義母は私に「お母さん」と呼ばせないのに、夫の幼なじみにはそう呼ばせていた
十五夜の晩、夫の圭介と幼なじみの七海は、今年も私を巻き込んで月見団子のゲームを始めた。
団子の中に硬貨を一枚隠し、それを食べた人は一人でホテルに泊まる。そんなくだらない遊びだ。
結婚して四年。毎年、その役を押しつけられるのは私だった。
今年も、硬貨が歯に当たった。鈍い痛みに顔をしかめると、ソファに座った七海が楽しそうに笑った。
「莉央って、こういうとき運がないよね。今年もホテル?」
圭介は七海の隣で、面白がるように口を挟んだ。
「悪いけど、今夜はホテルで過ごしてくれ。俺は七海と月を見たいんだ」
私は唇を噛んだ。三歳のときに両親を事故で亡くし、親戚の家を転々として育ったことも、圭介は知っている。結婚してから私が望んでいたのは、ただ自分の帰る場所を持つことだった。節目の日には家族と食卓を囲み、何気ない話をしながら過ごしたかった。
それなのに、このゲームを嫌がるたび、圭介は不機嫌になった。
「ただの遊びだろ。そんなに怒ることか?」
今年、私は言い返さず、荷物をまとめて家を出た。
マンションの下まで来たところで、寝室に妊娠の検査結果を置き忘れたことに気づいた。取りに戻り、玄関の前まで来ると、室内から義母の澄江の声が聞こえた。
「七海は気が利くわね。うちの家族にぴったりだわ。圭介には最初から、莉央なんかと結婚する必要はないって言っていたのよ。親もいない子が、うちの嫁にふさわしいわけないでしょう?」
圭介は気のない声で答えた。
「母さん、心配しなくていいよ。こうして外に出ていったんだから」
七海がくすくす笑った。
「毎年、硬貨入りの団子を莉央に渡してるのに、本人は自分が運の悪い人間だと思ってるんだもんね」
三人の笑い声が、扉越しに聞こえた。
私はスマートフォンを取り出し、病院に電話をかけた。妊娠週数を伝え、中絶について相談したいと告げる。診察の予約を済ませると、圭介に送るはずだったメッセージを消した。
圭介には、私より一緒にいたい相手がいる。
だったら、私がこの結婚にしがみつく理由もない。
1
「宮坂さん、妊娠五週前後と考えられます。妊娠を継続しないというお気持ちは、もう決まっていますか?」
電話を握る手に汗がにじんだ。
「はい。決めています」
通話を終えた私は、ホテルのベッドの端に腰を下ろし、窓の外に浮かぶ月を見つめた。
妊娠がわかったときはうれしかった。十五夜に家族で月を眺めながら、圭介に打ち明けるつもりだった。彼の好きな料理を用意し、夕食のあとにどう切り出そうか考えていた。
けれど、圭介が硬貨の入った団子を差し出した瞬間、その考えは消えた。
一年目は偶然だと思った。二年目、団子を渡すときに圭介が目をそらしたのを見て、何かがおかしいと感じた。三年目には、また同じ団子を差し出された時点で、ほとんど察しがついていた。
それでも今年は、最後にもう一度だけ信じてみたかった。
結果は、何も変わらなかった。
結婚したとき、圭介は私の手を握り、「これからはここが二人の家だ」と言ってくれた。
三歳で両親を亡くした私は、親戚の家を転々として育った。年末年始や親戚の集まりがあるたび、大人たちの顔色をうかがい、迷惑をかけていないか気にしていた。いつ別の家に預けられることになるのか、そんな不安も消えなかった。どこに住んでいても、そこは私の家ではなかった。
だから圭介に「もう誰かの家に居候する必要はない。これからは俺がそばにいる」と言われたとき、疑いもせずに信じた。
結婚後、澄江は私の生い立ちを持ち出しては嫌味を言った。私は言い返せず、圭介を困らせたくなくて、いつか認めてもらえる日が来ると自分に言い聞かせていた。
けれど、さっき聞いた会話が、そのわずかな期待まで打ち砕いた。
「圭介、今夜は一緒に月を見ようね」
リビングから七海の声が聞こえる。
「昔から、七海の頼みを断ったことなんてないだろ?」
「だったら、どうして莉央と結婚したの?」
圭介はすぐには答えなかった。
代わりに澄江が口を開いた。
「圭介は情に流されたのよ。莉央がかわいそうだから、結婚すれば何とかなると思ったんでしょう。おかげで、簡単には追い出せない嫁を抱えることになったわ」
圭介は眉をひそめたものの、否定しなかった。
「それでも、七海が俺にとって大切な存在なのは昔から変わらないよ」
七海は満足そうに笑った。
「お義母さん、片づけはいいから、三人でテラスに行こうよ。月がきれいだよ」
澄江はうれしそうに応じた。
結婚して四年、私は澄江を「お母さん」と呼ぶことさえためらってきた。声をかける前に機嫌をうかがい、言葉を間違えて不快にさせないよう気をつけていた。
