第一話
宮中の期待を背負っていた若い参議が自身の屋敷で刺殺された。逮捕された犯人は参議の北の方に仕える女房。罪を認めた彼女は、しかし、誰にも動機を話そうとはせず、また北の方も事件に関して沈黙を守った。「わたしは、全てを、知りたいです」事件に衝撃を受けた女房の妹・葉月と橘康之は落ち葉の君のもとを訪れる。「真実と向き合う勇気が、葉月さまにはございますか?」――仲の良い夫婦に隠されていた悲劇とは。
*『宇治で解かれる事件手帳』の三作目。
目の前で崩れ落ちていく男を、女はただ呆然と見るしかなかった。両手でしっかりと握りしめた刀には、べったりと男の血が付着している。
自分の小袿にかかった男の返り血。自分の足元で目を見開いて絶命している男。自らのしたことに、女は激しく動揺していた。全身がかたかたと震えだし、体中が熱を帯びていく。それでも、力の入りすぎた両手は刀を離すことができない。
――わたしは悪くない。
――わたしは悪くない。
――わたしは悪くない。
女は呆然と立ちすくんだまま、必死にそうつぶやいていた。
冬も深まった師走(十二月)の中旬。昨夜から降り続いた雪は今朝やんだものの、京をすっぽりと覆い隠していた。つい数ヶ月ほど前まではどこか寂しげな鳴き声を奏でていた虫や鳥もすっかりその姿を隠し、また人々も外へ出ようとしないので、あたりは昼間だというのに静まりかえっている。
「雪は、いいな。普段のわずらわしい音も、見たくない汚いものも、全て隠してくれる。見ていると、心が洗われるような気がしてくるよ」
松重(表が青色、裏地が蘇芳色)の狩衣を身に纏った橘康之少将は、柱に背をあずけて、ぼんやりと雪に包まれた庭を眺めていた。ときおり、唐果物(唐のお菓子)をつまんでいる。
「そうかね。私は好きではないな」
少将の向かいに座る、まぶしいほどに真っ白な狩衣を身に纏った滋川清行は、空になった杯に甘酒を注いだ。
「そもそも私は、寒いのが嫌いだ」
注いだ甘酒を口に運ぶ清行をみて、少将はふふっと笑った。
「清行らしいな」
京の一角にある、橘康之少将のお屋敷。そこで、少将と、その友人で京一と騒がれている陰陽師の滋川清行は、時を過ごしていた。
「それにしても、有名になったなぁ。橘康之少将は」
清行の細い目がからかうように笑う。
「いまや京の貴族は皆、康之の名前を知っている。『不可解な事件を鮮やかに解決する、橘少将』ってな」
「清行までやめてくれ」
うんざりだというように、少将は白いため息をついた。
橘康之少将は、身分も見た目もそこそこ、律儀で生真面目な性格だけが取り柄の青年だ。仕事も人の顔色を伺うことなくしっかりとこなし、浮ついた話も一つとしてない。北の方、三の宮が亡くなって一年が経った今も、新しい恋人をつくろうとするそぶりすらみせない。
そんな地味で人々の噂に上ることのなかった少将は、秋ごろ、立て続けに二件の事件に巻き込まれた。一件目は少将の妹君が入内直前に失踪した事件。そして、二件目はあの有名な恋愛小説『源氏物語』を模倣した連続殺人事件。とくに二件目は京きっての風流人のまわりで立て続けに女人が亡くなり、最後は主上も関わってくるなど大掛かりな事件だった。当然、京中でその事件の話は広まり、その事件に関わった少将の名前もたちまち人々に知られることとなった。
「まったく、どうしてそんな噂が広まったのやら。わたしは何もしていないのに」
不満そうに口元に唐果物を運ぶ少将に、清行は
「いいじゃないか。悪い評判ではないんだから」
「良くない。落ち葉の君に申し訳ないじゃないか」
「まったく、真面目なやつだな、康之は」
落ち葉の君とは、宇治の山奥に付き人の右近と二人きりで暮らす姫君だ。墨を流したようなつややかな髪、雪のように真っ白な肌、儚げで華奢な肩。几帳のそばに座って筆をもつ様は、絵から抜け出てきたように美しい。家柄や家族関係など、自分に関することを話したがらず、人とかかわることを極端に嫌がる謎めいたこの姫君は、『物体の記憶を追う』という不思議な力を持ち、その力をつかって、少将が巻き込まれた事件を鮮やかに解決していたのだった。
事件を解決したのはあくまでも落ち葉の君で、少将自身は付き添っていただけ――しかし、どこで間違った噂が流れたのか、いつのまにか事件を解決したのは少将、ということに京ではなっていた。いったん人々の間で広まった噂はさらに一人歩きをした、誰にも止めることはできない……それが『噂』というものだ。
「そうそう、事件といえば……」
ふくれっ面をしている少将の杯と自分の杯に甘酒を注ぎながら、清行は話を変えた。
「藤野が死んだそうだな」
「藤野って、あの参議の藤野が?」
清行はうなずいて、
「二日前、自分の屋敷で殺されたらしい」
「殺された……? 誰に?」
清行はため息をついて
「北の方(正妻)の女房に、だそうだ。背中と正面を、刀でぐさっと」
少将は信じられない、というように首を振り、甘酒を口に含んだ。
「藤野を刺した女房は、その日のうちに検非違使に捕らえられたのだが、自分が刺したと言い張るだけで、その理由については一切話さず黙りこくっているらしい。検非違使も手を焼いているそうだ。このままだと謎のまま、かもな」
