第一話
あらすじ:
ある秋の日、入内を4日前に控えた姫君が、突然屋敷から姿を消した。残されたのは有名な在原業平の和歌と恋人の存在を告げる手紙。わずかな手がかりをもとに、失踪した姫君を探す橘少将が助けを求めたのは、「物から残像を読み取る」という不思議な能力を持った美しい姫君だった。
*『宇治で解かれる事件手帳』の一作目。
「お逃げください! 早く!」
「嫌です! 殿をおいて逃げるなんて、わたくしにはできません!」
「化け物め! でてきやがれ!」
何人の人間が踏み込んできたのか――今となってはもう分からない。あの日、わたくしはあの人と離れたくない一心で、ただひたすら、泣き叫んでいた。ただ、いつも当たり前のように一緒だった、あの人から離れたくない一心で。
「私は必ずあなたを迎えにまいります! ですから、先にお逃げください!」
「嫌です! わたくしは」
「いたぞ! ここだ! 化け物め!」
一人の男が、そう叫んで刀を振り上げた瞬間ばらばらに吹き飛ばされた。あの人の、陰陽術によって。 男の血が、わたくしの白い小袿(女性の略装)を朱に染めた。
「わたしは必ず迎えにまいります! ですから、先にお逃げください! 右近、落ち葉の上を頼んだぞ」
「この命にかえましても、おかたさまをお守りいたします」
「殿! 右近! 離しなさい! 殿! 殿ー!」
あの人は、わたくしにむかって、初めて会ったときのようにやさしく笑った。
それが、最後に見たあの人だった。
「姫さまー? どこにいらっしゃるのですかー? 姫さまー?」
橘中納言のお屋敷には、いつもと変わらない乾いた秋風が吹いていた。中納言はとてもまじめな人柄で、たった一人の妻、夕日の上との間に三人の子をもうけていた。大君こと若菜の姫君と、中君こと康之少将、そして三の君こと紅の姫君。若菜の君は六年前に流行り病で亡くなり、康之少将は四年前に元服し、自身のお屋敷に住んでいた。そして紅の君は四日後に入内(天皇と結婚するため宮中へ入ること)をひかえている。
「姫さまー? どこにいらっしゃいますのー? 姫さまー?」
「おはよう、沖少納言。朝からどうしたのだね」
「康之少将」
紅の君に仕えている沖少納言の顔は真っ青だった。
「姫さまが、紅の君さまが……」
「また入内はいやだと駄々をこねているのかね」
――少将は知っていた。紅の君がとても入内を嫌がっていることを。入内の日が刻々とせまるにつれて、食は細くなり、夜空を眺めては目を真っ赤にし、着物の袖をびしょびしょにしていたことを。
紅の君の入内が決まったのは一ヶ月ほど前だった。しかも、恐れ多くも、主上からのお誘いだった。
『三の君さまが、亡き藤壺の女御さまに似ていらっしゃるというお話を主上さまがおききになり、ぜひにとおっしゃっているのです』
主上――光和天皇は深く寵愛なさっていた藤壺の女御さまを三ヶ月ほど前に出産で亡くしていた。それ以来、お身体はやせ、以前は暗闇さえまぶしくはねかえすような快活としていた表情も、闇にのまれたようなお顔になってしまったらしかった。
全く乱れのない黒髪に、雪のように白い肌、はかなげに微笑むおとなしい性格の紅の君が藤壺の女御さまに瓜二つであるという噂がどこから流れたのか、それは少将も知らない。そもそも、藤壺の女御さまのことさえ、少将は見たことがないのだから。
『我が一族からついに内親王がでるかもしれない』
得意満面の中納言とは対照的に、紅の君は毎日ふさぎこむようになった。毎朝、入内はいやだと少納言に泣きつき、夜になっては悲しげに月を眺め、このままかぐや姫のように昇天してしまうのではないかと思うほどだった――。
「入内の日まであと四日だものな」
「それが……」
少納言は意を決したのか、小さくうなずいて
「姫さまは、お屋敷から出て行ってしまわれましたようなのです」