圭介はいつも「母さんは気難しいんだ。気にしすぎるなよ」と言うだけだった。
私の努力が足りないから受け入れてもらえないのだと思っていた。でも、七海は何も気にせず「お義母さん」と呼び、澄江も笑顔で応じている。
三人は楽しそうに話しながら、テラスへ向かっていった。
私は足音が遠ざかるのを待ってから、その場を離れた。
ホテルに戻り、チェックインを済ませる。硬貨で切れた唇を洗い、ベッドに腰を下ろしてから、圭介にメッセージを送った。
【離婚しましょう。】
2
翌朝になっても、圭介から返事はなかった。
見落としたのか、それとも返す気がないのか。考えるのも嫌になり、私は宮坂家へ戻って荷物をまとめることにした。
玄関を開けると、圭介と七海がソファに並んで座り、映画を見ていた。私に気づいた圭介は、さりげなく体をずらし、七海が座りやすいように場所を空けた。
先に口を開いたのは七海だった。
「莉央、昨日は一人でホテルに泊まったんでしょ? どうだった?」
私は靴を脱ぎ、返事をしなかった。
圭介の顔が曇る。
「七海が話しかけてるのに、聞こえないのか?」
私は彼を見た。
「快適だったわ。一人のほうが気楽だもの」
そんな答えが返ってくるとは思っていなかったのか、圭介は露骨に不機嫌になった。
「一人が好きなら、これからも十五夜はホテルで過ごせばいい」
七海はテーブルに残っていた月見団子を手に取り、私に差し出した。
「これ、昨日の残り。持っていけば? 圭介から聞いたよ。子どもの頃、親戚の家で余ったものを食べてたんだって?」
私は団子を受け取らなかった。
幼い頃のつらい記憶は、圭介を信頼して初めて打ち明けたものだった。まさか、それを笑いの種にされるとは思ってもいなかった。
私は手を伸ばし、皿を払い落とした。
団子が床に転がり、七海の笑顔が消えた。
「ちょっと、何するのよ!」
私は七海をまっすぐ見返した。
「四年間、私を笑いものにしてきたくせに。黙っていたからって、何をしてもいいと思わないで」
圭介が立ち上がった。
「莉央、いい加減にしろよ」
その言葉に、思わず笑いそうになった。
「毎年、硬貨入りの団子を私に渡してきたのはあなたでしょう? それで家を出る羽目になっても、私が悪いの?」
圭介の視線が一瞬だけ泳いだ。
「ただの遊びだろ。そんなに本気になることか?」
「遊びたいなら、一人でやればいい。私はもう付き合わない。昨日のメッセージも本気よ。離婚のことは弁護士に相談するから」
圭介は一瞬、表情をこわばらせたが、すぐに平静を装った。寝室から持ってきた一枚の紙を取り出す。私が置き忘れた、病院の妊娠検査の結果だった。
「妊娠してるのに、離婚だって? 俺と別れて、どうするつもりなんだ?」
彼は紙に目を落とした。
「五週って……どうしてもっと早く言わなかった?」
私は答えなかった。
妊娠を継続しないと決め、すでに病院へ相談していることを、彼は知る由もない。
「莉央、少しくらい大人になれないのか? 俺たちの家庭のことも考えろよ」
また、その言葉だった。
私が我慢してきたのは、いつか圭介と幸せな家庭を築けると信じていたからだ。それなのに、彼にとって私は、いつまでもこの家に置いてもらっているだけの人間だった。
七海は圭介と一緒に育ち、彼の好みも考え方も知り尽くしている。二人は何も言わなくても通じ合い、私はその輪の外にいた。
毎年十五夜になると、私だけが家を追い出される。それが、宮坂家で私に許された役割だった。
私は妊娠検査の紙を取り上げ、圭介の目の前で細かく破った。
「この子のことは、私が決める。十五夜に誰が家に残るかをくじ引きで決めるような家で、この子を育てたくないの」
3
「莉央、いい加減にしろ!」
圭介は怒鳴った。
「そこまで意地を張るなら、好きにすればいい。しばらく一人で暮らしてみろよ。寂しがりのお前が、俺なしでどこまでやれるか見ものだな」
そう言い捨てると、彼は七海を連れて出ていった。
私はその場に立ったまま、妙に落ち着いていた。
圭介は私が愛情に飢えていることだけは知っていたが、三歳から二十年以上、私は一人で生きてきた。寂しさに慣れているわけではない。それでも、耐えられないわけでもなかった。
息が詰まるような結婚生活を続けるより、自分の足で出ていくほうがいい。
宮坂家に私の荷物はほとんどなかった。寝室を片づけるのも、すぐに終わった。
四年間、夫婦の寝室として使ってきた部屋なのに、クローゼットの広い場所を占めていたのは七海の服だった。シルクのワンピースや限定品のニット、彼女専用のパジャマまで、きれいに並んでいる。圭介が買ってきた服もあり、澄江が自分の手で整理することさえあった。
