第四首
壺装束(女性の旅姿)に身を包んだ落ち葉の君を見た少将は、驚きのあまり思わず小さな声を漏らした。惟雅も中将も見とれてしまっている。
垂衣(市女笠についている体半分ほどを隠す布)から透けてみえた落ち葉の君は亡き三の宮に瓜二つだった。色白で透きとおった肌に、墨を流したように黒くつややかな髪。身長は、少将の肩くらいしかない。杜若の襲(淡青、青、薄色、淡紫を順に重ねた)に身を包んだ姫君は、小柄で華奢な、絵に描いたように美しい女君だった。
「では、参りましょう」
落ち葉の君や右近とともに山をおりた藤原中将、康之少将、惟雅はまず女楽の日に亡くなった夕顔の君のお屋敷を訪れていた。
夕顔の君の身分は高くはない。お屋敷も、市井にまぎれた一角に、こじんまりとあった。
「まさか、姫さまがあのように亡くなってしまうなんて……」
あの日に夕顔の君についていた保谷衛門の頬を、涙が伝った。女郎花の襲(朽葉色と萌黄色の組み合わせ)を着た、小柄でかわいらしい人だったが、扇で半分ほど隠されたお顔はすっかりやつれていて、主人を失ったつらさが痛いほど伝わってきた。
「あの日、夕顔の君さまに変わった様子はございませんでしたか?」
保谷衛門は首を振って
「姫さまはいつもの変わらないご様子で、いえ、女楽があったからでしょうか、いつもよりもお元気そうなご様子でした」
「夕顔の君さまは、女楽で演奏することをどのように思われていらっしゃっていましたか?」
――それは、どのような意味でございましょうか?
「特に緊張なさっていた様子はありませんでしたか?」
保谷衛門は「いいえ」と言ってから、
「姫さまは箏の名手でしたから、そのように感じられることはなかったようです。人前で演奏するのも、嫌がるようなかたではございませんでした」
そうですか――と落ち葉の君はうなずいた。
「女楽の始まる前、後、あるいは演奏中に、何か変わったことはありませんでしたか」
「わたしもあれから考えてみたのですが……」
保谷衛門の視線が宙を漂った。
「演奏直前に、姫さまの箏の弦が切れてしまいました」
「弦、ですか」
「はい。それで急遽、二の宮さまがお持ちだった箏を貸していただいたのです。弦を張りなおす時間がありませんでしたので」
「では、あのとき夕顔が弾いていたのは二の宮の箏だったのですか」
驚いて聞き返す中将に、保谷衛門はうなずいた。
「二の宮さまがお部屋からすぐにご自身の箏を持ってきてくださりました。ほんとにご親切な方ですね」
「その箏はいまは二の宮さまがお持ちなのでしょうか」
「はい。お返ししましたから」
落ち葉の君の隣で話を聞いていた右近は複雑な表情を浮かべていた。
「その、弦の切れた箏をみせていただけませんか」
「少々お待ちくださいまし」
しばらくしてから、三人ほどの女房とともに箏を一面運んできた。女楽の日以来調弦していないらしく、三の弦が切れたままになっている。
「切れた弦は、これですか」
「ええ、そうです。調弦なさっていたら、突然切れてしまって。前の晩に確かめたときには、とくに問題は無かったのですが」
「……なにか、おかしなところが?」
注意深く切れた弦の先を見る落ち葉の君に、少将は声を抑えて聞いてみたが、落ち葉の君は不思議な笑みをうかべただけだった。
「……どうもありがとうございました。あと一つだけ、お尋ねしたいことがあるのですが」
保谷衛門は姿勢を正して改まった。
「どうぞ」
「中将の北の方さまである二の宮さまのことをどのように思っていらっしゃいますか?」
さすがの質問に、それまで笑顔で接していた保谷衛門の頬にひびが入った。
「……二の宮さまは気品もあり、内親王さまというご威光もあり、すばらしいかたです」
「中将は、宮が降下なさったあともお通いになられていたのですか?」
保谷衛門は答えようか迷っていたようだったが、ほうっと息をはくと
「はい。宮さまが降下なさった際にはどうなるかと心配しておりました。しかし、むしろ以前よりもましてお通いくださるようになりまして」
――そうでしたか、と答えた落ち葉の君の横顔は、どこか残念そうに少将には見えた。
「では、次は椿の君さまの女房のもとへ参りましょう」
椿の君のお屋敷は、父親が内大臣なだけあって、大きく、立派に構えていた。お庭には薔薇や菊、ケイトウなどが植えられていて、色とりどりの華やかさを醸している。
「お茶は、今朝、あそこにおいてありました」
椿の君の女房の一人、比佐少納言は御簾下げられた簀子を示した。
比佐少納言は保谷衛門よりも背の高い、痩せた女房だった。おしろいの塗られた頬には涙のつたった跡がいくつもついており、目は真っ赤で、全体的にお顔はむくんでいた。