「一体どいういうことだ! 紅の君が出て行っただと?」
橘中納言は、沖少納言から渡された和歌と手紙を握り締めた。
『ちはやふる かみよもきかずたつたがは からくれなゐに みづくくるとは』
『父上、申し訳ありません。わたしはどうしても入内できません。すでに、契りを結んだかたがおります。そのかたとともにすごしたいのです』
「これは、たしか在原業平朝臣の歌では」
「そんなことを聞いているのではない! 沖!」
中納言は少納言を睨みつけた。
「お前は紅の君がだれかとすでに契っていたことを知っていたのか! どういうことだ! この手紙は!」
「わたくしも……まったく存じませんでした……姫さまに、そのような方がいらしたなんて……」
少納言は顔を真っ赤にして泣いている。
「入内の日は、四日後なのだぞ! この期に及んで、いったい主上にどう申し上げろというのだ!」
「父上、あの……」
「なんだ!」
少将はためらいがちに口を開いた。
「妹は……その……身を投げたりは……」
場の空気が、硬直した。怒りに震えていた中納言も目を大きく見開いたまま、固まった。
「そんな、まさか……姫さまが……」
やがて、中納言が口をひらいた。
「……よいか、なんとしても紅の君を見つけ出すのだ。ことを公には絶対にするな! 三日以内に生きた紅の君を連れて来い。いいな」
「清行、頼むよ。占いは君たち陰陽師の得意分野だろう? 妹の居場所を見つけてくれないか」
少将はすがるように清行をみた。
「そう言われてもなぁ……。そもそも私は占いよりも悪霊とか物の怪とか、そっちのほうが得意なのだよ」
そんな目をされても、とでも言うように清行は狐のような薄笑いをうかべた。
滋川清行は康之少将の幼いころからの友人で、京では有名な陰陽師の一族、滋川家の一の君。幼いころから糸のように細い目をしていて、気の毒なことに、笑うと狐がからかっているような笑みにみえてしまった。あらゆる呪符や霊符、式紙を使いこなし、貴族の屋敷に出入りしては物の怪や悪霊を撃退してまわる腕のいい術者で、二年ほど前にはその活躍ぶりが主上のお耳にもはいって宮中にも頻繁に出入りするようになり、それ以来、主上や女御さまのおかかえ陰陽師となっている。噂では、今は亡き藤壺の女御さまの出産のときに弘徽殿の女御さまは彼を呼んでお産が失敗するよう祈祷をさせた、とか。本当のところは、分からないけれども。
ともかく、滋川清行は、今一番注目を集めている陰陽師なのだった。
生きているのかさえ分からない紅の君を三日以内に連れ帰って来い、しかも、内密に、という無茶振りな指令をうけた康之少将は、正直困り果てていた。手がかりはあの歌と手紙だけ。それも、業平の和歌は突拍子で本当に辞世の句なのかも分からない。いっそのこと、公表して大勢で探したらどうか、とも思ったが、そんなことをしたら主上のお顔に泥を塗る。主上じきじきの入内のお誘いを嫌がった挙句、ほかの男のところへ逃げたなどと分かった日には、きっと康之の一族は京にはいられなくなるだろう。
そんなわけで、少将は付き人の惟雅を連れて藁にもすがる思いで清行のところへやってきたのだった。
「なにか、手がかりになるものなら何でもかまわない。なんなら、着物のきれっぱしの場所でもいい。あと三日以内に何とかしないと橘家はおしまいなんだ」
「はいはい。とにかくやってみるよ。紅の君さまが残していった和歌と手紙を」
受け取った手紙と和歌をみた清行は眉をひそめた。
「それにしても、変な組み合わせだな」
「え?」
「みてみたまえよ、こちらの歌は文字がこんなに乱れている。紙だって、辞世の句を書くにしても、別れの句を書くにしても、もうすこし上質なものを選ぶと思うのだが。そして、こちらの手紙。これはきちんとした文字で――おそらく落ち着いて書いたのだろう――紙だって、中様(当時貴族たちが手紙のやりとりに使った上質な紙)だ。」
