第三話
「突然お伺いしたのにもかかわらず、お時間を割いていただきありがとうございます」
殺された藤野の北の方、青音の上の父親の衛時大納言のお屋敷――。事件の後、青音の上は藤野のお屋敷から父親の屋敷に移って一人過ごしていた。さすが大納言のお屋敷だけあって、外には威厳ある風格の唐門(第三位の貴族が建てられる門)が堂々と建っていた。またお部屋からは、手入れの行き届いた、雑草の一切ない、真っ白な雪で覆われた庭が眺められる。春にはきっと、スミレやツツジ、カラタチなどが咲き乱れ、キジや鶯などの鳥たちが、思い思いに美しい音色を奏でるに違いなかった。
青音の上は、おっとりした雰囲気の、華奢で儚げな女人だった。よわよわしそうで頼りなさげな様子がかえって魅力的だ。歳は、十七、十八くらいだろうか。
「こんにちは」
甲高くなく、かといって低くもないしっとりとした調度良い声。纏っている小袿からは甘い香りが漂い、周囲の人の鼻をくすぐる。裏表の感じられない、ふんわりとした微笑みをさりげなく扇で隠す様子はとてもかわいらしい。色白な右頬には、化粧で隠そうとした跡が見受けられる青い腫れがあった。
「何度もすみません。あの……実は、藤野さまのことで参りました」
姉が殺人犯ということもあり、申し訳なさそうに話を切り出す葉月の言葉に、青音の上の白い肌に亀裂がはいる。
「――やはり、そうでしたか。でもわたしもお話しできることは少ないのです」
残念そうな調子で、青音の上は葉月を見て、
「先日お話ししましたけれど、わたしもお部屋に行ってみたら殿が倒れていたということ以外、わからないのです。お部屋に行ってみたら……あのようなことになっていて」
目の前で自分の夫が自分の女房に刺されていた場面を思い出したのだろうか。青音の上は苦しそうに目をつぶった。知らず、爪を噛み始める。扇を離した右手は、不安げに左腕をさすっていた。葉月も、姉のしてしまったことの責任を少なからず感じてか、それ以上詳しく聞き出そうとできず、顔をうつむけた。
「あの……青音の上さまにお聞きするのは大変心苦しいのですが……」
沈黙した空気をなんとか変えようと、少将はあらかじめ落ち葉の君から尋ねるよう言われていたことを切り出した。
「藤野参議には、その……ほかにお通いになっていらしゃったところはおありでしたか?」
青音の上は悲しげに表情をゆがめると、ため息をついてから
「ございました。夏草の君と呼ばれている姫君です。実は……わたしのところよりも、そちらの姫君のほうへよくお通いになっていらっしゃっいました。わたしは、夏草の姫君と違ってぼんやりとしていて気が利きませんでしたし……。よく、殿にもしかられました……。昔から、わたしはだめだったのです。何をやっても上手くいかなくて、鈍感で……。殿にとっては、わたしよりも夏草の姫君といらっしゃったほうが、居心地がよかったのです」
後半は自分に言い聞かせるようだった。それから、なんでもないというふうな調子で
「あちらには、かわいらしい女の子もお生まれでしたの」
と、寂しげな表情で薄く笑った。
「……そんな……」
『仲の良い夫婦』という話を姉から聞かされていた葉月は、思ってもいなかった実際の夫婦関係に驚いて、言葉を無くしたようだった。口元を手で覆い、瞳はどうしようもなく宙をただよう。
「――藤野参議は」
それまでじっと青音の上を観察していた落ち葉の君が、急に口を開き、どんよりとした重たい空気にぴりっとした緊張が走った。落ち葉の君の表情は、無表情で、どこか氷のようなつめたさがあって、なにを考えているのか読み取れない。そのせいか、青音の上も不安げに体を硬くした。
「青音の上さまにとって、藤野参議はどのような方でいらっしゃいましたか?」
