第四話
――ごめんなさい。ごめんなさい。
青音の上は、夢をみていた。夢の中で、頭を殴られまいと必死にかばいながら、ひたすらに、ただ、謝りつづけている。
――ごめんなさい。ごめんなさい
悪夢の中で、青音の上は引きずりまわされ、突き飛ばされ、蹴飛ばされていた。体のあちこちが赤く腫れ、激しい痛みに覆われていく。
――ごめんなさい。ごめんなさい。
泣き叫びながら謝罪するが、獣となった相手に懺悔の言葉は届かない。体中が悲鳴をあげ、少しずつ気も遠くなっていく。
――このまま、死んでしまうのだろうか。
暴力の嵐を受ける儚い姫君の脳裏に、ふとよぎった考え。
――このまま、消えてしまうのだろうか。
もう、なにがどうなっているのか分からない。目に映る世界が、だんだんと遠くなっていく……。
――おかたさま! ――お止めください!
――おかたさま!
――おかたさま!
そこで場面は急に変わる。
ギラリと舌なめずりをした刀。
眼球が飛び出さんばかりに見開かれた瞳。
青音の上は、声にならない悲鳴をあげて、布団から飛び起きた。心臓が破れてしまいそうなほどの、激しい鼓動が聞こえてくる。体中が、冷や汗でびっしょりに濡れている。手は振るえ、たった今疾走したかのように、息は絶え絶えである。
ぼんやりと両腕をみると、あちこちに内出血をおこしたどす黒い紫色の痣が染み付いている。
青音の上は、自分を安心させるように左腕をさすっていた。
「今日はどうなさったのですか?」
お昼頃、葉月と落ち葉の君、少将と惟雅は青音の上に会いに来ていた。
外では、夜遅くのうちに降り始めた雪がまだ降っており、せっかく溶けかけていた雪の上にふうわりふうわりと積もっていく。全ての雑音が真っ白い世界に吸い込まれ、まるで真空の世界にいるようだ。
青音の上は、昨日と変わらない様子でゆったりと脇息に寄りかかっていた。迷惑そうなそぶりの欠片も見せずに、愛想の良い微笑を浮かべている。
「今日は、青音の上さまにお話しがあって参りました」
落ち葉の君が事件の真相を明らかにしてくれる――そう、少将から聞いていた葉月が、礼儀正しく頭を下げる。
「話?」
「ここにいらっしゃる落ち葉の姫君さまが、今回の藤野さまの事件の真実を、お話ししてくださいます」
青音の上の不安げな瞳が、落ち葉の君に注がれた。無意識のうちに左手の爪を噛み始め、その左腕を右手が心もとなげにさすっている。
その場の視線を一心に集めた落ち葉の君は、すっと立ち上がると、青音の上に背を向けるように庭を向いた。そして静かに、語り始める。
「……これからお話しすることは、全てわたくしの想像です。今回の事件には、残念ながら証拠となるものは綾子さまと青音の上さまの証言しかございません。ですから、青音の上さまが否定なされば、それはわたくしの単なる想像ということになります。しかし」
それから向き直って、青音の上をまっすぐに見た。
「こちらにいらっしゃる葉月さまは、なぜ姉君さまが殺人を犯してしまったのか、その真実を知りたがっていらっしゃいます。それが姉君さまの妹であるご自身の義務だと思っていらっしゃいます。もし、わたくしのこれからお話しすることが真実ならば、青音の上さまご自身のお言葉で、葉月さまにあの日、なにがあったのかをお話ししてさしあげてください」
落ち葉の君は静かに深くあたまを下げる。
「わかりました。では、お話をお聞かせください」
「青音の上さまは事件のあったあの日、藤野参議の悲鳴を聞いてお部屋に駆けつけたとおっしゃいましたが、実際は違います。あなたはあの日、もっと前から藤野参議と同じお部屋で過ごしていらっしゃっいました。おそらく、二人きりだったのではないかと思います」
雪の降り積もる音が聞こえそうなほど静寂した室内に、落ち葉の上の静かな声が優しく響く。葉月も青音の上も少将も惟雅も、淡々と話す姫君を見上げて話を聞いている。
「藤野参議は『生真面目で優秀な、人当たりの良い、非の打ち所のない青年』という評判ですが、あなたに対しては違いました。あなたのお父上を目当てに結婚した藤野参議は、あなたに対して数多くの不満を抱いていました。そして、いつからか、あなたに暴力を振るようになったのです」