私の服は隅に押し込まれ、数も少ない。畳んだまま長く置かれていたせいで、いくつかには深いしわがついていた。
履いているスリッパも、来客用の安いものだった。七海が来る日は、澄江が彼女専用のふわふわしたスリッパを用意する。
以前、私は圭介に尋ねたことがある。どうして七海の持ち物が、妻である私のものより多いのかと。
彼は面倒くさそうに答えた。
「昔、親戚の家にいたときだって、こんなスリッパを履いてただろ? たかがスリッパじゃないか。何をそんなに気にするんだよ」
あの言葉は、今も忘れられない。
親戚の家にいた頃、どれほど親切にされても、私はそこに住まわせてもらっているだけだとわかっていた。結婚しても、圭介の目には私は同じように映っていたのだろう。
スーツケースを引いて玄関へ向かうと、ちょうど澄江が帰ってきた。
「……お義母さん」
彼女は私の荷物を見るなり、鼻で笑った。
「やっと出ていく気になったの? あれだけ冷たくされても居座っていたくせに。誰かが引き止めてくれるとでも思ってる? 私は困らないわ。圭介だって同じよ」
私は言い返さず、靴を履いて外に出た。
宮坂家を離れたあと、綾森市の駅近くに小さな部屋を借りた。広くはないが、南向きの窓から日差しが差し込み、食卓の上まで明るくなる。新しいシーツと食器を買い、必要最低限の家具を置くと、部屋に少しずつ生活の気配が生まれた。
その日の夜、ようやく落ち着いて食事をした。
料理の味に文句を言う人も、誰かを先に世話しろと命じる人もいない。食べ終わったら休めばいい。誰かの機嫌をうかがう必要もなかった。
一人で暮らすことは、思っていたほど難しくなかった。
休んでいると、弁護士から離婚協議書の案が届いた。内容を確認してから、私はそのまま圭介に送った。
そのあとSNSを開くと、七海が投稿したばかりの写真が目に入った。
一枚目は、圭介が七海の手を取ってテラスに立っている写真だった。夜風に髪を揺らし、二人は親密そうに寄り添っている。
二枚目には、月見団子と三人分の食器が並んだ食卓が写っていた。
三枚目は、圭介、七海、澄江が並んで笑っている写真だった。まるで、最初から三人だけで家族だったかのように。
添えられた言葉は、こうだった。
「大切な人たちと、同じ月を見上げて」
写真の中に、私の居場所はなかった。
私は画面を閉じた。
その夜、圭介から電話がかかってきた。
「母さんの容体が悪化した。すぐ病院に来てくれ! 治療のことで、家族に確認したいことがあるそうなんだ」
圭介の父親が亡くなった数年後、澄江は再生不良性貧血と診断された。病状が悪化すると、輸血などの治療が必要になる。
私はこれまで、澄江の通院や入院手続きを手伝い、危険な状態になったときには一晩中病院に付き添った。医師が家族に確認したいことがあるとき、圭介が連絡してくるのはいつも私だった。
澄江の容体が悪くなるたび、彼は電話をかけてきた。
4
澄江が初めて危篤状態になった夜のことは、今でも覚えている。
結婚して一年目のことだった。いつも自信満々だった圭介が、言葉もまともに出てこないほど取り乱す姿を、私は初めて見た。
澄江はひどい出血を起こして救急搬送され、医師たちは治療に追われていた。圭介は廊下に立ち尽くし、顔を青ざめさせ、両手を震わせていた。
私の姿を見つけると、彼はすがるように手首をつかんだ。
「莉央、父さんはもういないんだ。母さんまで失いたくない。頼む、助けてくれ」
私は彼の様子に胸を痛め、医師に自分ができることを尋ねた。その夜は必要な手続きを代わりに進め、親族への連絡も済ませた。病室の外で待ち続け、澄江の状態がひとまず落ち着いたと聞いて、ようやく息をついた。
すべてが終わった頃には、ひどいめまいがして、休憩スペースで長いこと座っていなければならなかった。
圭介は外で待っていた。私が戻ると、彼は強く抱きしめた。
「莉央、ありがとう。本当にありがとう」
あの頃は、彼にとってたった一人の親を守れるのなら、どれだけ苦労しても構わないと思っていた。
けれど、それから私がすることは、少しずつ当たり前になっていった。
四年間、澄江の病状が悪化するたび、圭介から連絡が来れば深夜でも早朝でも病院へ向かった。入院手続きの書類をそろえ、医師の説明にも同席した。退院後も時間を見つけて顔を出し、必要なものを届けた。
自分が熱を出していたのに、夜中まで病院に付き添ったこともある。治療後に澄江の具合が悪くなり、看護師が状態を確認するまで病室の外で待ち続けたこともあった。