心を読み取らせない澄んだ視線が、青音の上をじっと観察していた。なんでも見通してしまいそうな、透明で、鋭い視線と、不安げにゆらめく視線が交錯する。
「どのようなかたとおっしゃられても――」
黙りこくる青音の上のお顔が、一瞬何か嫌なことを思い出したかのように歪んだ。まるで、なにかに脅えているかのような表情に、少将には見えた。
やがて、落ち葉の君の見透かすような視線を淡い霧で遮るような、そんな微笑を浮かべて青音の上は言った。
「お優しい、おかたでしたよ」
もう、爪は噛んでいなかった。
「あまり、大したお話は聞けませんでしたね」
お屋敷を出て門に向かいながら、少将は残念そうにため息をついた。
「落ち葉の君がご覧になった、もう一人の女人というのが青音の上さまなら、動機は夏草の姫君のもとへばかりかよう参議への怒り、でしょうか」
惟雅も、足元に気をつけて歩きながら
「むこうにはお子様も生まれていたっていうし、そうだとしても不思議ではないですよね……」
真っ白な雪の上に、さくさくと足跡がついていくのをぼんやりと見ながら四人はひたすら歩いていた。刺すような冷たさで、足は感覚を無くしていく。
「橘少将は藤野参議のことをご存知なのですか?」
落ち葉の君に尋ねられた少将は
「ええ。お話ししたことはありませんが。でも宮中に行けばかならず誰かが参議のことを話すので、多少のことなら知っています」
「どんなかただったのですか?」
「そうですね……」
宮中を生き生きと働いていた参議の顔を思い出しながら
「まじめで、しっかりと仕事をこなす優秀な青年だったと聞いています。それから、上昇志向が強かったとも。参議のお家柄はそこまでしっかりとしたものではなかったのですが、青音の上とご結婚なさってからは、衛時大納言という強力な後ろ盾も得て出世の道も確立したようです。周りからの期待も相当なものでした。まあもちろん、それと同じくらい周りから嫉妬もされていましたが」
「性格はどうでしたか?」
「性格、ですか」
うーん、と考えてから
「人当たりの良い性格だったんじゃないでしょうか。仕事には厳しかったようですが」
「いわゆる非の打ち所のない人、でした」
惟雅が独り言のように付け足すのを聞いて、落ち葉の君は黙ってうなずいて、今度は葉月に尋ねた。
「姉君さまは、どういう経緯で青音の上さまの女房になられたのですか? ご両親同士がお知り合いだったのですか?」
「いえ。実は、わたしと姉は青音の上さまのお父上さまに育てていただいたのです」
「衛時大納言に、ですか?」
びっくりする惟雅と少将に、葉月は微笑んで話し始めた。
――葉月と姉の綾子は、衛時大納言の付き人だった阿部嘉治の娘だった。母親は葉月を産んだあとにそのまま亡くなり、二人は物心つかないころから阿部に育てられてきたが、葉月が四歳のころに、阿部も病で亡くなってしまった。身寄りのいない、孤児となってしまった二人をあわれに思った衛時大納言は、二人を引き取って、実の娘の青音の上と同様に、大切に育てたらしい。青音の上も、身分の低い年下の二人と実の妹のように接した。やがて、大納言の勧めで青音の上が藤野参議と結婚すると、姉の綾子は衛時大納言と青音の上への恩返しもこめて青音の上の女房となり、また葉月も去年から別の姫君の女房となって働いている、ということだった。
「わたしたち姉妹にとっては、大納言は実のお父上のような方で、青音の上さまは実の姉上さまのような方なのです」
昔を懐かしく思い出すように、はにかみながら話す葉月の横顔を、落ち葉の君は考え深げに見つめていた。
「……落ち葉の君さまは、今回の事件をどのようにお考えですか?」
葉月と途中で別れた後、それぞれが考えをめぐらせて歩いていた帰り道――。少将は隣を淡々と歩く落ち葉の君に話を振ってみた。あまり外を歩きなれているようには見えないのに、落ち葉の君は慣れた様子で雪の積もる道の上を危なげなく歩いている。まっすぐと前を見る黒い瞳はまるで深い暗闇のようだ。
