついている。つややかな美しい髪も、今は亡霊のように二人の背に張り付いている。痣や擦り傷にまみれた痛々しげな素足を一歩一歩踏み出すたびに、主人を背負っている女の顔には痛みが走った。
「浜岡……」
不意に、女主人が亡霊のようなか細い声で、女の名前を呼んだ。
「いままでのこと……けっして殿には言わないで……。わたくしに……なにがあっても……」
「おかたさま! 気をしっかりもってくださいまし!」
真っ暗な闇のなかで、女――浜岡は、背中の女主人に叫びかける。
「もうすぐで、お屋敷でございますから!」
――ピシャァァァン!
閃光がくぐもった空を切り裂いたかと思うと、体中を振るわせる、不吉な雷鳴が轟いた。
――ピシャァァァン!
雨脚は強まるばかりで、容赦なく二人をたたきつける。空を稲妻が駆け抜ける。二人の体温はどんどん奪われ、肌は冷水のごとく冷えていった。
「……浜岡……殿には……何があっても、内緒、ですよ……」
「おかたさまぁ!」
弥生(三月)の上旬の、ある嵐の晩のことだった。
――帝のお屋敷であり、さまざまな儀式が執り行われる大内裏。
一昨日の嵐ですっかり荒れ果てていた庭は、ようやく手入れが行き届いたのか、散乱していた土や木の枝などはすっかりなくなっている。根をむき出しにしていた草も元通りにされ、着々と花を咲かせる用意を進めているようだった。
「……また、桜の季節なのだな」
渡殿(廊下)に独り、ぼんやりと佇んで庭を眺めていた陰陽師の滋川清行は、だれに言うわけでもなくつぶやいた。
今日の清行は、真っ白な狩衣姿ではなく、窠文(模様の一種)の入った真っ黒な束帯(男性の正装)に身を包んでいる。
清行の視界の中で、桜の木がふくふくとしたつぼみをつけていた。もうあと数週間もすれば、先を争うように花開き、柔らかい春の風にさわさわと葉はなびくのだろう。
ところどころに重たそうなつぼみをつけた桜の木を眺めているうちに、清行は自然と、加茂博明のことを思い出していた。部下でもあり、同じ志を持っていた陰陽師、加茂博明。ちょうどこのくらいの季節になると、清行と博明はこの渡殿に立って桜の木を眺めながら、いつごろこの桜は咲くのだろうかと賭けをしたり、お互いの志について語ったりしたものだった。
「……今年の桜は、あと二週間だな」
「滋川さまー」
まだぼんやりとしたままその場を離れようとした清行は、不意に後ろから呼ばれて我に返った。振り返ると、清行よりも七歳ほど年上の男が駆け寄ってくる。
「葛木どのではないですか」
葛木と呼ばれた男は清行のところまでくると、少し乱れた息を整えてから、会釈した。
葛木秋雅――少し背の低い色白で華奢な体格をした、人のよさそうな顔の秋雅は、繊細で丁寧な、潔い絵を描く絵師である。身分は六位と低く、昇殿(主上のお部屋に出入りすること)は許されていなかったが、近頃宮中で彼の絵の評判が高まり、異例なことではあるが、主上に頼まれ絵を描きに昇殿するようになっていた。三ヶ月ほど前には遣唐使にも指名され、来月には唐に渡ることが決まっている。
「実は、滋川さまに、お願いしたいことがございまして」
「なんでしょう?」
清行と秋雅は宮中で会えば挨拶をするくらいで、個人的に親しい間柄ではなかった。そもそも宮中で変わり者と見られている清行と個人的に親しいのは、今は亡き友人の加茂博明と幼馴染の橘康之くらいであるし、秋雅のほうも、宮中を訪れるようになったのはつい最近のことで、また身分の壁もあり、親しい人は、まだいなかった。
「実は、その……一昨日、私の妻が亡くなったことについてなのですが……」
「野風の姫君さまのことでございますか?」
遠慮がちに、秋雅はうなずく。
