美術室の青い鳥
鉛筆持って、あいつのハートにロックオン。
目の前にいる男前に向かって私のラブリーウインクを発射!
「おい、何やってるんだ?」
「えっ……ええっ! ウソ、喋った?」
喋るはずない、だって男前とは言っても、あいつはデッサン用の石膏像だし。
「馬鹿か、お前は」
全く相変わらずだな、とかいいながら石膏像の横のドアから一人の男が現れる。
「何だ、トシちゃん先生か」
「声で気付け、アホ」
そう言いながら、コーヒーカップを私の机の上に置いた。
「あ、ありがとうございます」
「いつもの、美味くないインスタントだけどな」
いつもながらの可愛げの無い口を叩きながら、部屋の隅にある戸棚に向かっていく先生。だが、お目当てのものが見つからなかったのか、あれ? とか言いながら頭を掻いている。
「何探してるんですか?」
「ああ、明日の授業で使う資料を印刷するからわら半紙を……って、切らしちまったかなあ?」
「先生、わら半紙の新しい束、こっちの戸棚に入れてましたよ」
「ああ、そっか。そうだったな」
いつもの会話。のんびりと流れる時間。絵の具の匂いに満ちた美術室。たった二人の部活動。
先ほどから私の視界をうろつく彼の名前は山口俊彦、通称トシちゃん先生。28歳独身。デニムのエプロンがトレードマークの冴えない美術教師。
「誰が冴えない教師だって?」
「あっ、何で……」
「お前は心の声がだだもれなんだよ」
アウチ、こりゃとんだ失敗だぁ~。とは、そんなに思ってはいなかったりする。いつものことだし。よくあることさ。
「そんなこと言うなら、お前は佐倉実佳。たった一人しかいない美術部の冴えない部長だな」
「ちなみにその部の冴えない顧問があなたですが」
「まあ、そうだが」
「暇人ですね」
「お前に言われたくねえよ」
そうツッコミつつ、探し物を再開する先生。おっ、あったあったとか言いながら、わら半紙の束を取り出した。
「そういや、さっき何やってたんだ?」
「ん? 何のことですか?」
デッサンをする手を思わず止めてしまう。そんなこと言われるようなことを何かしてたっけか。さっきしてたことって、強いて言うなら石膏像のデッサンくらいなもんだけど。
「ほら、『ハートにロックオン』だの『ラブリーウインク発射』だのってやつ」
蘇る記憶。あ、そのことか。……って、
「先生何で知ってるんですか? もしかして盗み聞き?」
冴えない上にそんな趣味があるなんて、この男はどこまで……。
「あんな大声で言ってりゃ嫌でも聞こえるっての。少なくとも準備室にくらいにはな」
眼鏡をずり上げながら呆れ顔をされた。こりゃまたもや、とんだ失敗をしちまったぁ~。とも、そんなに思ってなかったりするけれど。代わりに『この若造は可愛げがないもんだよな。だから未だ彼女もできないんだ』と心の中で罵ってやる。完璧に八つ当たり。
「もうお前の心の声は聞こえないことにするよ」
「へ?」
「それより、続き」
「ああ、そうでしたね」
私は持っていた鉛筆を置いて、先生に向き直った。
「実はですね。恋をしたいと思っていたのですよ」
「……は?」
「だーかーらー」
「いや、聞こえてはいる」
冬も近づき、日が傾くのも早くなってきた。校舎の一番西にあるこの部屋は、特にそれをよく感じる。
「つまり、お前はそのブルータスさんに……」