それでも、澄江から感謝されたことは一度もなかった。
ある日、検査を終えた澄江に付き添い、私は病室の外で休んでいた。顔色が悪く、立ち上がるのもつらかった。目を覚ました澄江は私を見ると、あからさまに嫌な顔をした。
「莉央、そこまで世話を焼くのは宮坂家に気に入られたいからでしょう? 何度か手伝ったくらいで、家族になれたと思わないで。結局、うちの財産が目当てなんじゃないの?」
私は立ち上がる力もなく、黙っていた。
圭介に話しても、彼は私をかばおうとはしなかった。
「母さんは治療を受けたばかりで、気持ちに余裕がないんだ。気にするなよ」
何度手を差し伸べても、返ってくるのは嫌味と侮辱ばかりだった。
電話の向こうで、圭介の声がいっそう苛立っていく。
「莉央、聞いてるのか? 早く来てくれよ。母さんのことで家族の対応が必要なんだ。こんなときまで意地を張るなよ!」
私は落ち着いた声で答えた。
「澄江さんの容体が悪化したからって、私には関係ないわ。あなたのお母さんは、ずっと私を嫁として認めてくれなかった。『お母さん』と呼ぶことさえ嫌がっていたでしょう。私たちはもう離婚するのに、どうして今までどおり呼べば来ると思うの?」
圭介は一瞬言葉を失い、すぐに怒り出した。
「莉央、お前には良心ってものがないのか?」
「そうね、私には良心がないわ。七海に頼めばいいでしょう。あなたたちにとって、家族なのは彼女なんだから」
私は電話を切った。
翌朝、圭介からメッセージが届いた。宮坂家の書斎で離婚に関する書類に署名しよう、という内容だった。
私は約束の時間に到着した。圭介は疲れ切った顔で机の向こうに座っていた。私を見るなり、責めるように言った。
「莉央、母さんが昨夜どれだけ危なかったか、わかってるのかよ」
私は書類を机の上に置いた。
「七海のことはあんなに大切にしているのに、どうして肝心なときに彼女が付き添っていないの?」
圭介は勢いよく立ち上がり、私の頬を平手打ちした。
頬に焼けるような痛みが走り、耳の奥で音が響いた。
圭介自身も驚いたらしく、手を見つめたあと、慌てた様子で私に近づいた。
「莉央、わざとじゃない。気が動転してたんだ。俺が母さんを大事にしてるのは知ってるだろ。痛むか? ちょっと見せてくれ」
彼が頬に触れようとしたので、私は顔をそむけた。
「お母さんも七海も大切なのね。私のことはどうでもいい。圭介、もうあなたにはうんざり。早く署名して。これ以上、一緒にいたくない」
圭介の顔から、また笑みが消えた。
「わかったよ。そこまで言うなら好きにしろ。子どもを片親の家庭で育てたいんだろ? 勝手にすればいい。あとで泣いて戻ってきても知らないからな」
彼は離婚協議書に署名した。私は自分の分を受け取り、振り返らずに書斎を出た。
その後、予約していた病院へ向かった。医師から処置の内容とリスクについて説明を受け、確認を済ませてから人工妊娠中絶の処置を受けた。
処置後は院内で経過を観察してもらい、医師の指示に従って自宅で休むことになった。数日後の再診まで無理をせず過ごすよう言われた。
数日後、再診のため病院を訪れた私は、廊下で圭介と鉢合わせた。
彼は入院中の澄江を見舞いに来ていたらしく、生活用品の入った袋を持っていた。私を見た瞬間、圭介の顔から血の気が引いた。視線が私のお腹に落ちる。
「莉央……子どもは、どうしたんだ?」
5
私は彼を見つめたまま答えた。
「手術を受けたわ」
圭介の手から、袋がゆっくりと下がった。
母親の容体がひとまず落ち着いたあとも、彼の怒りは消えていなかった。私が離婚を口にしたのも、その場の勢いで言っただけだと思っていたのだろう。少し時間を置いて、いつものように機嫌を取れば、私はまた戻ってくる。彼はそう考えていた。
私が本当に家を出て、自分の意思で決断するとは思っていなかったのだ。
しばらくして、圭介はようやく声を絞り出した。
「正気なのか? 俺の子だぞ。二人の子どもだったんだ。どうして本当に手術を受けたんだよ!」
彼は私に駆け寄り、手首をつかんだ。
「莉央、どうしてそんなに冷酷になれるんだ?」
つかまれた手首が痛んだ。私は彼を見上げた。
「私が冷酷? 圭介は、この子のことを本気で考えたことがあった?」
胸の奥に積もっていた言葉が、次々とこぼれた。
「十五夜の日、あなたは七海と月を見ることしか考えていなかった。わざと硬貨入りの団子を私に渡して、家から追い出したとき、この子のことを考えた? お義母さんが私を侮辱しているときも、七海が私の子どもの頃の話を笑いものにしているときも、あなたは何もしてくれなかった」
