第五首
「このたびは、まことにすみませんでした」
二日後、藤原中将と二の宮は落ち葉の君の屋敷に来ていた。橘少将も中将によばれて、惟雅とともにやってきている。今日は二の宮がいるためか、簀子での会話ではなく、屋敷内に入れてもらっていた。質素なお部屋で、ほのかに心地よい墨の香りが漂っている。
二の宮付きの女房、和泉大輔は、落ち葉の君を刺殺しようとしたことで、夜中のうちに右近の呼んだ検非違使につかまっていた。
和泉大輔は、今回の一連の事件を、全て自分によるものだと主張していた。
二の宮を北の方として迎えたにもかかわらず、中将は以前から付き合いのある女人のもとへ通うのを控えるばかりか、以前よりもまして通うようになり、正妻である二の宮のことは表向き大切にするばかり――それが気に入らず、とくに中将のお気に入りだった夕顔、椿と二人の姫君を殺したと話している。
「本当に、落葉の君さまがお怪我されなくてよかった……」
和泉大輔は寝ていた落葉の君を確かに刺したと話していたが、落葉の君には刺し傷どころか、かすり傷一つなかった。
落ち葉の君は、色白のお顔を扇で隠しながら、危ないところでしたと笑った。
「ところで、まだ分からないことがあります。和泉大輔は御息所さまの事件だけはやっていないと話しているのです。一体、どういうことなのでしょうか」
少将の疑問に、中将もうなずいた。
「まさか、御息所さまの事件だけは別の犯人がいらっしゃるのでしょうか」
「二の宮さまはどうお考えですか」
今まで黙っていた二の宮に、不意に落葉の君が話を振った。落葉の君の、見通すような視線と、二の宮の上品で柔らかな視線が交差する。
「わたしも気になっておりました。どういうことなのでしょうか」
落葉の君は、二の宮から視線をそらさない。まっすぐとその黒い瞳を見つめたまま
「お知りになりたいですか? 今回の事件の、全てを」
「全て、ですか?」
「はい。御息所さまはなぜ亡くなったのか、夕顔の君さまがなぜ女楽で突然亡くなったか、なぜ和歌が送られていたか、なぜその和歌は源氏物語からの引用されたのか、残された三首のうち、なぜ一首だけの筆跡が違い、残りの二首は左手でかかれたか。そして、二人の姫君を死に追いやったのは、本当は誰だったのか」
「犯人は和泉大輔ではないのですか!」
落葉の君の言葉に、思わず惟雅が聞き返した。中将も二の宮も少将も、驚いて互いに顔を見あわせる。
「どうですか、二の宮さま。お知りになりたくはありませんか?」
二の宮は、射抜くような視線を受け止めてうなずいた。
「それは、ぜひ」
「今回亡くなられたのは三人の女人です。一条の御息所さま、夕顔の君さま、そして、椿の君さま。共通しているのは中将と特に親しかった恋人たちでした」
落葉の君の凛とした声が風の音と合わさり、軽やかに響く。
「一条の御息所さまが亡くなられたのは先月末。刃物で首を切ったことによる、失血死です。部屋には相当な量の返り血がはね、またそばには使われたとみられる刃物も見つかりました。そして、そばにのこされていたのが源氏物語から引用されていたこちらの和歌です」
落葉の君は、自分の写した和歌を四人の前に差し出した。
『袖濡るゝこひぢとかつは知りながら 降り立つ田子の自らぞ憂き』
「次に亡くなられたのが夕顔の君さま。今月初めの、女楽の際でした。箏の演奏中に突然苦しまれてそのまま亡くなってしまいました。もともとお体の弱い方で、発作も起こされていましたから、今回の場合も発作によるものだと考えられておりましたが、また、和歌が見つかります」
『人の世をあはれと聞くも露けきに おくるゝ袖を思ひこそやれ』
「夕顔の君さまの亡くなる前の晩には、藤原中将にもこちらの和歌が送られました」
『とまる身も消えしも同じ露の世に 心置くらん程ぞはかなき』