「置いた人をご覧になったかたはいらっしゃらないのですか?」
康之少将の問いに、少納言は首振った。
「わたくしもみなに聞いて回ったのですが、誰一人見たかたはおりませんでした。きっと夜中、みなが寝静まったころに置かれたのでしょう」
少納言の言葉に、落ち葉の君もうなずいた。
「女楽の日のことですが、比佐少納言さまは椿の君さまとあの場にいらっしゃったのですね」
「ええ。姫さまの身の回りのお世話は、ほとんどわたくしがしておりました。それで、あの日も姫さまのおそばに」
「あの日のことを思い出していただきたいのですが、演奏前、後、あるいは演奏中に、何か変わったことはございませんでしたか」
少納言はしばらく考えていたが、とくに変わったことはなかったと答えた。
「夕顔の君さまの箏の弦が直前に切れてしまったそうですが」
少納言ははっとした。
「そうでした。調弦なさっていたら、弦が切れてしまって。確かそのあと、二の宮さまがお貸しになっていたような……」
「そうです。ところで、」
落ち葉の君は中将のほうをちらっとみてから
「椿の君さまと中将とのご関係は、上手くいっているようでしたか?」
少納言の視線は戸惑って中将のほうを彷徨った。それでも、落ち葉の君は視線を少納言から離さない。
「……わたくしから見た限りでは、とくに仲たがいなさっているようには見えませんでしたが……。中将さまは、かなり頻繁に姫様のところにお通いくださっていましたから」
「それは、中将のところに二の宮さまが降下なさった後もですか」
「はい。一時は遠のいてしまうかと姫さまもご心配なさっておりましたが、その後もお変わりなくお付き合いしていただきました」
「お通いは、宮さまの降下後のほうがさらに頻繁になったのでは?」
少納言はまた気まずそうに中将に視線を送ったが、中将はうつむいたまま、顔を上げようとはしなかった。
「ええ……そうかもしれません。いずれにせよ、姫さまにはよくしてくださいました」
――そうですか、とうなずいた落ち葉の君は礼をいうと、お辞儀をしてお屋敷をでた。
五人が藤原中将のお屋敷を訪れたとき、もう日は暮れていて、まつむしやきりぎりすの音が寂しげに響いていた。細長くて消えかかりそうな細い月が夜空で儚げに輝いている。
「ごきげんよう」
半分ほど垂れ下げられた御簾をはさみ、女房とともに五人の前にあらわれたのは、櫨紅葉の襲(黄色・薄山吹・山吹・紅・蘇芳色を順に重ねる)を纏う二の宮だった。
内親王としての気高さも備えた二の宮は、一つ一つの動作が優雅で、天女のようにさえ見える。三の宮にしか心を動かされない少将も、二の宮を前にすると無意識のうちに背筋をのばした。
「本日は、突然なお願いにもかかわらず、こうしてお時間をいただき、ありがとうございます」
「かまいませんわ。それで、お話とはなんですの?」
二の宮は、意外にあどけない声だった。左に置かれた脇息(ひじ掛け)に寄りかかってゆったりとくつろぐ天女を、落ち葉の君は御簾越しに正面から見据えた。
「単刀直入にお伺いしますが、二の宮さまは中将の恋人のかたがたのことをどのように思っていらっしゃいますか?」
中将が少し怒ったような顔で落ち葉の君を振り返る。二の宮も思わず声を失って、左手が扇をぱちん、ぱちんと開いたり閉じたりする音が、気まずい空気をやけに大きく振るわせた。
「あ、あの、それは、どういう……」
「藤原中将は二の宮さまという美しい姫君を北の方にお迎えになったにもかかわらず、霞の君さまや荻窪の君さまなど、あまたの女人のもとへお通いになっております。そういうかたがたに対して、嫉妬なさることはないのですか?」
少将は、二の宮が機嫌を損ねるのではないかと心配したが、宮はため息を一つついただけで、その穏やかな口調をかえることなく、
「そのようには思っておりませんわ。たいてい、どの殿方にも複数の恋人がいらっしゃるものです。それに、殿は『光源氏』と噂されているほどのかたです。わたし以外にお通いになるところがあっても、まったく不思議ではございませんわ」
女房の和泉大輔も
「宮さまは内親王さまでいらっしゃいますから、そのような醜いお気持ちは抱かれません」
と添えた。
「やはり、内親王さまでいらっしゃると、お心構えがもう違うのですね。すばらしいです」
――そんな特別なことではない、と二の宮は謙遜した。
「嫉妬しても、どうしようもないことですから。汚れた気持ちに心を満たされてしまうのは、気分の良いことではございませんもの」
二の宮の言葉に、落ち葉の君は微笑んでうなずく。
「ところで、落ち葉の君さま」
今度は二の宮が質問する番だった。
「はい」
「今回の……一条の御息所さまや夕顔の君さまや椿の君さまのことですが、やはり、物の怪の仕業なんですの?」