秋雅の北の方、野風の君が一昨日亡くなったという話は、清行も聞いていた。もともとお体は弱かったそうだが、直接的な原因は、あの嵐の晩に雨に濡れながら出かけたことらしい。
「そのことで、その……分からないことがございまして……」
秋雅は見るからに緊張していた。自分のほうが歳上であるとはいえ、身分は清行のほうがずっと高かったし、なにより秋雅が清行について聞いていた評判が『(実力はあっても)態度の大きい傲慢な変人陰陽師』というものだったからだ。
「はい、なんでしょうか?」
清行はいつも宮中で人に接するときの、すこし距離をとったもの静かな声で先を促す。
やがて秋雅は、意を決したようにうなずくと、
「ご無礼を承知でお願いがございます。滋川さまには、どんな奇妙な出来事も、たちどころに解決されてしまう、ご友人がいらっしゃるとお聞きしました。その方を私に紹介していただけないでしょうか?」
「そういえば、久しぶりでございますね」
宇治にひっそりと建っている、落ち葉の君のお屋敷では、いつものように墨の香りが漂っていた。
落ち葉の君は簀子に座って、絵を描いていた。細くて白い指先が優しく握る細筆が、流れるように紙の上を滑っていく。繊細で、優雅な筆づかい――。さらさらとあっという間に描き終えられた漆黒のウグイスは、ゆうらゆうらと紙から浮かび上がると、霞んだ雲が浮かぶ空へ飛び立っていった。
「以前はそうしてよく絵を描いていらっしゃいました」
硯箱に筆を置いた落ち葉の君の隣に、右近がそっと座り、自分の分と落ち葉の君の分の茶を注いだ。
「最近は、あまり退屈を感じませんでしたから……」
ふわふわと白い湯気を立てている茶を一口含んでから、静かに落ち葉の君が言った。
「おかたさまは……近頃なんだか幸せそうでございます」
「幸せそう――?」
不思議そうに首をかしげる落ち葉の君に、ええ、と右近は微笑んでうなずく。どんな人でも、暖かく包み込むような、優しい微笑みだった。
「もう長いことおかたさまのおそばにおりましたから、わかります。今までのおかたさまは、まるで感情を失くしてしまった人形のようでした」
「……」
「やはり……橘さまがいらっしゃるようになったからでしょうか?」
からかうような右近の言葉に、落ち葉の君は驚いたような、困ったような表情を浮かべた。それから、何か言おうとして、口を開いたが、でてきたのは小さなため息だった。
「変わられたといえば、橘さまも随分お変わりになられましたわ」
右近はぼんやりと庭を眺めたまま言った。
「そうでしょうか?」
「ええ」
目の前の桜の木の枝に、落ち葉の君の描いたウグイスがさぱさぱっと留まる。
「はじめていらしたときの橘さまも、重たい、暗い影を背負っていらっしゃるようでした。なにか、悲しいことを背負っていらっしゃったようで」
右近の言葉を聴きながら、落ち葉の君は、初めて少将と話した月夜のことを思い出していた。御簾をはさんだ向かい側で、あまりにも寂しそうに泣いていたから、思わず声を掛けたのだった。それまで何人もの男が落ち葉の君に会いに来たが、落ち葉の君から声を掛けたのはあの夜だけだった。
「おかたさま。もし、橘さまと――」
そこまで言いかけて、右近ははっとして口をつぐんだ。その先は、この女主人には絶対に言ってはいけない言葉だった。重たい沈黙が二人の間を漂い、いたたまれなくなって、右近は思わずうつむいた。
「……右近」
漆黒のウグイスを見つめた、落ち葉の君の色白のお顔に、かすかな笑みが浮かんだ。
「わたくしはいつまで、このような日々を過ごせるのでしょうか……」
その凛とした涼やかなそのお声は、とても寂しそうだった。