「そして三日前、椿の君さまが亡くなられました。中将を装って送られてきた毒入りの茶が原因です。トリカブトなどが混ぜられていたのではないでしょうか。箱の底からまた、和歌が見つかり、その前の晩には中将のもとにも、夕顔の君さまのときと同様に、和歌が送られています」
『振り捨てて 今日は行くとも鈴鹿川 八十瀬の浪に袖はぬれじや』
『鈴鹿川 八十瀬の浪にぬれぬれず 伊勢まで誰か思ひおこせむ』
「さてここで、一つ奇妙なことがおきております。なぜ犯人は、御息所さまのときだけ、中将に和歌を送らなかったのでしょうか。また、御息所さまに残された和歌だけが、筆跡がご本人のものに似せられているのは、なぜなのでしょう」
ここで落葉の君は、四人を見渡した。
「殿に和歌が送られなかったのは、御息所さまの和歌だけが、源氏の返歌のない歌だったからではないでしょうか」
おずおずと二の宮が口を開いた。
「そうかもしれません。この和歌は、生霊となった六条の御息所が詠んだ歌で、源氏の返歌は確かにありません。しかし、それならばなぜ犯人は、この和歌を選んだのでしょうか。源氏と六条の御息所のやりとりの和歌にこだわるなら、ほかにも選べる和歌はたくさんあったはずです」
「和歌の内容を気にしたのでは?」
「それは考えにくいです。なぜなら、椿の君さまに残されている和歌の内容は、今回の事件とも、椿の君さま自身の事情とも、何の関係もありません。椿の君さまが伊勢に下られる予定はありませんでした。犯人が、御息所さまのときに中将あての和歌を送れなかった理由は、ほかにあります」
誰も口を開かず考えていた。モズやヒタキのさえずりがやけに大きく聞こえる。
「理由は、御息所さまの死が犯人にとって予想外の出来事だったからです。そのため、あらかじめ中将に和歌を送ることができなかったのです。そして、御息所さまに残された和歌だけは、御息所さま自身がお書きになったものだったのです」
その場にいた全員が、落ち葉の君の話についていくので精一杯だった。
「あの……よくわからないのですが……」
二の宮が申し訳なさそうに口を開いた。
「順を追って説明しましょう」
その場の視線が、得々と話す姫君に集中する。
「犯人は以前から、藤原中将の恋人の多さに悩まされていました。美しさ、気品、そして申し分のない身分と、全てを持ち合わせている自分がいるにもかかわらず、中将が自分よりもずっと年上の御息所や、後ろ盾のない、人に同調するだけが取りえのような夕顔の君などのもとへ通っているのが許せなかったのでしょう。しかし、犯人には自身に対する人一倍つよい自尊心があります。身分の高い、誰よりも気高く育てられた自分が、嫉妬などと言う醜い感情を抱くことに激しい嫌悪感を抱いていました。毎晩女人たちのもとへ通っていく中将を、毅然と見送ることしかできません。そうして心の中では中将と恋人への妬みが日に日に増していきます。そんなときに一条の御息所さまが亡くなりました。それも、自分で首に刃物を当てる、という普通の姫君では考えられないような亡くなりかたをされます。御息所さまは、中将より七歳も年上だったことをずっと気にしていらっしゃいました。いつかは、中将は自分の屋敷から足が遠のいてしまわれる。天女のように美しいと評判の内親王さまを迎えようとしているのなら、なおさらです。自尊心の強かった御息所さまは、中将に一方的に捨てられてしまうのには耐えられないと判断し、中将に結婚の話を持ちかけますが、中将はすでに二の宮さまとの婚約をしていたため断られてしまいます。そして絶望の果てに、自殺してしまいました。残された和歌は、御息所さまが、六条の御息所の境遇に自分を投影して源氏物語から引用なさったものでしょう。犯人は女房から、御息所さまの悲報を聞きました。もちろん、辞世の句のつもりで御息所さまが残された、和歌のことも」
落ち葉の君は、いったん言葉を切ったが、誰一人、声を出そうとはしない。落ち葉の君は続けた。
