第四夜
博明の屋敷を出た三人は、今度は兄の友平の屋敷に向かっていた。三条大路に建つ友平の屋敷は意外にこじんまりとした、たいして大きくない屋敷だった。
「これはこれは、よくいらっしゃいました」
加茂友平は、薄紫色の狩衣をふんわりと纏った、小柄な青年だった。小柄に見えるのは猫背のせいもあるが、それでも平均的な身長の清行や少将よりも背が低かった。そして、なにより目を引いたのは、顔や腕のあちこちにできた、青痣や切り傷、かさぶただった。指先にも細かい切り傷があり、爪には土が入り込んでいる。
「あの……それは……?」
部屋へ通され、友平に進められるままに円座に腰をおろすと、真っ先に少将が尋ねた。
「ああ、これですか。修行中の怪我です。ここのところ、休みなく術の稽古をしておりましたから」
「そうでしたか。友平さまは、いつも高野川のそばで修行されているとお聞きしましたが」
これは、先ほど治憲が教えてくれたことだった。
「よくご存知ですね。そうです。特に夜の高野川は、とても薄気味悪いところなので、修行には調度良いのです」
努力家なのですね、という素直な少将の言葉に、友平は照れくさそうに赤くなった。
「弟のことについてでしたね」
友平に促された落ち葉の君が、口を開く。
「ええ。博明さまが加茂家の当主を継ぐことは、一月ほど前にはすでに決まっていたと聞きましたが、間違いはありませんか?」
友平はうなずいた。
「現当主は――わたしの父のことですが――近頃はなにかと臥せりがちなのです。それで、いつなにがあってもいいようにと、一月ほど前に、当主を決めようという動きがおこりました」
「率直にお尋ねしますが」
落ち葉の君は、その切れ長の澄んだ視線をまっすぐに友平に向けた。
「友平さまは博明さまが当主になられること、どのように思っていらっしゃいましたか?」
一瞬、友平の丸い瞳に影が走ったように、見えた。それでも、全てを見透かすような澄んだ視線から視線を離せずに
「……衝撃的ではありました」
本心を隠すかのような、苦笑いするその表情を見つめたまま、落ち葉の君はさらに
「悔しくはありませんでしたか?」
その言葉に、友平は固まった。膝の上においていた手のひらが、無意識のうちにぎゅっと強く握り締められていく。
「それは……もちろん……素直に受け入れられるものではありませんでした。まだ博明は十五ですから、早いとあの人には何度も言ったのですが……」
友平は父、将之のことを『あの人』と呼んだ。実の親子にしては、妙な呼び方だなと少将は思った。
「よく眠れていないのですか?」
突然、落ち葉の君が話題を変えた。
「え?」
「目の辺りに隈ができていらっしゃるので」
落ち葉の君はそう言って、細い色白の指で目の周りを示す。たしかに友平の目のまわりには青黒い隈ができている。
「ええ。まあ。最近、少し疲れていまして」
友平は重いため息を一つつくと、微妙な笑い浮かべた。ぎこちない、微妙な笑みだった。
「……分かりました。どうもありがとうございました」
落ち葉の君はそう言って、深く、頭を下げる。
友平が驚いたように
「あの、もうよろしいのですか?」
「ええ。お時間を割いていただき、ありがとうございました。もしよろしければ、友平さまのお付きのかたにも、お話を伺いたいのですが、よろしいでしょうか」
かまいませんよ、と快く友平は応じ、付き人を呼びに部屋を出て行った。それを見送ってから、落ち葉の君は小声で少将に言った。
「橘さまと滋川さまに、お願いがございます」
「なんでしょう?」
「友平さまのお付きのかたがいらしたら、ここ二週間の間、友平さまが夜お出かけになられたのはいつか、尋ねてくださいませんか?」
「博明どのが亡くなられた晩だけでなく、二週間ですか?」
落ち葉の君は静かにうなずく。
「『緑衣の女』が目撃された日に、友平さまがお屋敷にいたのかどうか知りたいのです。わたくしは、陽が落ちないうちに行かなくてはならないところがあります。。お分かりになりましたら、今夜、お屋敷まできてくださいまし。時刻は……そうですね、子の刻(午前零時)くらいが良いでしょう」
わかりました、と少将が言うと、清行のほうを向いて
「お屋敷に来てくださるとき、滋川さまにお願いがございます。白い狩衣と烏帽子を持ってきていただきたいのです」
「烏帽子と狩衣、ですか?」
落ち葉の君は微笑んで、
「汚れてもよいものを持ってきてください」
落ち葉の君は、意味ありげな、ほのかな微笑を浮かべている。少将はその横顔が、落ち葉の君がなにかにたどり着いたときの表情だと悟った。事件のほとんどが分かりかけて、もう真実まであとちょっとのときに見せる、優雅だがどこか冷たさのある微笑だ。その微笑はまるで刀の刃先のような微笑だと、少将は思ったことがある。
「わかりました」
「では」