圭介は口を開きかけたが、私は続けた。
「私を殴って、離婚協議書に署名させて、戻ってきても知らないと言った。あのときは、何を考えていたの?」
圭介は動けなくなった。私の手首をつかんでいた指から、少しずつ力が抜けていく。
私は手を引き抜き、赤くなった部分をさすった。
「もう疲れたの。離婚の手続きも進んでいるし、宮坂家を出て自分の生活を始めた。もう連絡してこないで。人を見誤った私にも責任はある。でも、これからは同じ失敗を繰り返さない」
圭介はうつむいた。声には、はっきりと動揺がにじんでいた。
「莉央、ごめん。本当に悪かった。もう一度、戻ってきてくれないか。やり直したいんだ。今度は君を大切にする」
私は一歩、後ろに下がった。
「遅すぎるわ。毎年、あなたが硬貨入りの団子を私に渡していた頃から、私たちの関係は壊れ始めていたの。私は何度もあなたを信じようとした。でも、あなたは一度も、その気持ちに応えてくれなかった」
私は出口へ向き直った。
「もう帰るわ。これからは私の生活に干渉しないで」
そのまま歩き出す。背後で圭介が私の名前を呼んでいたが、振り返らなかった。
6
その後一週間、私は医師の指示に従って自宅で静養した。圭介が訪ねてくることはなかった。今は体を休め、新しい生活を整えることに集中したかった。
再診を終えた日のことだった。秋の風がひんやりと頬をなでる。病院の階段を下りると、入口に圭介が立っていた。
目の下には濃い隈ができ、手には白い桔梗の花束を抱えていた。
私に気づくと、彼は足早に近づいてきた。それでも、以前のように勝手に体に触れることはせず、ためらいがちに花束を差し出した。
「莉央、ずっと待ってたんだ。君のために買ってきた」
私は花を一瞥しただけで、受け取らずに横を通り過ぎようとした。
圭介は慌てて回り込み、道をふさいだ。両手が小さく震えていた。
「俺が悪かった。十五夜のことも、母さんにひどいことを言われていたのに黙っていたことも……本当に悪かった」
彼は花束を握り直した。
「殴ったことも、言い訳できない。莉央、本当にごめん」
これまで、圭介が自分から頭を下げることなどなかった。今は花束を抱え、すがるような目で私を見ている。
「もう一度、やり直したい。今度こそ君を大切にする。十五夜も一緒に月を見たい。もう一人でホテルに行かせたりしない」
圭介は一度言葉を切った。
「君が望んでいた家庭を、今度こそ作りたい。今までのことも、これから償っていくから」
私は手を上げ、彼の頬を打った。
「これは、書斎であなたに殴られた分よ」
圭介は呆然と立ち尽くした。何か言おうとした彼に、私はもう一度、平手打ちをした。
「これは、あの子の分。妊娠がわかってから、私が決断するまで、あなたには私を大切にする機会が何度もあった。それなのに、あなたは七海をかばって、私を責め続けた」
圭介は避けなかった。腕に抱えていた桔梗が握りつぶされ、花びらが何枚か地面に落ちた。
私は手を下ろし、彼を見つめた。
「私たちはもう終わったの。二度と会いに来ないで。今みたいに付きまとわれたら、ますます嫌いになるだけよ」
それ以上、話すことはなかった。
私は背を向け、その場を離れた。もう振り返らなかった。
四年間、私を縛りつけていた男との関係は、これで終わりだった。
7
私は宮坂家との私的な連絡を断ち、離婚の手続きを済ませ、新しい仕事を始めた。
以前は誰かの機嫌を損ねないよう、相手の希望に合わせてばかりいた。何か言い間違えたら、また居場所を失うのではないか。そんな不安が、いつも頭の片隅にあった。
これからは、自分のために時間を使おうと決めた。
仕事に取り組み、きちんと食事をし、少しずつ貯金を増やした。長年身についた気の遣いすぎや不安も、すぐには消えなかったが、以前より穏やかな気持ちで過ごせるようになった。
半月ほど経った頃、予約していた再診を受けた。医師から回復は順調だと聞き、引き続き無理をしないようにと言われた。診察を終えて廊下を歩いていると、曲がり角の先で圭介が車椅子を押しているのが見えた。
車椅子に座っていたのは、澄江だった。
半月前に会ったときより、ずっと痩せていた。顔色は悪く、ゆったりしたカーディガンの肩が余っている。病気を繰り返すうちに体力が落ち、今では少し歩くだけでも車椅子が必要になっていた。
圭介も以前よりやつれて見えた。目の下には疲労の色が濃く残っている。
私に気づいた澄江は驚いたように顔を上げ、それから小さく名前を呼んだ。
「……莉央」
私は足を止めた。
澄江がこんなに柔らかな声で私の名前を呼んだのは、初めてだった。
彼女は車椅子の肘掛けを握り、震える声で言った。