「犯人にとって御息所さまの死は、妬んであまりあるほかの姫君を死に追いやる、絶好の機会となりました。『一条の御息所』『夕顔の君』という名前、御息所さまが残していった和歌、そして、『光源氏』と呼ばれている遊び好きな藤原中将。まるで、源氏物語がそっくりそのまま現実になったようにさえ思ったのではないでしょうか。そして、犯人の頭の中ではたちまち計画が出来上がります。源氏物語の展開を真似し、あたかも一条の御息所さまの物の怪の仕業に見せかけて、姫君たちを殺してしまおう。事件全体に気味の悪さと源氏物語の特徴を強調するため、犯人は和歌を選び出します。まずは、女楽を利用して夕顔の君を亡き者にすることを決めました。源氏物語の葵の巻から和歌を引用し、源氏の詠んだ歌は人に見られないよう夜中のうちにお屋敷の簀子に置き、六条の御息所の歌は隙をみて夕顔の君の箏の下に置いたのです。」
「ちょっとおまちくださいな」
先の尖った、あどけない声が空気を裂いた。
「まるで、わたしが二人の姫君を死に追いやったかのようなおっしゃりようですのね」
二の宮が見たことのないような鋭い視線で落ち葉の君をにらみつけている。
「はい。わたくしは、犯人は二の宮さまだと考えております」
中将も少将も惟雅も、全く動じずに内親王に向かって断言する落ち葉の君を見つめた。落ち葉の君の、細い刺すような視線は、二の宮を射抜いている。
二の宮はあきれたように左脇に置かれた脇息(ひじかけ)に寄りかかると、ため息をついて、
「ご承知でしょうが、わたしは、あの女楽の日、夕顔の君さまと一緒に演奏しておりました。それなのに、どうして夕顔の君さまを亡き者にできるとおっしゃるのですか!」
「演奏中にあなたが夕顔の君に危害を加えたとは、誰も言ってはおりません。あなたは、演奏中に夕顔の君がひとりでに亡くなるよう、仕掛けをほどこされました」
落ち葉の君はふっと笑った。
「箏です。夕顔の君さまの箏の切れた弦の先は、刃物で切ったような鋭い切り口をしていました。あなたは、演奏前の隙をみて夕顔の君さまの箏に近づき、三の弦が切れるように刃物で弦に切り目をいれたのです。そして実際、夕顔の君の調弦の際に切れると、前もって弦に細工をした箏を貸しました。先にトリカブトなどの毒が塗られた、細くて短い、棘のようなものが弦に取り付けられていて、演奏中に指に刺さるようになっていました。箏の名手と言われた夕顔の君さまが演奏中に間違えたのは、おそらくその棘が刺さったときでしょう。針に塗られた毒は、瞬く間に体中をめぐり、夕顔の君は亡くなってしまいました」
ばかばかしい――と二の宮は鼻で笑った。
「ではその毒の塗られた棘はあるのですか」
落ち葉の君はそれには答えずに続けた。
「そして今度は椿の君さまです。椿の君さまは歳も自分と同じ。父親は内大臣で後ろ盾もそれなりにあります。なにより、中将が一番気に入られていた姫君です。あなたは日ごろから中将が椿の君とのやりとりに使っていた薄様を知っていました。そこで、毒の入った茶と中将を真似て書いた手紙を、夜中のうちに和泉大輔に届けさせます。中将からのものだと信じて疑わなかった椿の君は茶を飲み、亡くなってしまいました」
落ち葉の君が話し終わったと同時に、二の宮がくすくすと笑い出した。
隣に座る中将は、信じられないと言うような顔をして、人形のように座ったまま動かない。
少将も惟雅も、ただ膝の上で手の平を握り締め、二人の姫君の対決を固唾を呑んで見守っている。
「それは全てあなたのご想像でしょう? わたしがやったという確固たる事実は一体どこにあるのですか?」
それから立ち上がって、鋭い視線を落ち葉の君に向けた。
「このわたしにそのような侮辱をぬけぬけとおっしゃられるからには、お覚悟はできていらっしゃるのでしょうね」
落ち葉の君は、すっと立ち上がると、後ろに立てかけていた几帳(目隠しや間仕切りに使う可動式のカーテン)を移動させた。