「そんな訳ないでしょ。ブルータスさんには練習台になってもらってただけです」
さすがにそんな自虐的な真似をするつもりはない。
「そうか、なら良かった。まだそこまで頭おかしくなってなかったか」
「失礼な。こう見えて成績はトップテンに入るんですよ!」
「ああ、下から数えてな」
わら半紙の束を普段しまっているところに入れながら、先生は意地悪そうに笑う。うわあ、最悪。事実だけど。
「しかし、何でいきなりそんなことを? 好きな奴でもできたんか?」
「いや、別にそうじゃないです。ただ、クラスの……えっと、田中さんとか田村さんとかいう子が彼氏が出来たとか話してたのたまたま聞いて」
「おい、お前まだクラスメートの名前覚えてないのか?」
「まあ、ほとんど喋ったことありませんし。で、それで私も恋をしてみようかなと思った訳ですよ。んでもって、デッサンの時に鉛筆でバランス取るのはロックオンしてるような感じにも見えるなあと思ったりして」
「ああ、多分言わんとすることはわかったが」
うーんとうなりながら先生は作業の手を止めた。
ん? 何を悩んでいるんだ? 皮肉屋な割にお気楽な先生にしては、珍しく真面目に考え込んでいるではないですか。
「それで、どうするんだ?」
「へ?」
謎の質問。どうすると言われてもねえ。
「いや、それでお前は誰か恋するのに目ぼしい相手はいるのかってことで」
ああ、そういうこと。
「それならご心配なく。これから適当に物色してみますので」
「そ、そうか。なら、せいぜい頑張れよ」
そう言ってなぜか、溜め息気味に準備室に戻っていく先生。
「あれ、先生、今日は何にも描かないんですか?」
準備室に戻ったまま戻って来ないので声をかけてみる。
「ああ、まだだいぶ仕事残ってるから」
と言いつつも、先生はノートパソコンを開きもせず、イスに座ってボーっとしていた。
一体どうしたんだろう? トシちゃん先生、何かちょっと変。
でも先生が変なのはもとからだし、あんま気にしなくてもいっか。
そう考えることにして、私は絵を描きに戻った。筆を取る前に先生に淹れてもらったコーヒーをすする。うん、先生はああ言ってたけど、今日も美味いね。あったまるし。
とりあえず今日の帰りから実行してみよう。その方が今の私には重要事項さ! 悪いね、トシちゃん先生!
とはしたものの、どうしていいかわからない。
「う~ん、誰かいないかなあ……」
すっかり日の暮れた帰り道。学校から駅に着くまではほとんど誰ともすれ違わず、ブツクサ言いながら駅のホームを見回してみる。
「おっ、あれは確か」
諦めかけた頃、ホームの階段を降りてくる知り合いをようやく一人発見した。
同じクラスの野球部の男子だ。ウチの高校のエースで、確か名前は飯島君とか飯塚君とかいったはずだ。
ちょうど一人だしチャンスかもしれない。
「やっほー!」
駆け寄って声をかけてみる。
「ん? あ、佐倉さん」
サワヤカ系な彼は、ほとんど話したことのない私に声をかけられても、嫌なリアクション一つせずに応対してくれた。
「佐倉さんもこっち方面の電車だったんだ」
「うん、そうだよ」
ん? むしろこれはなかなか。私は好感度があるのかもしれない。これなら意外といけるかもしれない。よし、一気に斬りかかろう。
「あのさ、飯島君」