「莉央、今まで本当にごめんなさい。あなたをずっと見下して、ひどいことばかり言ってきたわ」
私は何も答えなかった。
結婚してから四年間、澄江に叱られたり、嫌味を言われたりしたことは何度もあった。それでも、謝られたことは一度もなかった。
澄江は私が立ち去らないのを見ると、目を赤くした。
「入院してから、あなたがどれだけいろいろなことをしてくれていたのか、身にしみてわかったの。七海も最初は二度ほど見舞いに来てくれたけれど、そのあとは仕事が忙しいと言って、電話さえあまりくれなくなった」
澄江は車椅子の肘掛けを握り直した。
「痛くて眠れない夜もあったし、病状が悪化して不安でたまらないときもあった。そばにいてくれたのは、圭介だけだったわ」
澄江はうつむき、しばらく黙った。
「私はあなたに親がいないことを理由に、圭介にはふさわしくないと思っていた。病院の手続きや世話をしてくれるのも、宮坂家に気に入られたいからだと決めつけていたのよ。でも、この四年間、私が困るたびにあなたは駆けつけてくれた。自分の体調が悪いときでさえ、私のために動いてくれたのに……。私はそれを当たり前だと思って、ちゃんとお礼を言ったこともなかった」
声がだんだん小さくなっていく。
「莉央、あなたは本当にいい子だったのね。悪かったのは、私たち宮坂家のほうよ」
圭介は隣でうつむいたまま、何も言わなかった。
澄江は顔を上げ、ためらいがちに私を見た。
「圭介に、もう一度チャンスをあげてもらえないかしら。あの子も本当に後悔しているの。もう一度、夫婦に戻ってくれない? これまでのことは、これから少しずつ埋め合わせるから」
8
圭介が顔を上げた。目は赤く腫れていた。
「莉央、今さら遅いのはわかってる。でも、変わりたいんだ。七海にも、今までのような関係は続けないと伝えた。戻ってきてくれないか?」
彼は息をつき、私を見つめた。
「君が望むことなら、何でもするから」
私は最後まで聞いてから、静かに首を横に振った。
「いいえ」
澄江に向き直り、私は続けた。
「宮坂家のお金が欲しかったわけでも、大きな家に住みたかったわけでもありません。ただ、自分を大切にしてくれる人と、節目の日に一緒に食事をしたかった。それだけです」
澄江はうつむき、顔を上げなかった。
「でも、あの家では四年間、十五夜に残れるかどうかさえ、くじ引きで決められていました。私が受け取ったのは、拒絶と裏切りばかりです」
私は圭介を見た。
「後悔しているのはわかります。でも、その後悔を埋め合わせとして受け取るつもりはありません。もう、あの家には戻りません」
私は軽く頭を下げ、車椅子を避けてエレベーターへ向かった。
背後から圭介のかすれた声が聞こえ、澄江のすすり泣きも聞こえた。それでも、足を止めなかった。
病院の外に出ると、明るい日差しが降り注いでいた。
駅へ向かう途中、パン屋に立ち寄り、好きなパンを買った。翌日もいつもどおり出勤し、あの再会について考えることはしなかった。
新しい職場の人たちは話しやすく、私は少しずつ自分の意見を口にできるようになった。不合理なことを頼まれたときも、無理なものは無理だと伝えられるようになった。
その頃、片桐春臣と知り合った。
私より少し年上で、穏やかで落ち着いた人だった。最初は仕事を通じて話すようになり、やがて食事に行ったり、展覧会を見に行ったりするようになった。そうして、少しずつ交際が始まった。
春臣は私の過去を知っていたが、必要以上に聞き出そうとはしなかった。かわいそうな人を見るような目で、私を扱うこともなかった。
ある週末、二人で展覧会に行く約束をした。天気予報では雨だったので、春臣は別の日にしようかと尋ねてくれた。私は予定どおりでいいと答えた。すると彼は予備の傘を持ち、駅前で待っていてくれた。
展覧会を見終えたあと、私たちは近くの店で食事をした。私はいつもの癖でメニューを彼に渡し、注文を任せようとした。けれど、春臣はそれをそっと押し返した。
「莉央が食べたいものを選んでいいよ。君の好きなものも知りたいから」
何気ない一言だったのに、私は長いこと忘れられなかった。
春臣は、私が何かを断っても不機嫌にならない。意見が食い違ったときは、まず私の話を聞き、それから一緒に考えてくれた。仕事で落ち込んだ日も、無理に元気づけようとはせず、散歩に付き合い、私が話したくなるまで待っていてくれた。
私たちは少しずつ距離を縮め、やがて婚約した。
結婚式は大げさなものにせず、親しい友人や同僚だけを招いた。結婚して一年後、私は女の子を出産した。