少将は、自分の背丈ほどまでしかない、この謎めいた姫君のことを知っているようでいて知らなかった。いつから宇治の山に住んでいるのか、どんな家柄なのか、兄妹はいるのか――。そういったことを、落ち葉の君は決して話そうとはしなかった。
――もう、遠い昔のことです――。
年齢はまだ少将と同じくらいのはずなのに、もう何百年も生きてきた人間のようなことを、寂しげな、悲しげな顔で言うのだった。まるで、さっきちらりと青音の上が浮かべたような、まさにあのなんともいえない寂しげな表情で――。
「……そうですね」
涼しげな声で、落ち葉の君は答える。
「今回の事件は、見えることだけを追っていても、真実にはたどり着けません。むしろ、目を閉じて、当たり前だと誰もが思う考え方を捨てて、初めて真実がみえてきます」
それがどういう意味か、少将にはわからない。
「藤野参議と青音の上の関係は、葉月さまが思っていた以上に冷え切っていたようです。参議には夏草の姫君という青音の上以上に親しくしていた姫君がいらっしゃり、そのことを青音の上も知っていらっしゃっいました。当然、青音の上は藤野参議、あるいは夏草の姫君を憎らしく思ったことはあるでしょう。しかし、今回の事件がその憎しみから起きたとは、わたくしには思えないのです。葉月さまが持っていらっしゃったあの血のついた小袿は、間違いなく事件の日に綾子さまが着ていらっしゃったものですし、事実、綾子さまは藤野参議の背中を刺しました。それに、痣のこともあります。」
「痣?」
「気づきませんでしたか? 青音の上の右頬には、青痣がついていました。化粧で隠そうとしていましたが」
嫌なものを見たときのように、落ち葉の君は顔をしかめた。忘れ去るように首を振る。
「今回の事件に青音の上が関わっていたとしても、どんなに探してもおそらく明確な証拠は出てこないでしょう。綾子さまはこれからも沈黙を続けるでしょうから。それに」
落ち葉の君の声が暗くなる。
「それに、もしこの事件がわたくしの考えている通りなら――真相を明らかにしたところで、どなたもお喜びにはなりません」
「もう分かったのですか?」
少将は驚いて足を止めて、落ち葉の君を振り返る。
正面から見た落ち葉の君は、少将が今まで見たことのないほど悲痛な表情をしていた。あの、美しいけれど氷の面のような取り済ました表情ではなく、無常観に満ちた表情だった。
「教えてください。青音の上さまは何をなさったのですか? なぜ、綾子さまは黙っていらっしゃるのですか? なぜ、参議は殺されたのですか?」
弱弱しい陽が、儚げに落ち葉の君を照らし出す。
まっすぐに見つめてくる少将から、落ち葉の君はその暗い瞳をそらした。落ち葉の君が誰から視線をそらすのを見たのは、少将は初めてだった。
陽はおちはじめ、たたずむ三人を夕方の幕がそっと包んでいく。
痛みと痺れを感じていた足は、いつの間にか慣れてしまってもうなにも感じない。
「……」
「……」
少将も、落ち葉の君も、黙ったまま立っていた。
少将は、この気まずい沈黙を遮りたかったが、なにを言ってたらいいのか分からなかった。
やがて、落ち葉の君が憑き物を落とすようなため息をついて言った。
「明日、もう一度だけ、青音の上のところへ参りましょう。そこで、わたくしの『考え』をお話しします。しかし……」
ほうっとついたため息が白く色づいて掻き消える。
「今回の事件には、証拠が一切ありません。青音の上さまが認めてくださらない限り、事件に青音の上さまが関わっていることを証明することはできません。そして――たとえ明らかにしたとしても、おそらく、どなたも、救われません」
影を落としたその表情は、深い無常観に満ちていた。