「ん? 俺、飯塚なんだけど」
あ、いきなり失敗。でも気にしないことにしよう。ご愛嬌さ。
気を取り直して、
「あ、じゃあ、飯塚君。飯塚君は彼氏はいるの?」
「は? いないよ。何で彼氏?」
あ、またも間違えた。でも、いいんだ。そう、所詮小さなミスだ。一字しか違わない。
「まあ、彼女もいないけどさ」
ほら、サワヤカで優しい彼は全然気にしてないみたいだし。
「そう言う佐倉さんは?」
「いないよ。だから今探してるの」
「ああ、そうなんだ」
そう言って、彼は二コっと人懐こい笑みを浮かべた。
「いい人、見つかるといいね」
「うん。そう思う。ちなみに、飯塚君は私はどうですかい?」
「え~、佐倉さんか~」
今度は思いっきり苦笑い。だが、さすがサワヤカ系。苦笑いまでサワヤカだ。
「まあ、俺は甲子園のために部活一筋で行くってずっと決めてるからね。残念ながらないよ」
「そっか~。残念」
「全然残念そうじゃないね~」
どうやら、すでにこちらの魂胆、というか適当さ加減はお見通しのようだ。サワヤカな苦笑いの奥に、完璧に見透かしている感がある。まあ、それが嫌味になっていないあたりが、また素晴らしいものですが。
「あっ、電車来たね」
駅のアナウンスを聞いて飯塚君が足元に置いていたエナメルバックを持ち上げた。
「ねえ。それさあ、誰にでも言ってるの?」
電車に乗ってから、飯塚君が尋ねてきた。
「ううん、飯塚君が始めてだよ」
「そうか、じゃあ、俺は逆ナンされた第一号ってわけか」。
「そうそう。っていうか、逆ナン?」
「立派な逆ナンでしょ」
まさか、自分がそんな低俗な行為に手を染めていたなんて思いもしなかった。でも、まあいいか。逆ナンでも。選べるほど手段が思いつかないし。
「自覚症状なかったのか。前々から佐倉さんって変わってるるなとは思ってたけど。」
「まあね。じゃあさ、これを逆ナンと認めるとして、逆ナンのアドバイスとかあったら教えてくんない?」
「それはまた無茶振りだな」
そう言いつつ、なんだか楽しそうな飯塚君。
「まあ、自分に興味を持ってくれてそうな人とかがいいのかもしれないけど……。よくわかんないなあ。ナンパしたこともないし、恋愛経験すらないからね」
頭を掻きながら、ごめんと謝られた。
「ん~、でも、ちょっとそれ、参考にしてみるよ」
「こんな頼りない意見でいいならね」
そう言って、飯塚君はハハハとサワヤカに笑ってみせた。
それから、私の降りる駅に着くまでは、理想の恋愛談義に花を咲かせた。私は具体的な例は思いつかなかったけど、とりあえず楽しい恋愛がしてみたいと言った。飯塚君は、『タッチ』のようなチョー青春な恋愛がしてみたいと言っていた。話はタッチのあたりで予想外に盛り上がり、いつの間にか野球漫画談義になっていたりもしたけれど、それはそれで楽しかった。
二人目の候補は次の日の朝に現れた。
駅から学校まで歩いている時のことだった。
「あ、君。これ落としたよ」
一人の親切な方が道端に落とした筆箱を拾ってくれた。
「あ、ありがとうございます。って、なんで筆箱が落ちてるんだろ?」
「その鞄、穴開いてるみたいだけど……?」
「ああ、ホントだ! なんてこったい!」
見てみると、ちょうど筆箱が通るくらいの穴が開いていた。
ショック! もう五年も使ってるお気に入りの鞄だったのに!