信じられない、というように葉月が目を大きく見開いて青音の上を見た。青音の上は不思議な微笑を浮かべて黙って落ち葉の君の話を聞いている。
「事件のあった日も、参議はあなたに暴力を振るい始めました。そして、そこへ綾子さまがやってきます」
「おそらく綾子さまは止めに入ろうとしたのでしょう。けれども体格の大きい参議を小柄な女房が押さえつけることは簡単なことではありません。姉のような存在でもあり、主人でもあるあなたを助けるために、綾子さまは無我夢中になってお部屋にあった参議の刀に手をのばし、参議の背後から切りつけました。あなたを助けるために、綾子さまは必死でした」
壮絶な話とかけ離れたほどの静けさを、室内は保っていた。葉月も少将も言葉を失って、ただただ話を聞いていることしかできない。
「おそらく藤野参議は驚いたでしょう。まさか自分の女房に刺されるとは夢にも思っていなかったでしょうから。一方で刺してしまった綾子さまも激しく動揺します。しかし――、あなたは違いました」
落ち葉の君の悲哀に満ちた視線が青音の上と交差する。
「あなたはお部屋においてあったもう一本の刀で、動きの鈍くなった参議を強く刺しました。ありったけの力をこめて、ぶつかっていったのです」
青音の上は何かから開放されたような穏やかな表情で、落ち葉の君の話を聞いていた。その真っ白な頬に、透明できらきらとした涙が光る。
「息の絶えた藤野参議を前にして、あなたと綾子さまの間にどのようなお話しがあったのかまでは分かりません。しかし、結果として綾子さまだけが、罪を被る形となりました。おそらく、綾子さまが言い出したのではないかとわたしは考えています。実の妹のように接し続けてくれたあなたへの恩返しのつもりで、罪を被ったのではないでしょうか」
誰も、何も言わなかった。かといって、誰も、青音の上を冷たい目で見るものもいなかった。
「以上は、わたくしの想像です。しかし、爪を噛む癖、ときどき垣間見えるあなたの自責感情、右頬の痣……ずっとさすっていらっしゃるその左腕にも、痣があるのではないですか?」
落ち葉の君が話し終わると、青音の上はほうっとため息をついた。まるで、肩から重荷をおろしたように、驚くほど安らかな表情をしていた。
「あなたは、全てをお見通しなのですね」
微笑を浮かべてつぶやくと、そうっと左腕と右腕の袖を捲り上げた。両腕とも酷い内出血を起こしていて、大きな青痣や、強くつかまれたような跡がたくさんついてる。ことに左腕には毒々しい紫色のシミが腕いっぱいに広がっていた。
「青音の上さま……」
あまりの光景に葉月が絶句した。仲が良いと信じていた夫婦関係は、実は幻想に過ぎなかった。
「おっしゃるとおりですわ。あの人は、わたしのことを憎んでいました。あの人に必要だったのは、わたしではなくわたしの父上です。いえ……もっと言うなら父上の持つ権力です」
見ていて胸が痛くなるほどの、自虐的な微笑を浮かべて、青音の上は続ける。
「結婚してから間もなく、あのひとは夏草の君のもとへ頻繁に通うようになりました。わたしは正妻でしたから、あのひとのお屋敷に移り住んではいましたが、ほとんど一人で過ごしていました。でも、わたしにとってはそれでもかまわなかったんです。所詮、わたしもあの人のことを愛していたわけではありませんでしたから。ただ、父上の言うがままに嫁いだだけでしたから。でも、あの人があまりにもわたしのもとへ来ないことが、父上の耳に入り、あの人はわたしを無視するわけにはいかなくなったのです」
「そのころからです。あの人がわたしに乱暴するようになったのは。顔を合わすたびに罵られました。なにか言い返そうとすると平手が飛んできました。そのうちに、どんどん過激になってきて……。あの人は二人きりのときにかぎって、乱暴するのです。そして「誰かに言ったら殺してやる」とものすごい形相で迫るのです。わたしは何度もあのお屋敷から逃げ出したくなりました。いっそ、わたしを捨ててくれたらどんなに楽かと何度も思いました。でもあの人はわたしを決して捨ててはくれなかった……。『宮中で期待の参議』――身分のそんなに高くないあの人にとって、出世のためには、私の父上という後ろ盾がなんとしても必要でした……」
