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おれが人質         :約5000文字

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/03/15

「……ん……え?」


 目を覚ましたおれは、ぎょっとし、喉の奥からかすれた声を漏らした。いや、まず自分が眠っていたこと自体にも驚きだったが、それ以上に、目に映る光景がまったく見覚えのないものだったのだ。

 床も壁も天井も、すべて剥き出しの土。呼吸するたびに、湿った土とカビのような匂いが鼻腔にまとわりつく。頭上には裸電球が一本、細いコードにぶら下がっており、わずかに揺れていた。

 そして何より――おれは椅子に縛りつけられていた。

 胴体、手首、足首。麻のロープが何重にも巻きつけられ、雑に結ばれていた。少し身じろぎするだけで、繊維が皮膚を擦り、じりっとした痛みが走る。

 視線を巡らせると、部屋の隅にはパイプベッドが一つ。支柱が錆びついており、ところどころ小さな穴が開いていた。乗せられた枕とシーツは黄ばんで汚れ、茶色い輪じみが広がっている。

 あとは木製のドアが一枚あるだけ。窓はどこにもなく、まるで地面の下に掘られた穴ぐらのようだった。


 いったいなぜ、おれがこんなところに……。

 それに、この服。おれは自分の体を見下ろした。着せられているのは、海外の囚人服みたいなオレンジ色のTシャツだった。布は安っぽく、どこかざらついており、肌に馴染まない。サイズも合っていないようで、肩の部分の布が浮いていた。


 昨夜はたしか……いや、いつもどおりだった。バイトを終え、コンビニで缶ビールを一本買い、歩きながら飲んだ。記憶を飛ばすほどの量じゃない。

 頭の奥を必死に探っていると、突然ドアがぎい、と軋む音を立てて開いた。

 そして、二人の男が入ってきた。

 中東の人間だろうか。黒いガウンのような服をまとい、顔は目元だけを残して黒い布で覆っている。露出している手と目の周りの肌は褐色で、彫りが深いように見える。この状況と相まって、これはまるで――


「オマエ、ヲ、ユウカイ、シタ」


「は!?」


「コレカラ、ニホンセイフヘムケル、メッセージ、トル。イワレタトオリニ、イエ」


「いや、え、え?」


 おれが人質……? 

 そんな馬鹿な。紛争地帯に行った覚えもない。ただいつもの道を歩いて帰っていただけだぞ……。

 ……あっ! 待てよ。

 そうだ。突然、後ろから誰かに羽交い締めされたんだ。……ああ、思い出した。腕を取られ、口元を塞がれ、息が詰まった。必死にもがいたが力が抜け、視界が暗くなっていった。

 あれはこいつらが、あるいはその仲間がやったのか。

 薬かスタンガンか。とにかく眠らされて、ここへ運ばれたのだろう。

 だが、長時間眠った感覚はない。飛行機で国外へ運び出すというのは手間がかかりすぎる。たぶん、ここは国内のどこかだろう。連中はこの国に入り込み、潜伏していたというわけか……。

 おれはぶるりと震えた。まさか、そんな危険が日常に潜んでいて、しかも自分が当事者になるなんて……。


 おれの推測は概ね当たっていたらしい。連中は、祖国で戦う同志がどうのとか、拘束された仲間をどうのこうのと一方的に喋り続けた。

 おれからすればそんなことはどうでもよく、耳に残ったのはただ一つ。うまくいかなければ殺す――その言葉だけが頭の奥で何度も反響していた。


「――えー……それで、彼らの要求どおりにお願いします。どうか、私を助けてください……」


 拘束を解かれ、床に膝をつかされたおれは、カメラの前で震えながらカンペを読み上げた。三脚に据えられた黒いレンズが冷たくおれを見つめている。銃口を向けられている気分だった。


「エー、ハ、イラナイ」


「あっ、すみません。緊張しちゃって……は……は……」


 笑ったつもりだったが、喉がひくりと鳴っただけに終わった。まだ現実感が薄く、頭の中に綿を詰められたみたいで、思考がふわふわしている。ただ尿意ははっきりとあったし、脇の下はびっしょりと濡れていた。

 撮影が終わると、連中はカメラと三脚を抱えて部屋を出て行った。ドアが閉まり、鍵がかかる音がやけに大きく、冷たく響いた。

 一人になったおれは、大きく息を吐き、その場にへたり込んだ。額を土の床につけ、浅い呼吸を何度も繰り返す。体が勝手にガタガタと震え、気づけば両手をぎゅっと握りしめていた。