「それより、君、二年の佐倉さんだよね?」
「あ、ええ、そうですけど」
な、何故、知っているの? ま、まさかストーカー? もしかしてこの人が私の鞄を……? ってさすがにそんなことはないだろうが。
「ボクは三年の水谷真澄っていうんだ。佐倉さんの噂は前々からよく聞いてるよ。有名人だもんね」
「噂、ですか?」
何だろう。微妙に不安だ。ただでさえ、変な噂というか事実は流れている。
「いっつも絵のコンクールで賞をもらってるらしいってさ。よく全校集会の時にも表彰されてたりするじゃん」
「ああ、なるほど。そうだったんですか」
良い方の噂だったようでほっとした。自分で言うのも難だが、コンクール前に不調だった場合の私は噂になりそうな問題行為を多少起こしていたから。
「そう、あとは、ちょっと変わり者だとかね」
そう言って水谷先輩はくすりと笑った。うん、嫌な噂の方も伝わってるみたいだ。でも何だか、可愛い笑い方だったので嫌な気はしない。
「ちなみに、私って変わり者なんですか?」
先輩は今度はぷっと吹きだした。あ、酷い。
「自覚症状ないんだ」
「ええ、まあ」
ホントはちょっとくらいあるけれどね。トシちゃん先生のエプロンに巻き糞のアップリケを付けたとか、真冬のプールに飛び込んだとか、美術室の窓から石膏像を放り投げたりだとか、色々やったもんで。いやあ、若気の至りさ。
「でも、佐倉さんのはそこが魅力でもあるからいいんじゃないかな」
「魅力、ですか?」
そう言われたのは初めてだった。昨日の飯塚君の言葉が蘇る。自分に興味を持ってくれてそうな人、か。
そう言ってくれる人なら、もしかしたら、
「あの、水谷先輩、一つ訊きたいことがあるんですが」
「ん? なんだい?」
ニコニコしながら、先輩はこっちを見る。
「私と、付き合ってもらえませんか?」
一瞬にして、先輩の笑顔がフリーズした。それから、思いっきり爆笑し始めた。
「あっはっは。本当に佐倉さんは変わり者だね!」
腹を抱えながら苦しそうにひーひー言っている先輩。そこまで笑わなくても……。
「まあ、それは、異性がダメだった時に取っておきなよ」
ああ、やっぱり断られた。まあ、無理はない。なにせ、水谷先輩は女の子だもの。私よりちっちゃいし。ボーイッシュな感じだから、いけるかとは思ったのだけれど。
「何? それとも佐倉さんは女の子が好きなの?」
「いいえ、そういう訳じゃありません。ただ、とにかく誰かと恋がしてみたいんです」
「そうか、なるほどねえ」
水谷先輩は、腕を組みながら「そういや、ボクにもそんな時期があったなあ」と言った。
「まあ、それならとにかく誰か探してみなよ。ただ、片っ端からやっても意味がないと思うから、『これだ!』と思えた相手を探すことにしなよ」
「あっ、はい、わかりました」
なんか、アドバイスまでもらってしまった。昨日の飯塚君に続き、かなり抽象的な感じはしたけれど。
「ちなみに、先輩は彼氏は……?」
今回は彼氏で合っている。だが、水谷先輩はふっと寂しそうな顔になった。
「今はいないよ。受験期になって別れた」
「そう、ですか」
あれ、恋ってそんなもんなのかな? ちょっと、不安になる。
「そんなもんだったよ、ボクのは」
あ、また心の声漏れてた? こりゃ、失敗。
「ボクは自分の経験があるからこそ、さっきみたいなことが言えるのかもね。だから、佐倉さんの恋がそういうものでないことを祈るよ」
そんなことをしているうちに学校に到着した。
別れ際に先輩とメールアドレスを交換した。相談だったらいつでも乗ってやるからな、とも言われた。
とりあえず、友人は一人増えたのかもしれない。
学校に着いてからも、色んな人を候補に挙げてみた。近くの席のメガネ男子。廊下ですれ違ったヤンキーっぽい男子。イケメンで人気の国語教師。隣のクラスのサッカー部の男子。違う学年のバスケ部の男子。などなど。
でも、どれも『これだ!』と思えるには至らなかった。
「どうしたの、佐倉さん?」
彼氏候補探しに疲れた頃、逆ナン第一号の飯塚君に声をかけられた。
「いや、まあ、昨日の続き」
「ああ、あれね」
今日も変わらず、サワヤカスマイルで受け応えてくれる飯塚君。でも、なんか疲れすぎてその笑顔にもあまり癒されなかった。
今朝の水谷先輩とのことを、机にへばりつきながら話す。
「でさ、なかなか『これだ!』って思える人がいなくてね」
「そうか~。そりゃ、確かに難しいかもな~」
何故か親身になって相談に乗ってくれてる。ホントにいい人だな。
「ちなみに、俺は『これだ!』って思えた訳?」
「いや、飯塚君の場合は、思い立って一番最初に目に入ったから」
「やっぱ、そんなもんか」
そしてここで再びサワヤカ苦笑い。ああ、サワヤカ過ぎるっ! その爽やかさをどっかの美術教師に分けてやりたい!