青音の上は、涙目で話を聞く葉月に向き直った。しっかりと、涙に滲む目をみて、話を続ける。
「そしてあの日――。あの人はいつものようにわたしのもとへやってきて、わたしを罵り始めました。罵られることに慣れてきていたわたしが黙っていると、そのことに怒ってまた乱暴を始めました。そこへ綾子がやってきてしまって――。不意に楽になったと思ったら、あの人が呆然とこちらを向いたまま、目を見開いて立っていて、その後ろに刀を持ったあの子がたたずんでいたのです。そのときでした。今なら自由になれるかもしれない。あの人の呪縛から逃れられるかもしれない。気がついたら、わたしもお部屋にあった刀を握り締めて、あの人にむかって体当たりしていました。あの人は、目を見開いたまま、わたしの目の前で崩れ落ちていきました」
その後、冷静になった二人は、自分たちのやってしまったことに仰天したという。検非違使に罪を告白する、と言う青音の上に、綾子は激しく反対した。はじめに刀を取ったのは自分だと主張し、全ての罪を一人で被ると言い張ったのだった。そして、青音の上から刀を奪い取ると、そのまま検非違使のもとへ行ってしまったという。今までの感謝と、幸せになってほしいという願いを言い残して。
「わたしはずっと、黙っていることがつらかった……。でも、このままあの子に罪を着せたままでいいはずがないと、そう分かっていながらも、結局は申し出ることができなかった……。わたしは、ひどい人間です」
青音の上は葉月の切れ長の目と向き合った。
葉月は泣いていた。紅梅色の袖にいくつもの涙の粒が落ちては消えていく。
「お姉さまのこと、本当に申し訳ありませんでした」
「青音さま……」
深々と頭を下げた青音の上は落ち葉の上に向き直った。
「落ち葉の姫君さま」
軽い、穏やかな声だった。
「はい」
「お願いしたいことがございます。わたしを検非違使のもとへお連れくださいませんか」
寂しげに笑う青音の上に、落ち葉の君は黙ってうなずいた。
それから数日後――。
宇治の山奥にひっそりと建っている、落ち葉の君のお屋敷。あの日以来、弱弱しい太陽が顔をのぞかせる日が続き、降り積っていた雪は徐々に溶けて、葉を失った木々はまた寒々しい肌を見せはじめている。
「おかたさま」
落ち葉の君は、ぼんやりと庭を眺めて座っていた。ひんやりとした白いお顔は、物思いに耽っている。
右近は、湯気をほくほくと立ち上らせている茶を持ってくると、いつものように落ち葉の君の少し後ろに座った。
「わたくしは、幸せだったのかもしれません」
庭を眺めたまま、落ち葉の君は独り言のように、ぽつりと言った。右近は答えず、黙って聞いている。
「今までわたくしは、忠広さまが、わたくしを手の届かなくなった最愛の人と重ねていたことが許せませんでした。でも、あの人は一度もわたくしにつらく当たったことはありませんでしたし、わたくしも『捨ててくれたら』などと思ったことは一度もありません」
涼やかな風が、ふわぁっと落ち葉の君の横を吹き抜けていく。その風にさらわれて、天井に向かって立ち上っていく湯気がゆらゆらと消える。
「青音の上さまのような姫君は、きっと大勢いることでしょう。そのような中で、わたくしは恵まれていたのかもしれません」
右近は、落ち葉の君の小さくて寂しげな後姿を、愛おしそうに見つめていた。まっしろな肌を際立たせる、墨のように黒くつややかな髪は、川のようにその小さな背中を流れている。
「……しかしもっと多くのことを望んでしまうのです。わたくしは、一人の人間として、あの人とお逢いしたかった。あの人の心の中に居続ける女人の代替として造られたものではなく、ただ一人の人間として、お逢いしたかった。あの人と同じ目線でさまざまな美しいものをみて、あの人と一緒に歳をとりたかった……。人間でないわたくしがそれを望むことは、いけないことなのでしょうか」
落ち葉の君の真っ白な頬を、一筋の小さな涙が伝っていき、陽の光に照らされてきらきらと光った。慌ててそれを袖で隠すように顔をうつむける。
「今日は、太陽が特別にまぶしいですね」
右近の穏やかで優しい声に、落ち葉の君は黙ってうなずいた。
―完―