 なんでだ。どうして、おれがこんな目に……。

 現実感が戻るにつれ、胸の奥がきつく締めつけられ、息が詰まりそうになった。

 これからおれはどうなる。

 決まっている。痛めつけられ、その様子を撮影されるのだ。そして、さ、さ、最悪の場合……。

 ああ、頼む。誰か……誰か助けてくれ――。


 おれはいったい誰に祈ったのだろう。神か、それとも人か。神だとして、それはどこの神だ。あいつらのか。

 その後も撮影は何度か行われた。動画はネットに投稿されて拡散された。全国ニュースにもなったらしい。だが、政府は交渉する気配をまったく見せないという。

 理屈はわかる。確かにテロリストに金を渡せば資金源となり、新たな犠牲者が生まれるだろう。批判も免れない。理解はできる。だが、そんなものは机上の空論だ。納得できるはずもない。

 ……が、それはそれとして、今おれが一番気になっているのは――。


「――えー、政府よ。もう時間の猶予はないと思え。直ちに身代金を指定の口座に支払うのだ……あのー」


「エー、モ、アノー、モ、イラナイ」

「イイ。カットスル。ソレト、コレガサイゴノ、チャンスダ。コウショウ、ナケレバ、オマエ、コロス」


「いや、台本が悪いんですよ!」


 おれは思わず声を張り上げた。

 連中は三脚を畳みながら、こちらをじろりと見て目を細めた。顔をしかめたらしい。だが構うものか。連中は外国人ゆえに、日本語の微妙なニュアンスがわからないのだ。直したかったが、一言一句違えずに読まなければひっぱたかれる。練習の段階でも何度も叩かれた。だからここまで大人しく従ってきたが、このまま交渉が成立しなければ、そうも言ってられない。命が危ないのだ。


「もっと、あいつらの……日本人の心理を突かないとダメなんですよ」


「ドウ、シロト?」


「それはその……だから、もっと日本人の心に響く言い方にしないと……」


「タトエバ?」


「だ、だから……そうですね……もっと切実に、時間がないことを強調するべきですね。あとは、金を払わなければ損をすると感じさせること。それから……そう、武士道。武士道は日本人の精神文化ですからね。日本人が情に厚い民族であること、義を重んじる民族であることを訴えて、本来の日本人の心を思い出してもらうんですよ」


 自分でも驚くほど、喋り始めると次から次へと言葉が湧いてきた。死の気配を間近に感じ、脳内にアドレナリンが一気に噴き出したのだろう。頭が妙に冴え、思考がするすると組み上がっていき、舌が踊るように回る。

 連中が無言で三脚を立て直し、再びカメラを回し始めた。

 赤い録画ランプが灯った瞬間、おれの口はさらに勢いを増した。

 おれは喋り続けた。閉店間際の大安売り。今だけ。今だけですよ、今しかないよ。買わなきゃ損だよ、ソンソンソン。限定だよ。みんな買ってるよ。今日限り。今日を逃せば二度と手に入らないよ。あの有名人もご愛用。買わなきゃ恥。馬鹿にされるよ。買うのが普通なんです。買わないほうが変。白い目で見られますよ。くすくす笑われたくないでしょ。騙されたと思って買ってみなさいよ。たとえ騙されても踊ればいいじゃない。踊らにゃ損損ソンソンソン。馬鹿踊り阿保踊りヨイヨイヨイヨイ……。



 ◇ ◇ ◇



 ……気がつくと、おれは夜空を仰いでいた。濃紺色の空に、星がいくつか瞬いている。

 遠くから、ざあ、ざあ……と規則正しい波の音が聞こえてくる。湿った夜風が頬を撫で、かすかな潮の匂いが鼻をかすめた。どうやら、ここは海の近くの公園らしい。おれはベンチに横たえられていた。