「ちなみに一つ提案なんだけど、良かったら俺が誰か紹介してあげようか?」
「おっ、まじで?」
いい提案だった。なんという棚からぼたもち。しかし、
「だが、断るっ!」
「えっ、なんで?」
少し勢いを付けて言いすぎたせいか、ちょっとヒかれた。
「んと、なんて言うか、そういうのって自分の力で見つけ出したいなって思って」
「ああ、そうか。確かに、それも大切だろうね」
意外にもすんなり納得してもらえた。もしかして、こう言う返答を実は予測していた? 今驚いたのは演技? サワヤカな笑顔の中にも、見透かしているような感じがする。
「じゃあ、頑張ってくれよ。応援してるから」
「うん、ありがとう」
まあ、でもやっぱり良い人だ。どっかの可愛げのないひねくれ美術教師とは大違いだぜ。とか心の中で呟いたら、ばっちり漏れていたようで「それ、山口先生に言っても良い?」とからかわれてしまった。これはご愛嬌。
結局、放課後になっても『これだ!』と思える人には出会えなかった。今日一日の苦労を思い返しつつ、とぼとぼと廊下を歩く。
コンクールはまだ先だったけど毎日美術室には通っている。今日もその予定だった。
「やっぱ、そう簡単には見つからないものなのかな~」
そんなことを言っていると、足元で何かが落ちる音がした。見てみると、またも鞄から筆箱が落っこちていた。
「ったく、めんどくさいなあ」
そう言いながら、筆箱を拾い上げる。すると、近くの教室から見たことのある男子が出てくるのが目に入った。
「あれ、勅使川原君?」
大荷物を抱えながらよたよた歩く、華奢な体形の彼は中学からの同級生だった。特徴的な名前だったので覚えている、数少ない人物のうちの一人だ。
「ん? その声は佐倉さん?」
両手に抱え込まれた荷物で前がよく見えないらしく、自信なさそうに彼は訊いてきた。
「そうだよ~。勅使川原君、何してんの?」
「ああ、ちょっと、山口先生にこれ運ぶように言われてて」
そういえば、彼が出てきたクラスの担任はトシちゃん先生だったような気がする。
「私も美術室行く途中だし、少し持つよ」
「ああ、ありがとう」
三分の一くらいの荷物を受け取ってあげると、ようやくまともに話ができるようになった。
「佐倉さんはこれから部活なの?」
「そう、一人でだけどね」
正確に言えば、トシちゃん先生もいるけれど。
「そうか、美術部って今一人なんだよね」
「そうだよ、勅使川原君は何部だっけ?」
「吹奏楽だよ。最近、練習忙しくてさ~」
そう言いながら、勅使川原君は何かを思い出したように、あっ、と声をあげた。
「そう言えば、うちの部活の先輩で水谷さんって人がいるんだけど」
「水谷先輩?」
今朝知り合ったあの人ではありませんか。こんなところで名前が出てくるとは。
「水谷先輩も吹奏楽部だったんだ」
「そうだよ。もう引退したけど。それで、水谷さんが昼休みに会った時に、今朝佐倉さんにナンパされたって言ってたんだ」
情報が伝わるのは予想外に早かった。確かに、あの先輩はそんな雰囲気の人だったけど。これでまた私の武勇伝が増えてしまった。コンクール前の鬱状態の時ではなかったのに。
「何か、恋人探しをしてるんだって?」
「そうそう、まあちょっとした思いつきだけどね」
そうこうしているうちに、美術室の近くまでやってきていた。
「失礼しまーす」
勅使川原君が足でドアを開けると、準備室からトシちゃん先生が顔を覗かせた。
「おっ、勅使川原……に佐倉もか。ご苦労様。ありがとな」
言われた場所に荷物を置いて、勅使川原君とふうと大きな溜め息をついた。