落ち葉の君はすぐには答えなかった。たっぷり一分(今の三分)ほどの沈黙を保ってから
「……今回の一連の事件は、物の怪の仕業ではありません。亡くなった姫君に恨みを持つかた、もしくは中将に恨みを持つかたが、用意周到に計画をたて、姫君たちを死に追いやりました」
和泉大輔が思わず息を呑んだ。
「そ、それはまことなのでございますか? では、どなたが一体……」
「まだ確かなことは分かっておりません。しかし」
落ち葉の君は一度言葉を切ってから、
「どなたが仕組まれたことなのか、大体の見当はついております。もうあと数日で、はっきりすると思いますので、そうしたらまた藤原中将とともに参ります。それまで、どうか二の宮さまもお気をつけください」
そう警告する落ち葉の君の瞳は真剣で悲しげな、冷たい瞳だった。
日は完全に落ちていて、すっかり夜だった。中将とはそのまま屋敷で別れ、少将と惟雅は、落ち葉の君や右近とともに来た道を引き返す。
「落ち葉の君さま、犯人の見当がついているっておっしゃりましたが、一体、誰なんですか」
吹き抜ける風は少し冷たく、なびかれた草木が闇の中でさわさわとかすかに触れ合う音がする。
「今回、二人の姫君を死に追いやったのは、強い自尊心をお持ちの、左利きの女性です」
「えっ、二人、って三人ではないのですか?」
惟雅の問いに、落ち葉の君は謎めいた微笑をうかべて、
「その女性は、身分が高く、教養もあり、源氏物語も知っています。そしてほかのかたに嫉妬することに抵抗を持っています。中将がほかの女人のもとへ通うことに激しい屈辱を感じていますが、嫉妬する自分が許せない性格のため、中将をひきとめることが出来ません。毎晩、ほかの女人のところへ通う中将の後ろ姿を毅然と見送り続け、心の中に巣くった妬みはいつしか押さえ切れないほどの大きな魔物になってしまいました。中将がほかの女人とのやりとりに使っていた用紙や内容を知ることができ、女楽の際には夕顔の君さまに近づくことが出来た人物となると、自然と限られてくるでしょう」
少将も惟雅を互いに顔を見合わせた。惟雅の顔が、やや青ざめている。
「二の宮さまのことを言っていらっしゃるのですか」
月に青白く照らされた落ち葉の君の横顔が、うなずいた。
「でも、中将は左利きの女人は知らないとおっしゃっていましたが」
「二の宮さまは左利きです。つい最近――おそらく中将のもとへ降下なさる前に、右利きに矯正したのでしょう。左利きは、魔物と取引をする手と言われておりますから、降下の際にはそうせざるをえなかったのかもしれません。しかしまだ、二の宮さまが犯人だと言える決定的な事実はありません。誰も、二の宮さまが直接手を下すところを見たものもおりません。それをつかまない限り、二の宮さまをとがめることはいつまでもできないでしょう」
「では、どうなさるのですか」
落ち葉の君は歩みをとめると不安そうな少将と惟雅にやわらかく微笑んだ。
「わたくしは先ほど、仕掛けをしました。もう二、三日したなら、全てはっきりさせることが出来ると思いますよ」
同じころ、二の宮の女房、和泉大輔は和歌を握り締めて立ちすくんでいた。
『とまる身も消えしも同じ露の世に 心置くらん程ぞはかなき』
誰がこの和歌を置いたのか――和泉大輔はそのまま手で握りつぶすと、部屋へと引き返していった。
「もう、ここで結構ですよ」
山奥まで送ろうとする少将に、落ち葉の宮は京を出る辺りで言った。
「しかし、もうこんな夜です。お一人では」
「わたくしは、大丈夫です」
驚く少将と惟雅に、たおやかに笑いかける。
「それに、送っていただいたら、橘少将が今度はお帰りになれなくなってしまいます。お屋敷で待っていらっしゃる方もおありでしょう」
「いえ、わたしには」
「橘少将。また、明日きてくださいまし」
そっと手をとりお辞儀をすると、そのまま右近と夜の闇へと進んでいく。月の光に怪しく照らされたその後姿は、まるで二人がどこかべつのところ――人間のいない、別世界のような場所――に帰っていくようにみえた。
まつむしやきりぎりすも鳴かなくなった丑二つごろ(午前二時ごろ~午前二時半ごろ)、ひとりの女が宇治の山へ来ていた。落ち葉の君の屋敷を見つけると、物音を立てないよう注意して歩きながら近づいて、そっと御簾を上げると中へ入った。
手元のわずかな明かりを頼りに、安らかに眠っている落ち葉の君を見つける。ろうそくの光に照らされた女の口元が、笑った。
「私は、お守りしなくてはならないのです」
落ち葉の君に近づいた女は、持参した刀を両手で握り締める。
振り上げられた刃が怪しげな光を放って振り下ろされたのと同時に、漆黒の墨が返り血のように女の全身を染めた。