 体の節々が鈍く痛む。起き上がると、背中に貼りついていたベンチの冷たさと硬い感触が徐々に消えていった。

 おれは周囲を見回した。人の気配はなく、外灯がまばらに立ち、向こうの公園の遊具をぼんやりと照らしていた。

 見覚えがない場所だった。だが、しばらく歩き、道路標識やバス停、色褪せた掲示板の地図を確かめるうちに、ここが自分の住む町から二つほど離れた地域だとわかった。

 おれは夜道を歩きながら、ぼんやりと考えた。


 どうやら、連中はここまで運んで捨てたらしい。助かった……のか。

 だが、なぜだ。政府との交渉がうまくいったのか。それとも失敗したが、殺すのも面倒になったのか。あるいは連中の良心が痛んで……いや、それはないか。

 もっとも、おれの死にたくないという思いが連中の心を揺さぶった可能性はある。喋り続けなければ死ぬ――あのときはその一心だった。

 とにかく、おれは助かったんだ……。

 空が白み始めた頃、ようやく自宅アパートにたどり着いた。おれは部屋に入るなりベッドに倒れ込み、そのまま泥のように眠り込んだ。


 昼過ぎに目を覚ましたおれは、まだ現実感を取り戻せずにいた。あの生活のほうが夢――悪夢のようなものだったが、むしろ今いるこの部屋のほうが夢の中のように感じる。本当は、まだおれの体はあのカビ臭い穴倉に横たわっているのではないか。そんな不安が胸の奥をどくどくと叩き続けた。

 だがシャワーを浴びると、体に染みついた匂いや汚れとともに恐怖が流れ落ち、少しずつ安堵感が戻ってきた。

 テレビをぼんやり眺めながら、適当なカップ麺をすすっていると、ふとバイト先のことが頭に浮かんだ。この時間帯は、だいたいバイトに出ていたのだ。

 無断欠勤どころの話ではない。どう事情を説明したものか……なんて、あれだけ壮絶な体験をしたのに、こんな凡庸なことで悩む自分がどこかおかしく、おれは笑った。

 とりあえず顔を出しに行こうと思い、おれは部屋を出た。

 それにしても、改めて思い返すと、とんでもない日々だった。トイレに行くときは背中を小突かれ、食事はまずくても毎回腹いっぱいまで食べさせられた。ジュースはたまにしか出ず、水はぬるい。漫画を読んでいたのに、勝手に部屋の電気を消されたこともあった。あんな地獄はもう二度と経験したくない。


 それはそうと、店長も大変だっただろう。よく考えたら、おれの件は全国に伝わっているはずだ。マスコミが押し寄せ、相当な騒ぎになったに違いない。再会したら、きっと涙ぐむだろう。その様子もテレビで流れるかもしれない。結果的にはいい宣伝になる、か。

 ……そういえば、家にマスコミが来なかった。まだおれが解放されたことを知らないのだろうか。


 そう考えたおれは、駅前の交番に立ち寄ることにした。

 駅に近づくにつれ人通りが増えていく。すれ違う人々がおれの顔を見るたびに、何かに気づいたように「あっ」と声を漏らしたり、目を丸くした。

 どうやら、かなり話題になっていたらしい。きっと出版社から声がかかるぞ。トークイベントも開こう。映画にもなるだろう。

 そんな高揚感を抑えながらおれは引き戸を開け、交番の中へ足を踏み入れた。


「あのー」


「はいはい……あっ」 


 机で書類を書いていた警官は顔を上げた。そして次の瞬間、目を見開いた。


「どうも。いやあ、なんとか無事に戻ってこれ――」


「こ、この……お、お前こそが日本人の面汚しだ!」


「……へ?」


 背後がざわりと揺れた気配がした。振り返ると、そこには警官と同じように顔を歪めた――いや、はっきりとした嫌悪の表情を浮かべた人々が立っていた。


 ――もしかすると、おれは寄り添いすぎたのかもしれない。




『えー、政府よ。まだ検討中ですか? それとも私の名前すら覚えていませんかね? あなた方はどうも当事者意識に欠けている。「遺憾です」と言えばそれで済むと思っているんですか? こうなったのもね、全部あなた方の責任なんですよ。早く動いてください。検討の余地などないのです。私に残された時間はあとわずかですよ。たまには私の声を、国民の声を聞いてくださいよ。国民も同罪ですよ、ええ。SNSでは、あなた方はずいぶん流暢ですが、指よりも口を動かさないと。政府に圧力をかけないとダメじゃないですか。人助けのときですよ。無意味な人生に少しでも意義を持たせたらどうなんですか。お隣の国を見習ったらどうです? いいですか、皆さん。これが私を助ける最後のチャンスです。よくお考えください。これはね、日本人の清き心を取り戻す最後のチャンスでもあるんですよ。そもそも、あなた方日本人はね――』

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