狐のような笑みを浮かべて意味ありげな視線をおくる清行を、少将はあきれたように見返した。気の毒なことに、目の細い清行の笑みは、狐が人を化かすような笑みにそっくりなのだ。
「期待を裏切るようで悪いが、わたしに期待しても無駄だよ」
「いいのかい? 落ち葉の姫君と仲良くなれる好機を、みすみす逃してしまって」
「あのなぁ――」
「――分かっているよ。義理堅く生真面目な橘少将の北の方は生涯にただ一人、三の宮さまだけ、なのだろう」
「……」
「でもそんな三の宮さまに瓜二つの落ち葉の姫君のことが実は気になって仕方がない。本当は毎晩にでも通いたい、でもそれは三の宮さまに申し訳ない。ああ、どうしたものか、もし事件に巻き込まれたら、堂々と落ち葉の姫君に会いに行く口実になるのになぁ……とかなんとかどこかで思っていても不思議ではあるまい」
「――」
なまじあたっているところもあるだけに、少将は言い返せなかった。
落ち葉の君が気にならない――ことはない。一緒にいられるなら――いたい。でもそれは三の宮を裏切るような気がして、罪悪感のような、居心地の悪い気持ちにさせられる。
「はぁあ」
言葉の代わりに出たため息が、白く色づいて掻き消える。そんな少将を、清行は暖かいまなざしで見つめている。
「康之は、本当に優しいやつだな」
嬉しそうに、そしてどこか寂しげにそう言うと、清行はぼんやりと、真っ白な庭に視線を移し、そのまま黙り込んだ。
「少将」
ぼんやりと、清行と白い景色を眺めているところに、少将の付き人の惟雅があわただしくやってきた。なにやら困った表情を浮かべている。
「少将に、お客様が来ていらっしゃいます」
「――?」
少将は清行と顔を見合わせた。今日は来客の予定はないはずだ。こんな雪の降り積もる日にふらりと遊びに来る物好きな友人も、清行しかいない。
「誰が来ているんだ?」
「葉月というお名前の女性です。どうしても、少将にお話を聞いてほしいそうなのです。このままではお姉さまが殺人犯にされてしまうと言って、あんまりにご様子が切羽詰っていて」
「殺人犯?」
少将と清行はまた顔を見合わせた。
清行が、意味ありげににやっと笑った。
「わたしが橘康之です。こちらは友人の滋川清行です」
「はじめまして。葉月、と申します。突然お伺いして、申し訳ありません」
雪の中やってた女人の白い頬は、寒さで紅色に染まっていた。つややかな黒髪や華奢なその肩には、ちらちらとした粉雪がところどころに乗っかっている。歳は十三か十四くらいだろうか。切れ長の目をしたお顔には、まだ幼さが残っている。
「わたしにお話とは、なんでしょうか」
少将は葉月に座るよう薦めてから、尋ねた。
「はい」
葉月はほうっと深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから、
「橘さまは、最近、奇妙な事件を立て続けに解決なさった、と伺っております。そこで、橘さまのお力をお借りしたくて、今日は参りました」
少将の心の中に、灰色とも桃色ともいえない不思議な色の感情が広がっていく。
「必ずお役に立てるかどうかは分かりませんが――」
「それはわかっております。ですが、お話しだけでも聞いてください」
「三日前に、参議の藤野さまが、北の方さまの女房に殺されてしまったことはご存知ですか?」
惟雅に差し出されたお茶を一口飲んでから、静かに葉月は話し始める。少将が静かにうなずいたのを見て、
「その女房は私の姉なのです。姉は、綾子というのですが、藤野さまの北の方さま、青音の上さまにお仕えして、もう五年以上になります。その姉が、三日前に、藤野さまを死に追いやったのは自分だと検非違使に申し出たのです」
うっすらと涙を浮かべた葉月は、ほうっとため息をついてから、またお茶を一口飲む。
「私には、信じられませんでした。姉は、藤野さまのことも、青音の上さまのことも、とても慕っていました。なのに藤野さまを死に追いやるなんて、青音の上さまを悲しませるようなことをするなんて、とても、信じられないのです。それなのに……」
つめたい涙が、葉月の冷えた頬をつたって蘇芳色の唐衣(女性の正装)に小さな跡をつけた。
「昨日、姉に会いに行って、何があったのか尋ねたのですが、ただ『藤野さまを死に追いやったのは自分だ』としか話してくれません。理由を聞いても、黙ったままでなにも教えてくれないのです。青音の上さまにもお会いしたのですが、あまり詳しいお話しは聞けなくて……」
少将も清行も、黙って葉月の話を聞いていた。清行の傍らには、瓶子と杯が忘れられたように置かれている。
少将は藤野について、直接本人と話したことはなかったが、知っていた。人当たりのよい、仕事をしっかりとこなす青年で、衛蒔大納言の娘、青音の上との結婚を期に、強い後ろ盾も手に入れていた。周りからの信頼や期待も大きかった、と聞いている。
「橘さま、お願いがございます。姉は本当に藤野さまを死に追いやったのか、もしそうなら、どうしてなのか、調べていただけませんか。このままでは、何も分からないまま姉が殺人犯になってしまいます。妹として、わたしは、本当のことを知りたいのです」
きらきらとした瞳をまっすぐと向けてくる葉月に、『お引き受けできません』とは言えなかった。