第8話「観測者は辛いよ」
連戦三日目。
体中が痛い。
筋肉痛とは違う痛みだ。筋肉痛は翌日に来る。これは即日で来る。AXIOMが体を動かしてくれるとはいえ、実際に殴っているのは俺の腕だし、実際に蹴っているのは俺の脚だ。反動は全部こっちに来る。
昨晩はドローン八機を深夜二時に撃退した。夜中に窓の外が光ったと思ったら、マンションの屋上にいた。どこから入ってきたのかは不明。AXIOMが叩き起こしてくれなかったら寝てる間にやられていた。起こしてくれたのはありがたい。ありがたいが、起こし方が悪い。
【緊急警告。敵機接近。距離200m。起床してください】
この文字列が視界いっぱいに点滅する。深夜二時に。夢の中で。
心臓が止まるかと思った。敵より先にAXIOMに殺される可能性を真剣に検討している。
そんなわけで、睡眠時間は三時間。
教室の椅子に座っているだけで意識が溶ける。
一限目の国語。教科書を開いた記憶はある。「羅生門」の冒頭を読んだ記憶もある。下人が雨を眺めているところまでは覚えている。
その先が——ない。
気がついたら、机に突っ伏していた。
教科書がヨダレで濡れている。下人が泣いている——いや俺のヨダレだ。芥川に申し訳ない。
肩を叩かれた。
「岐堂くん、起きて。先生来るよ」
明日香の声。
顔を上げる。視界がぼやけている。まだ半分寝ている。
「……あ。ごめん」
「また夜更かし?」
「うん……まあ……」
嘘。夜更かしではなく、深夜のドローン迎撃作業です。とは言えない。入学して一週間で「夜更かし常習犯」のレッテルが貼られつつある。実態は「深夜労働常習犯」なのだが。
「岐堂くん、寝癖すごいよ」
「え?」
「じっとして」
明日香の手が伸びてきた。
頭に触れる。指が髪に入る。
——柔らかい。
明日香の指が柔らかい。頭皮に触れる指先が暖かくて、丁寧で、痛くない。寝癖を一本一本直すように、ゆっくりと髪を梳かしていく。
「……っ」
「ここも跳ねてる。じっとしてね」
じっとしている。というか動けない。動いたら指が離れてしまう。離れてほしくない——いや、離れるべきだ。教室だ。周りに人がいる。男子が二人こっちを見ている。一人が親指を立てている。やめろ。
明日香の顔が近い。真剣な目で俺の髪と格闘している。眉間にほんの少しだけ皺が寄っている。集中している顔。
いい匂いがする。
ハンドクリームの匂いとは違う。もっと淡い。シャンプーなのか柔軟剤なのか分からないが、朝の匂いだ。朝日と清潔さを混ぜたような、健全すぎる匂い。
「はい、できた」
手が離れる。
「……ありがと」
「うん。岐堂くん、髪柔らかいね」
髪を褒められた。人生で初めてだ。髪で褒められることがあるのか。
【心拍数——】
(黙れ)
【了解】
素直に黙った。こいつにも空気を読む機能が搭載されつつあるのか。いや、俺の内心の殺意を検知しただけかもしれない。
昼休み。
今日はミラが用事があると言って席を外していた。何の用事かは聞いていない。聞いても「用事」としか答えないので諦めている。
明日香と二人で弁当を食べている。
屋上ではなく教室。窓際の席に机を寄せて、向かい合う形。周囲のクラスメイトは適度に散らばっている。普通の昼休みだ。
「岐堂くんって、ゲーム好きなんだよね?」
「うん。まあ、広く浅く」
「何系?」
「RPGとか、オープンワールドとか。最近はあんまりやれてないけど」
「私もゲーム好きなんだ」
「へぇ、意外。どんなの?」
明日香の目が——変わった。
光った、と表現するのが一番近い。瞳の中にスイッチが入ったような、物理的な切り替わり。穏やかで落ち着いた目が、一瞬で熱を帯びた。
「ネットワーク構築シミュレーター!」
「……ネットワーク構築?」
「そう! パケットの流れを最適化して、レイテンシを下げながらスループットを最大化するの。ボトルネックを特定して、ルーティングテーブルを再構成して——あ、ごめん、つい……」
