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第9話「屋上の密会と距離8cm」

 ミラの転入から一週間が経った。

 教室の座席配置は以下の通りである。

 俺の左隣:時任明日香。距離50cm。

 俺の右斜め後ろ:ミラ。距離120cm。

 左を向けば明日香の横顔が見える。柔らかい黒髪と、ノートを取る真剣な目元。右後ろを振り向けばミラの無表情がある。教科書を開いているが、目線は教科書ではなく俺の後頭部に固定されている。

【左方向:時任個体。距離50cm。右後方:ミラ個体。距離120cm。包囲状態です】

(包囲って言うな)

 包囲。軍事用語だ。教室で使う言葉ではない。しかし体感としては正しい。二方向からの視線に挟まれて、背中から汗が出る。四月も後半に入って気温が上がっているが、この汗は気温のせいじゃない。

 授業中、明日香が小声で話しかけてくる。

「岐堂くん、ここの問題分かる?」

「え、これは——二番の公式を使えば」

「ありがと。……ねぇ、今日のお昼さ」

 背中に視線。

 振り返らなくても分かる。ミラが見ている。ミラの視線は物理的な圧力を持っている。気のせいではなく、体感気温が0.5度下がる。

「お昼、どうする?」

「あー……」

 この質問が最近のボスイベントだ。毎日発生する。毎日発生して、毎日正解がない。

 ——チャイムが鳴る。

 四限目が終わった瞬間、二方向から声が来た。

「岐堂くん、一緒に——」

「選。屋上」

 同時。

 明日香が途中で止まった。ミラが席を立っている。

 教室の空気が凍る。周囲のクラスメイトが一斉に目を逸らす。巻き込まれたくないという意志が伝わってくる。賢明な判断だ。俺も巻き込まれたくない。当事者だけど。

「えっと……」

 明日香が微笑む。少しだけ、力のこもった微笑み。

「ミラちゃんと約束あるなら、いいよ。私は教室で食べるから」

「いや、別に約束は——」

「選。屋上」

 二回目。ミラの「屋上」は二回言われたら命令になる。

「……明日香、ごめん。ちょっと行ってくる」

「うん。行ってらっしゃい」

 笑顔。完璧な笑顔。完璧すぎて少し痛い。

「明日は一緒に食べよう」

「……うん。約束ね」

 また約束が一つ増えた。


 屋上。

 風が強い。四月の風は暖かいが、ビルの上では冷たさが混じる。フェンスの向こうに街が広がっている。遠くに海が見える。大阪の空。雲が高い。

 ミラと二人、フェンスの近くに座った。コンクリートが冷たい。

 弁当を開く。ミラ製。今日は肉じゃがが入っている。レパートリーが増え続けている。昨日はひじきの煮物だった。一昨日は筑前煮。和食を制覇する気なのか。

「今日のは自信作」

「肉じゃが」

「レシピを三つ比較して、最適解を選んだ」

「料理に最適解って言葉使うんだ」

「効率的」

「味に効率はないと思うけど」

 食べる。美味い。じゃがいもが崩れかけているのがちょうどいい。味が染みている。三つのレシピの最適解が正解だったことは認めざるを得ない。

「美味い」

「……よかった」

 声が柔らかい。料理を褒められた時のミラは、ほんの少しだけ人間の温度に近づく。

 黙々と食べる。屋上には俺たちしかいない。風の音と、遠くの車の音と、箸が弁当箱に当たる音だけがする。

「選」

「ん」

「もっと来ていい?」

「何が」

「屋上。二人で」

「……いいけど、明日香と一緒に食べる日もあるからな」

「……分かってる」

 分かってる、と言いつつ、箸を持つ手が少しだけ止まった。

「ミラ」

「何」

「嫌なら言ってくれ。明日香と食べるの」

「嫌じゃない」

「嘘」

「嘘じゃない。……少しだけ嫌」

「少しだけが口癖になってるぞ」

「……少しだけが正確」

 少しだけ。ミラの「少しだけ」辞典は分厚くなる一方だ。少しだけ嫌、少しだけ嫉妬、少しだけうれしい。全部「少しだけ」で済ませる。本当はもっとあるのだろう。でも、それ以上は言わない。

 弁当を食べ終わる。空を見上げる。

 ——空気が変わった。

 風が止まった。

 何度目かの、あの感覚。日常が非日常に切り替わる瞬間。

【敵機接近。数:4。方角:北東。到達予想:12秒】

「ここで来るか」

 立ち上がる。ミラも立ち上がる。銃に手を伸ばしかけて——止めた。

「選、一人でやれる?」

「やれる」

 即答した自分に少し驚いた。一週間前なら「無理」と言っていた。

 ドローン四機。屋上のフェンスを越えて飛んでくる。光線が放たれる。コンクリートの地面に穴が開く。

 避ける。走る。一機目に飛びかかる。

 拳。装甲を砕く。火花。二機目が背後から光線を撃つ。振り向きざまに蹴り上げる。つま先がドローンの腹に入る。三機目が上から来る。跳躍。掴む。地面に叩きつける。四機目——