娘は柔らかな顔立ちで、よく笑う子だった。春臣は仕事から帰ると、まず手を洗い、それから娘の顔を見に行った。最初の頃は着替えさせるだけでも袖を反対に通してしまったが、娘が大きくなると、今度は父親の後ろを追いかけて抱っこをせがむようになった。
リビングにはおもちゃや小さな靴下が増え、冷蔵庫には娘が描いた絵が貼られた。春臣は帰宅すると娘と遊び、それから私と一緒に夕食の支度をした。
かつて私が夢見ていた家庭は、いつの間にか日々の暮らしの中にあった。
ある週末、私たちは三人でスーパーへ買い物に出かけた。
私は夕食の食材を選び、春臣は娘の手を引いて菓子売り場のほうへ向かった。棚の角を曲がったとき、ふと圭介の姿が目に入った。
何年も会っていなかった彼は、以前よりずっと痩せていた。暗い色の服を着て、通路の脇に一人で立っていた。
圭介は私に気づくと、驚いたように動きを止め、それから無意識に一歩こちらへ踏み出した。
そのとき、背後から娘の明るい声が響いた。
「ママ!」
春臣に手を引かれて戻ってきた娘は、私を見つけると父親の手を離し、小さな足で駆け寄ってきた。
「ママ、パパと一緒に、ママが好きなお団子を見つけたよ! 今夜、みんなで食べよう?」
娘は箱を持ち上げ、うれしそうに笑った。
春臣も私のそばまで来て、娘をそっと支えながら微笑んだ。
「莉央の好きな味だったから、もう一箱買っておいたよ。夕飯のあとに食べよう」
私は娘を抱き上げ、団子を買い物かごに入れた。
「いいわね。でも、まずはご飯を食べてからね。おやつはそのあと」
娘は素直にうなずき、春臣の手を握り直した。
私たちはそのまま買い物を続け、夕食に何を作るか話しながら売り場を回った。
圭介がすぐ近くにいることはわかっていた。それでも、私は一度も振り返らなかった。
9
圭介はスーパーの通路の角で、立ち尽くしていた。
莉央を見かけた瞬間、声をかけようと思った。元気にしているのか聞きたかったし、ずっと言えなかった謝罪も伝えたかった。
だが、小さな女の子が莉央の胸に飛び込み、春臣を「パパ」と呼ぶのを見て、足が止まった。
莉央は笑いながら娘の手から団子の箱を受け取り、傾いた襟元を直してやっていた。春臣は自然な様子で二人のそばに立ち、買い物かごを押しながら、今夜の夕食について話している。
三人はすぐに遠ざかっていった。
圭介は踏み出しかけた足を、ゆっくりと戻した。
用意していた言葉は、一つも口にできなかった。行き交う人々の中で、莉央たち家族の背中が見えなくなるまで、ただ立っていた。
自分が望めば、莉央はいつか戻ってくる。以前はそう信じていた。今は、挨拶さえできない。
あの再会からしばらくして、私はニュースで澄江の訃報を知った。
長年、病状の悪化と回復を繰り返していたが、とうとう亡くなったらしい。
圭介から電話がかかってきた。
「莉央、母さんが亡くなったんだ。最期の頃まで、よく君の話をしていたよ。あのとき、君にひどいことをしたって、ずっと気にしていた」
私は少し黙ってから、お悔やみの言葉だけを伝え、電話を切った。そして圭介の番号を着信拒否にした。
それから、私たちが連絡を取ることはなかった。
澄江が亡くなったあと、圭介はしばらく仕事に身が入らなかったらしい。後になって聞いた話では、宮坂ホールディングスでは以前からの問題が次々と表面化し、幹部が相次いで退職した。進行中のプロジェクトにも支障が出て、取引先は経営状況を見直し、銀行も融資に慎重になったという。株価も下がり続け、数か月のうちに宮坂家の事業は深刻な状況に追い込まれた。
七海も、以前のように圭介から気にかけてもらえなくなったそうだ。昔は欲しいものがあれば、圭介はできる限り叶えてくれた。誕生日の贈り物や旅行、限定品のアクセサリー。車やマンションまで買ってやると約束していたことがある。
私が家を出てから、圭介の関心は次第に七海から離れていったらしい。澄江の病状が悪化し、会社の問題が深刻になると、七海からの電話にも出なくなった。
七海は初め、甘えた声で不満を訴えていたそうだ。けれど、圭介が自分を優先しなくなったと悟ると、態度を変えた。
彼女は圭介のもとへ行き、責任を取るよう迫った。
「圭介、私は子どもの頃からずっとあなたのそばにいて、何をするにもあなたを優先してきた。結婚したあとだって、私が一番大切だって言ったじゃない。今さら、もう関係ないなんて言うの? 私が費やしてきた時間は何だったのよ」
七海は圭介をにらみつけた。
「せめて、今までの分くらい埋め合わせてよ!」
まとまった金額に加え、以前約束していた車やマンションまで要求したが、圭介は応じなかった。