「そういや、佐倉は例の件、どうなったんだ? もしかして、勅使川原になったのか?」
教卓に寄りかかりながら、トシちゃん先生が尋ねてきた。
「あっ、そうだ。その話の途中だったんだ」
ふっと、勅使川原君の方を見やる。全然『これだ!』とは思えなかったし、別にそんなに私に興味を持ってそうでもない。でも、何か疲れててそんなこと気にするような気分にもならなかった。とりあえず悪い奴ではないし、当たってみて損はない相手なような気がした。
「ねえ、勅使川原君。私と付き合ってみない?」
疲れてたから、単刀直入に言ってみた。単刀直入過ぎたのは認める。だが、
「えっ、ちょっと、何その態度!」
思わず大声をあげてしまった。信じがたい事態が起きたのだ。付き合ってと言った次の瞬間、いきなり勅使川原君が吹きだしたのだ。しかも、驚きではなく爆笑としてだ。今までの中で一番酷い反応だった。
「いや、ごめん、ちょっとね」
そう言いながらも、腹を抱えて苦しそうにしている。水谷先輩にも似たようなリアクションを取られはしたが、何か更にすごいショックだ。
「と、とりあえず部屋の外に出よう」
しどろもどろに失礼しましたとか言って、私を引きずりながら廊下に出る勅使川原君。
「いや~、もう傑作だったなあ」
「何が? そんなに私、可笑しかった?」
まあ、可笑しかったと言われても仕方はないのだが。
「いや、そうじゃなくて。山口先生が面白すぎてさ……」
「トシちゃん先生が?」
予想外の答えだった。しかも、全くもって意味がわからなかい。
「それ、どういうこと?」
「いや、まあ」
何だかわからないけどはぐらかされる。余計訳がわからなくなってくる。
「それにしても、佐倉さん、相変わらず変わっているね」
変に関心した風に、勅使川原君が頷く。
「でも、そこが魅力なのかもしれないね」
それは今日二度目の台詞だった。
「とりあえず、俺は佐倉さんとは付き合えない。佐倉さんはすっごく魅力的だと思うけど、あんなにも佐倉さんのこと想ってる人のことを見ちゃうと、なかなかそういう訳にもいかないよ。だから、」
急に真顔に戻る勅使川原君。何だ、一体?
「誰かを探すことより、その人のことに気付いてあげた方が、俺はいいと思うよ」
そして言いたいだけ言うと、じゃっ、そういうことで、と廊下を駆けていってしまった。完璧に逃げられた。
一体、どういうこと?
結局、何が可笑しかったのかは聞き出せず終いだった。ポカンとしながら去り行く彼の後姿を見送ってから、美術室に引き返す。
美術室の中にはトシちゃん先生の影はなかった。
「あれ、先生?」
準備室を覗くと、先生はコーヒーを淹れているところだった。
「出来たら持ってってやるから、先に絵、描いてれば」
「あ、うん」
別にいつもと変わりはないような気もするが……。
一体さっきはどんなことをしていたのだろう?
悶々としながら、キャンバスを取って美術室の適当なところにセッティングする。今日も、ブルータスさんにお世話にでもなりますか。
「ほい、できたぞ」
描き始めてすぐに、コーヒーカップを二つ持ったトシちゃん先生がやってくる。
「あっ、ありがとうございます」
「いつもの、美味くないインスタントだけどな」
そう言ってコーヒーをすする先生。
「俺も、何か描こうかな」
準備室に一度戻り、描きかけのキャンバスを取ってくると私の隣にセットした。
「そういや、さっきのはどうなったんだ?」
「さっきの? ああ、勅使川原君のことですか?」
筆を止めて先生の方を見やると、何か冷や汗たらたらって感じになっているようにも見えた。
あれ、もしかして……?