清行の言葉を聞いて、改めて少将は和歌と手紙をみた。たしかに、手紙と比べると和歌のほうは文字が乱れていて、ところどころ墨がはねたりもしている。
「どういことかな」
「さあ。なにか手がかりがつかめるとよいのだがな。これ、裏に書き込んでもかまわないか?」
少将がうなずいたのを確認すると、清行は硯箱と文台を用意して、紅の君の和歌と手紙の裏に独特な絵柄を書き込んだ。二十の円の中心に「滋」の文字、反時計回りに十二支の書き込まれた小さな陣。
「なにをするんだ?」
「最近、身につけた新しい術。物から残像を読み取るのだよ。うまくいくといいのだが」
にやっと少将に笑いかけた顔が狐そっくりで、化かされているような気がした。
「ちょっと静かにしていてくれたまえ」
清行は手の平を円陣の上におくと目を閉じて黙り込んだ。なにかに、気を集中させているらしい。ただでさえ細い目が、さらに細くなり、全身から緊張をかもし出している。糸が張り詰めたような空気が少将と惟雅にも伝わり、二人も静かに成り行きを見守った。
そうしてしばらくしたのち目を開けた清行はため息をつくと少将の目を見て言った。
「……康之、すまない。私には……この二つからはなんの残像も読み取れない」
沖少納言は昨日まで紅の君と過ごしていた部屋にいた。入内の日から、ずっと泣いていた姫君。あれはほかに愛していた人がいたからだったのだろうか。
「少納言、わたし、入内しますわ。父上の……ために」
別れ際にみせた、覚悟と諦めの入り混じる消え入りそうなほほえみを思い出していた。
「どういうことだ?」
康之少将は清行に迫った。
清行は悔しそうに和歌と手紙をみた。慌てて書かれた、乱れた文字の並ぶ和歌。対照的に、整然と文字が並べられた手紙。
「そもそも、残像を読み取るってどういうことをやるんだ?」
少将は苛立ちを隠せなかった。最後の頼みの綱だった清行までお手上げになるとは、思ってもいなかった。
「たいていの物には、その所有者の何らかの残像が残されているのだよ。それを、この円陣を通じて読み取ることができるのだ、ほとんどの場合は。ある場面の欠片が私の頭の中で再生されるのだが……」
「この二つからは読み取れないと。なぜだ?」
「正直、私にもなぜかがわからない。こんなことになるとは、思ってもいなかった。」
自慢の術が通用しなかったことがよほどこたえたらしい。さっきまでのもったいぶった態度は見る影もなく、しおれた雑草のようにうなだれていた。
「康之、申し訳ない。私はまだまだ未熟だったようだ……」
「君までお手上げとなるのはなぁ」
少将は仰向けに寝転んだ。八方塞。行き止まり。惟雅も少将の傍でうつむいている。
「――なあ、康之、宇治には行けないか?」
不意に清行が口を開いた。
「宇治?」
「ああ。宇治だ。以前出仕したときに聞いた話なのだがね。宇治の山奥に、どこかの姫君が女房と二人で暮らしているらしいのだが、その姫君は残像を読み取るのに優れているらしい。私のような陣もなしに読み取るそうだ。もしかしたら私以上かもしれない。」
清行が自分以外の誰かを推薦したのは初めてだった。滋川家の将来の当主として術を磨いてきた彼にとって、いままで出来なかったことはなく、たいていのことは解決できた。その彼が、自分は未熟だといい、ましてほかの誰かを推薦するなど、初めてだった。
「その姫君の場所を、教えてくれないか」
清行はすっと立ち上がると中様に名前と簡単な地図を書いて少将に手渡した。
「その人が、姫君の住んでいるところを知っている。」
『良正法師』
「たいそう美しいそうだ、その姫君は」
「……わたしには、後にも先にも、三の宮だけだよ」
少将の言葉に、清行は寂しげに笑った。