二人の言い争いは激しくなり、どちらも引かなかった。やがて七海は、過去のメッセージを知人たちに見せるようになった。結婚後も圭介と親密な関係が続いていたことを明かし、妻を失った途端に責任を自分へ押しつけていると非難した。
その話は知人たちの間にも広がった。七海に同情する人もいたが、圭介が結婚していると知りながら夫婦関係に深く関わっていたのに、今さら補償を求めるのは筋違いだという声もあった。
七海は弁護士にも相談し、過去の約束や財産について請求できないか検討したという。圭介も、自分にそんな義務はないと主張し、七海が人前では愛想よく振る舞いながら、陰では計算高く立ち回っていたと周囲に話した。
かつて周囲から羨ましがられていた幼なじみ同士は、互いを責め合うようになった。二人の争いは知人の間に広がり、やがて噂話の種になった。
そんな話を耳にしても、私は聞き流した。二人の間で何が起きようと、もう関係のないことだった。
また十五夜がやってきた。
日が暮れると、小さな庭に温かな明かりがともった。私は春臣と一緒に夕食の支度をし、食卓には月見団子と家庭料理を並べた。
硬貨を隠した団子も、私を家から追い出すゲームも、もうなかった。
娘が菓子の箱を抱えて、私のそばへ走ってきた。
「ママ、どれが好き? 選んであげる!」
私は笑った。
「どれも好きよ。ママの分を選んでくれる?」
娘はうれしそうに団子を私の皿へ置き、今度は春臣のところへ駆けていって、抱っこをせがんだ。
春臣は娘を抱き上げ、私に声をかけた。
「莉央、明日はみんなで神社に行かないか? 朝ご飯を食べて、娘が起きてから出かけよう」
私はうなずいた。
「いいわね。明日はのんびり過ごしましょう」
娘は神社に行けると知って大喜びし、りんご飴も食べたいと言い出した。春臣は笑いながら、まずは夕飯をきちんと食べようね、と娘に言い聞かせた。
夜が更け、娘が眠くなると、春臣は寝室へ連れていった。私は食卓のカップを片づけ、窓辺に立って、静かな街の灯りを眺めた。
子どもの頃、節目の日が来るたび、私は親戚の顔色をうかがい、食卓に残っていてもいいのかと気にしていた。圭介と結婚して、ようやく自分の家ができたと思ったのに、四年もの間、同じゲームで家から追い出された。
今では、あの日々もずいぶん遠いことのように感じられた。
春臣が寝室から戻り、娘が眠ったと教えてくれた。彼は私のそばに来て、そっと手を握った。
「莉央、来年の十五夜も一緒に月を見ような」
私は彼を見上げた。
「うん。来年も一緒にね」
リビングには温かな明かりがともり、テーブルには翌日の食事の準備が残っていた。ソファのそばには、娘のおもちゃがいくつか転がっている。
長い間、私が願い続けていた家族との団らんは、特別な日だけのものではなくなった。今では、ごく普通の毎日の中にある。
同じ夜、圭介は宮坂家のテラスに一人で座っていた。
以前は十五夜になるたび、ここにテーブルと椅子が用意された。澄江が団子を並べ、七海が一緒に月を見ようとはしゃぎ、圭介はそのたびに莉央を家から追い出す方法を考えていた。
あの頃、圭介のそばには母親がいて、幼い頃から一緒に過ごした七海がいて、自分を一途に思ってくれる妻もいた。
それなのに、彼は何一つ大切にしなかった。
今、澄江は亡くなり、七海とは決裂し、会社も苦境に陥っている。広い宮坂家には、彼一人しかいなかった。
テーブルには、いつもの癖で三人分の食器が並べられていた。その隣には、月見団子の箱が置かれている。
圭介は箱を開け、団子を一つ手に取った。
中に硬貨は入っていなかった。
彼は結婚したばかりの頃の莉央を思い出した。あの頃、莉央は十五夜に一緒に夕食を作ろうと、うれしそうに尋ねてきた。子どもの頃は親戚の家で過ごすことが多かったから、家族と一緒に月を眺める夜を経験してみたいのだと話していた。
けれど、圭介は面倒に感じ、母親の言うとおりにしておけばいいと答えた。
翌年、彼はあのゲームを思いついた。硬貨入りの団子を莉央に渡し、彼女が荷物をまとめて出ていくのを見送る。そのあと七海と静かに十五夜を過ごせることを、都合よく喜んでいた。
あのときは、莉央が本当に去り、二度と戻らなくなる日が来るとは考えもしなかった。
今、テラスには空いた席がいくつもある。もう、誰かを追い出す必要もなかった。
遠くから寺の鐘の音が聞こえた。
圭介は一人きりで座り、手にした団子を口に運ぶこともできずにいた。
かつて誰よりも彼と一緒に月を見たいと願っていた人は、今では別の家で、自分の家族と団らんを楽しんでいる。
圭介がその人を待ち続けても、もう二度と戻ってくることはなかった。