「まあ、フられましたよ。普通に」
そう言うと、途端にほっとしたような表情になる。
「そうか。まあ、何の前触れもなくやられりゃそうだろうな~。ましてや佐倉だし」
急に明るくなって、鼻歌なんか歌い始めたりもする。これはあからさまな変わり様だ。昨日のことといい、これは……。
そんなことを考えながら、キャンバスと向き合う先生の横顔を見ていると、色々なことを思い出してきた。
三年の部員がみんな引退して部員が当時一年生の私だけになってしまった時。一人ぽつんと絵を描いていたら、俺も一緒に描こうかなと言って隣にキャンバスを出してきてくれた先生。
始めて大きな賞を取った時。昼休みに自分のご飯も食べずに走って教えに来てくれた先生。
私がコンクール前の鬱になって問題を起こした時。一緒に校長室に付いてきて私以上に校長に頭を下げて謝ってくれた先生。
そして友達がなんてほとんどいない私のために、なんやかんやで毎日話相手になってくれてる先生。
そうか、そんなこんなでもう丸一年も経つんだ。二人の部活になってから。こんな日々を刻んできたのも。
そんなことを考えていると、急に胸が高鳴ってきた。普段はふにゃふにゃしてて全然カッコよくない先生だけど、絵を描いている横顔だけは素直にカッコいい。実をいうと、その横顔は前々から密かに私のお気に入りだったけど、そんな風に思うのは始めてだった。
ちょっと焦った気持ちになって、それを落ち着かせようとコーヒーをすする。
ああ、そうだ。これもそうか。
コーヒーを飲みながら、余計にドキドキしてきてしまった。
砂糖とミルクをちょうど私好みの分量に入れてあって、コーヒーが苦手な私にも飲みやすいようにしてあったりして。しかも、このメーカーの奴が一番飲みやすいかも、と言ってからずっと同じ商品を買ってきてくれている先生。本当は、自分はもっと苦いのが好きなくせに。
「これ、なのかな」
「ん? 何が?」
「いや、何でもないです」
今度は心の声が漏れても、真意は読み取られはしなかったようだ。
「あのね、先生」
「ん? 何?」
「私、わかったんです」
「何が?」
「恋って、今すぐに焦ってするものじゃないってことです」
その言葉に、先生の筆が一瞬止まった気がした。すぐにまた描き始めるけど。だから、私も喋り続けることにした。
「だから、しばらくはなるようになるでやってみます。あえて恋人探しなんてしないで」
「そうか、その方がいいだろうな」
絵の具の匂いに満ちた美術室。いつもと同じ二人だけの部活動。
「そうだ、先生」
先生が筆を置いて一息ついたのを気に、切り出してみた。普段全然可愛げがない男だから、思いっきり意地悪に言ってやろうと思う。
「もし、高校卒業の時になっても彼氏が出来なかったら、私、先生と付き合ってあげるよ」
その瞬間、先生が吹きだした。大爆笑って意味なんかじゃなくて、言葉通りにコーヒーを。大成功だ。
「なっ、なんだそりゃ! お、大人をからかうもんじゃねえぞ!」
慌ててタオルを取りに立ち上がる先生。どうやら、勅使川原君が言ってたことは本当だったようだ。こりゃ傑作だ。大爆笑するのもわかる。
探し続けてた人はここにいたんだ。青い鳥のように、すぐ近くに。
タオルがどこにあるか、あたふたしながら探している先生の後ろ姿に筆を向ける。
あいつのハートにロックオン!
そう心の中で唱えてから、筆を置いて私も立ち上がる。
せっかの機会だからもっともっとからかってあげようと、夕日の差し込む中、恥ずかしがりな先生の背中に思いっきり飛びついてやった。
(END)
このサイトに投稿するテストを兼ねまして、今回の作品を投入させていただきました。
古いデータなのもあって、もしかしたら誤字などがあるかもしれませんが、見つけた場合は教えていただければうれしいです。拙い作品ですが、感想など頂けたら幸いです。