 四機目が逃げようとした。

【逃走個体を確認】

 追う。フェンスを蹴って高度を稼ぐ。手が届く。掴む。握り潰す。

 着地。

 静寂。

【全機撃墜。損傷:右手に軽度裂傷。戦闘時間:19秒】

「19秒」

 最速記録。先週の23秒を更新した。

「……すごい」

 ミラの声。振り返る。

「褒めた?」

「褒めてない」

「絶対褒めた」

「褒めてない。……事実を言っただけ」

「それを褒めたって言うんだよ」

「……そう」

 世界が修復される。穴の開いたコンクリートが元に戻る。フェンスの傷が消える。

 ミラが近づいてきた。

 俺の右手を取った。

 黙って手のひらを開く。グローブの下、指の関節に裂傷。血が滲んでいる。ドローンの装甲を素手で掴んだ時にやったらしい。

「ここ、新しい傷」

「……分かるの?」

「慣れてる」

 慣れてる。この言い方がミラらしい。「分かっている」じゃなくて「慣れてる」。選の傷を見ることに慣れている。それが日常になっている。

 ——ミラが、指を口元に近づけた。

 息を吹きかけた。

 ふーっと。

 傷口に、冷たい息が当たる。

「っ——! 何してんの」

「消毒」

「息に消毒効果ないから!!」

「……未来ではある」

「嘘だろ」

「嘘じゃない」

「絶対嘘だろ」

「……半分嘘」

「半分認めた!」

 ミラが俺の手を持ったまま、離さない。指先で傷口の周りを確認している。医者みたいに——いや、医者はこんなに近くない。

 近い。

 顔が近い。

 ミラが俺の手を見ている。手を見ているはずなのに、目線を上げたら——目が合った。

 距離。

【現在の距離:8cm】

 8cm。

 計らなくていい。計らなくても分かる。唇が見える距離。まつ毛の一本一本が数えられる距離。瞳の中に自分の顔が映っている距離。

「……近い」

「消毒してるから」

「終わったよな? 消毒」

「……終わった」

「じゃあ離れて」

「…………」

 離れない。

「ミラ」

「…………」

「離れて?」

「……あと3秒」

「また3秒!」

「3が好きになった」

「前は7が好きだったろ!」

「今は3」

 3秒。2秒。1秒。

 ——0秒。

 離れない。

「0秒過ぎたんだけど」

「……計り直した」

「計り直すな!!」

 ミラがようやく手を離した。半歩下がる。表情は無表情。でも耳が——今日は赤くない。赤くないのに、手を離す速度だけが遅い。

「ばんそうこう、ある?」

「カバンに」

「持ってきて」

「自分で行けるけど」

「持ってくる」

 ミラが走って階段に向かった。速い。戦闘中と同じ速度。ばんそうこうを取りに行くだけなのに全力疾走。距離を取りたかったのかもしれない。

 一人、屋上。

 風が吹いている。

 右手を見る。傷口に、まだミラの息の冷たさが残っている。

【心拍数のピークを記録しました。本日の最高値:距離8cm到達時】

「……知ってた」


 五限目開始のチャイムが鳴る少し前。

 階段を降りた。教室に戻る途中。

 踊り場で、明日香とすれ違った。

 ——いや、すれ違った、というより。

 明日香が踊り場に立っていた。まるで待っていたかのように。

「岐堂くん、屋上にいたの?」

「あ、うん。弁当食べてて」

「あの女の子と?」

「え、いや、あれは——」

 明日香が首を傾げた。笑っている。口角は上がっている。

 でも——目が笑っていない。

「ふーん」

 その一言に、感情が何層にも畳まれていた。

 疑問じゃない。確認でもない。「ふーん」の三文字に含まれる情報量が多すぎる。解凍したら論文が一本書ける。

「明日香——」

「五限始まるよ。行こ」

 先に歩き出した。背中が小さい。いつもの明日香だ。姿勢がよくて、歩き方が丁寧で、制服に皺がない。

 でも——少しだけ、歩く速度が速い。

 いつもの明日香なら、俺に合わせてくれる。今日は合わせていない。

(三角関係って……こういうやつ?)

 答えは誰もくれない。AXIOMも黙っている。こういう時だけ空気を読むのが腹立たしい。

 教室に戻る。

 席に着く。

 左隣に明日香。右斜め後ろにミラ。

 包囲状態。

 ——さっきより、空気が重い。

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