落ち葉の君が立ち上がった拍子に紅梅色の小袿が、花びらのようにふわぁっと風になびいた。
「では橘さま、滋川さま、おねがいします。上手くいけば、今晩にも、『緑衣の女』の正体が分かるでしょう」
そう言い切る落ち葉の君の表情には、ほのかな自信が見え隠れしていた。
それから数刻後――。
「おかたさま、お帰りなさいませ」
落ち葉の君が宇治のお屋敷に戻ったのは酉の刻(午後六時ごろ)だった。陽はとっくに沈み、いっそう冷たさを増した風にさらされていた頬はさらに白くなっている。
落ち葉の君がふわっと座った隣に、懸盤(皿を載せる一人膳)を持った右近も座る。懸盤には、とても大人が食べる量とは思えない――子供が食べるのでは、と思うほどの量のお粥が用意されているだけだった。やんわりとした湯気が、ふわふわとお粥からのぼっている。落ち葉の君の、いつもの食事だった。
「おかたさま、なんですか? これは?」
傍らに置かれた、布に包まれた大きなものを見た右近が、驚いて聞いた。両手で抱えてようやく運べそうな大きなそれは、土のようなものが包まれているのか湿っぽい香りを漂わせている。
「『緑衣の女』の正体です」
あっさりと言う落ち葉の君に、右近はさらに驚いて
「ついにお分かりになったのですか?」
「ええ。今夜、全てを明らかにしようと思います」
涼しげな表情でそう答えて、落ち葉の君はお匙を手に取り、お粥を食べ始めた。
「……それにしても、私には不思議ですわ」
ゆっくりとお粥を口に運ぶ様子を見ながら、右近が言った。
「何がです?」
「おかたさまが今回のことに関わられたことでございますよ。まさか、滋川家のかたのお頼みをお聞きになるなんて」
その言葉に、落ち葉の君のお匙を持つ手が止まった。黙り込んで、放心したようにぼんやりと視線がさまよっている。
やがて、ゆっくりと
「……滋川さまの狩衣と、瞳のためでしょうか……」
低い、弱弱しい声だった。あの凛とした声にはちがいなかったが、胸の奥がきゅっとなるような、切ない声だった。
「わたくしにとって、滋川家も加茂家も、憎んでいるということについてあまり変わりはありません。たしかに、わたくしから平穏な、あの夢のような日々を奪ったのは滋川家です。しかし、『わたくし』という人間でもなければ物の怪でもない存在を生み出したのは、加茂家です。わたくしは……どちらの一族がより憎いかというよりはむしろ、わたくしそのものを生み出した陰陽術を憎んでいます。一体、わたくしという存在はなんのために創りだされ、なんのためにこれからも行き続けなければならないのか……。この、老いることも消えてしまうこともないこの生命は、なんのためにあるのか……」
遠い昔を思い出すような視線が、ふっとお粥に注がれる。淡くて白い湯気が、まだほわほわと立ち上っている。
「清行さまの瞳は、まるであの人のような瞳でした。まったく揺らぎのない瞳……。底深くでなにか熱いものを秘めた、波紋のたっていない水面のような静かな瞳……」
落ち葉の君の切れ長な瞳には懐かしむような優しい温かみがともった。めったに見られない、穏やかな視線。
「……いずれ滋川さまは、わたくしの正体にお気づきになられるかもしれません」
落ち葉の君の瞳が、いつもの厳しい、どこか憂いを含んだ瞳に戻った。
「まさか、そんなことは」
「一緒にいて分かります。あのかたは、ほかの陰陽師とは違ってとても勘の良いかたです。わたくしに漂うわずかな妖気も、あのかたなら感じ取るかもしれません」
右近の顔から、笑みが消えた。
「も、もしそうなら、おかたさまが……」
不安におびえる右近の横顔を、灯台の火がゆうらゆうらと照らしだす。落ち葉の君は憂いを含んだ冷たい表情のまま、
「……そのときは、そのときでしょう」
とつぶやき、静かにまたお粥を口に運んだ。
「落ち葉の君さまぁー」
子の刻(午前零時)を少し過ぎた真夜中。表で少将の声が落ち葉の君を呼んだ。待っていたかのように、落ち葉の君は右近とともに表に出る。片手に松明をもつ少将と、風呂敷包みをもった清行が戸口に立っていた。
「こんばんは」
少将が嬉しそうに挨拶をした。落ち葉の君は微笑を返し
「どうでしたか?」
少将は少し興奮気味に、
「付き人に聞いたところ、友平どのがお屋敷を留守にした夜に、『緑衣の女』が目撃されています」
「やはりそうでしたか――。滋川さまは、お願いしたものは持ってきていただけましたか?」
「こちらに」
そう言って、左手に抱える風呂敷包みを示す。落ち葉の君は満足そうにうなずくと、鈴が鳴るような声で
「では参りましょう」
「参るとは、どこに?」
「友平さまのお屋敷です。『緑衣の女』の怪、明らかにしようではありませんか」
少将は落ち葉の君の表情に、思わずぞくりとした。
ぱちぱちと音をたてて燃える松明の炎が闇に浮かび上がらせていたそのお顔には、氷の面のような微笑が浮かんでいたのだった。