第六首
几帳に隠されていたものを見て、全員が息を呑んだ。二の宮も、思わず口元を手で覆っている。
「母君にすべての罪を着せようとなさるなど……残念です」
御簾の後ろにいたのは、厳しい顔つきの検非違使と右近に付き添われた、哀れな姿の和泉大輔だった。両腕、両足は検非違使によって紐で縛られ、口には声を出せないようにさるぐつわがはめられている。
「は、母君って……。二の宮さまの母君さまは麗景殿の女御さまでは?」
驚く少将に、落ち葉の君は首を振って
「表向きはそうです。しかし、本当の母君は和泉大輔です。主上が、より身分の高い麗景殿の女御さまのもとでお育てしたほうが二の宮さまの将来のためになると判断なさり、二の宮さまがまだ二歳のときに女御さまのもとへひきとらせなさったそうです。和泉大輔は二の宮さま付きの女房として、三年ほど前からそばで仕えていました」
それから二の宮を振り返って
「このかたはあなたの罪をすべて被ろうとしています! わたくしがこっそりあなたのお屋敷に残してきた和歌を見つけると、わたくしが事件の真相にたどりついたと悟り、表沙汰になるまえに防ごうとあなたにはなにも言わずに独断でこの山までやってきて、わたくしまでも亡き者にしようとしました。二人の姫君を死に追いやったその罪の重さは、決してうやむやに済ませられるものではありません。とくに、椿の君さまの父君は内大臣でいらっしゃいますから、お咎めのないまま済むはずがありません。それでもご自身の娘のために、やってもいない罪まで被ろうとして、このかたは今ここにいらっしゃるのです! 二の宮さま、どうお考えになりますか!」
目の前で必死に首を横に振る母親の姿を見せられた二の宮は、明らかに狼狽していた。
「わ、わたしではありませんわ。だ、だいたい、なんなのです! あなたは!」
中将も少将も惟雅も、ただ唖然として目の前の光景を眺めているのが精一杯だった。二の宮にはもう毅然とした態度は微塵もかんじられない。目をきょときょとさせ、懸命に逃げ道を探していた。
「二の宮さま」
目を真っ赤にして歯を食いしばる、羽衣を失った天女とは対照的に、落ち葉の君は冷静だった。
「二の宮さまは、本来は左利きでいらっしゃいますね」
和泉大輔がびくっと反応した。
「いいえ。わたしは右利きですわ」
二の宮の瞳にも、怯えが走った。
落ち葉の君は静かに首を振って
「いいえ、あなたは左利きです」
「わたしでもないあなたが、なぜそのようなことを!」
「脇息を見ればわかります」
落ち葉の君は扇で二の宮の寄りかかっていた脇息を示しながら、
「右利きの人は右に寄りかかったほうが体を支えやすいため、脇息も右におきます。しかし、あなたは最初にお会いしたときも、そして今も、左に置かれていらしゃる」
二の宮はふっと吹き出した。
「そんなことで。そんなことで、わたしが左利きだとおっしゃるのですか! そんなことで、わたしを犯人だと決め付けているのですか!」
二の宮は今にも泣き出しそうだった。落ち葉の君は穏やかに続ける。
「あなたの女房の中に、あなたが左手で文字を書いているところを見たものがいらっしゃるのです。ずいぶんと手馴れた様子だったとおっしゃっていましたよ」
目を吊り上げていた二の宮の表情が、その言葉で固まった。
「あなたは中将のところへ降下する際、左利きを矯正なさったのでしょう。左利きは魔物と取引をする手と言われております。内親王ともあられるかたが左利きというのは、よくないと周りが判断なさったのでしょうね。矯正するのは大変だったでしょう。筆を持つ際、食事をする際、なにをするときでも慣れない手でこなさなくてはなりませんから。人によっては、矯正する際の心理的負荷が大きくてお心を病まれてしまう方もいらっしゃると聞きます。それでもあなたは、矯正されました。おそらく文句も言わずに、母君である和泉大輔に支えられながら」
二の宮は歯を食いしばって涙をこらえている。
「だからこそあなたは、自分以外の女人のもとへ頻繁に通われる中将が許せなかった。教養も、美しさも、内親王という最大の後ろ盾もあり、苦痛に耐えて右利きに矯正してまで降下したにもかかわらず、ほかの女人のもとへ相変わらずいそいそと通い、自分には表面的な扱いしかしてくれない中将が。あなたが本当に憎かったのは、女人方でなく、中将だったのではないですか?」
室内には二の宮と和泉大輔のすすり泣く声以外、だれも物音を立てなかった。普段はにぎやかにさえずっている鳥たちも、静かに成り行きを見守っているようだった。中将は申し訳なさでやりきれないようなお顔でうつむき、少将と惟雅は呆然と二の宮をみている。
必死に娘に向かって首を横に振る和泉大輔を見る二の宮の目からは透明な涙があふれんばかりに頬を伝い、華やかな襲の袖をしとどにぬらす。
二人の母娘は、そうして涙を流しながらいつまでも向かい合っていた。
「それにしても、悲しい事件でしたねぇ」
二の宮が二人の姫君の殺害を認めた数日後、橘少将は惟雅をつれて落ち葉の君のもとを訪れていた。今日はいつもの簀子に腰かけ、御簾越しに話している。右近が毎回用意してくれるお茶も、いつしか少将のお気に入りの味となっていた。
「あれだけ恋人がいれば、それはうらみも同じだけ買うでしょう。まあ、少将は大丈夫でしょうが」
惟雅は持参してきた甘栗子や榛子(両方とも当時好まれた菓子)を楽しげにつまんでいる。
「二の宮さまも、嫉妬というお心をお持ちだったのですね」
右近が榛子を分けてもらいながら、しみじみと言った。
「誰でも、人をうらやむ気持ちや妬む気持ちを持っています。感情を持っているからこそ、人間は喜び、悲しみ、笑うことができるのです。それを醜い感情と、押し殺してはなりません。しっかりと向き合って、そのうえで相手を認め、思いやることが大切なのです」
落ち葉の君の言葉に、少将も惟雅も、深くうなずいた。
「――ところで、藤原中将は、その後どうされていますか」
「中将は、二日前に二の宮さまと北へ行かれました」
二の宮は二人の姫君を死に追いやった恐ろしい内親王として検非違使につかまったが、ほどなくして主上のお力により開放された。中将のほうは、内親王をないがしろにした無礼者という烙印をおされ、京での信頼のすべてを失い、かつての『光源氏』の面影は、数日のあいだに消え去った。和泉大輔は死罪にこそならなかったものの、流刑になり、南へ流されたという。
「『今度こそ仲良く暮らそう』と中将は二の宮さまに誓われたそうですよ」
頬いっぱいに甘栗子を詰め込んで話す惟雅を見て、右近が楽しそうに笑った。
「では、そろそろ」
やわらかい西日がお屋敷を照らし出したのを見て、少将は惟雅とともにお辞儀をした。
「お気をつけてお帰りください」
右近がまた、戸口まで見送りに出てきてくれる。
「橘少将」
不意に御簾のむこうから凛とした声に呼ばれて、歩き始めていた少将は振り返った。
「また、いらしてくださいまし。今度は事件ではなく、甘栗子を持って」
かならず、と少将は笑顔で返事をし、惟雅は持っていた甘栗子を全て右近の両手に渡した。
夕方と夜の混じりだした空の方向へ歩いていく二人を、右近と落ち葉の君は姿が見えなくなるまで見守っていた。
―完―