早口だった。
さっきまでの穏やかなテンポが完全に消えている。声のトーンが半音上がっている。身振りが増えている。手がパケットの流れを表現するように空中を動いている。
別人だ。
クラスで一番きれいな上品なお嬢様が、三秒で早口オタクに変貌した。ギャップの暴力。人間の振り幅として許容される範囲を超えている。
「それゲーム?」
「ゲームだよ! Steam で売ってるの! 評価はちょっと低いんだけど、コア層には刺さるっていうか、ネットワークエンジニアが趣味でやるタイプの——あ、興味ない? ごめん、私いつもこうなっちゃって——」
「いや、続けて」
「いいの!?」
目がさらに光った。光量が二倍になった。
「じゃあね、アテンション機構っていうのがあって——」
「アテンション?」
「AIの話なんだけど! 最近のAIの進化すごいよね。特にトランスフォーマーアーキテクチャの——あ、これゲームの話じゃなくなってる。ごめん、脱線した」
「いいよ。面白い」
「ほんと!? じゃあね、トランスフォーマーっていうのは——」
明日香が語り始めた。
正直、内容の半分くらいは理解できていない。パケットとかレイテンシとかスループットとか、IT用語が矢継ぎ早に飛んでくる。でも、明日香が楽しそうに話しているのを見ているだけで、不思議と退屈しない。
目がキラキラしている。声が弾んでいる。専門用語を使いかけては「あ、ごめん」と言い直す。言い直したはずなのに三秒後にはまた専門用語が出る。制御不能。ブレーキのないスポーツカー。
「——で、そのアルゴリズムを応用すると、理論上はネットワーク全体の最適化が——」
ふと、明日香が我に返った。
俺の顔を見る。自分が何分喋り続けていたか気づいたらしい。
「……あ。ごめん。また一人で喋りすぎた」
頬が赤い。恥ずかしそうに目を伏せる。
「私、こういう話になると止まらなくなっちゃって……引いた?」
「引いてない。むしろもっと聞きたい」
「……ほんとに?」
「ほんとに」
明日香が、花が開くみたいに笑った。
「ありがとう。こういうの、友達に話しても大体途中で目が死んでくから……」
「俺も目は死んでたかもしれない」
「えっ」
「嘘。生きてた。たぶん」
「もう、どっちなの」
笑い合う。
——ギャップがすごいな、と思った。上品なお嬢様が急にオタクになる。これはこれで——
何だ。「これはこれで」の先に続く言葉が見つからない。可愛い、だと思うのだが、クラスメイトに対してその形容詞を使っていいのか判断がつかない。
「岐堂くん」
「何」
「また聞いてくれる? こういう話」
「うん。いつでも」
「……約束ね」
約束。最近やたらと約束が増えている。ミラとの約束、明日香との約束。約束の在庫が積み上がっていく。
「約束」
明日香が嬉しそうに頷いた。
——斜め後ろの席が空いていることに、少しだけほっとしている自分がいた。ミラがいたら、この空気は成立しない。そう思ってしまったことに、罪悪感がある。
放課後。
校門を出て五分。住宅街の裏道。
来た。
ドローン。四機。上空から音もなく降りてくる。もう驚かない。驚かないのが異常なのかもしれないが、人間は何にでも慣れる。慣れたくなかったが、慣れた。
「はいはい、今日もお仕事ですか」
【敵残存:4。推奨:速攻殲滅】
「言われなくても」
右拳を握る。AXIOMが光る。
一機目。正面。突っ込んでくる。避けて——裏拳。機体の側面に当たる。吹き飛ぶ。壁に激突。沈黙。
二機目。上空から光線。横に跳ぶ。着地と同時に跳躍。二階の窓の高さまで飛んで、ドローンの腹を殴り上げる。中の機械が砕ける感触。落ちる。
三機目、四機目。左右から挟み撃ち。
両方の光線を屈んで避ける。光線同士がぶつかって、二機ともバランスを崩す。その隙に三機目を蹴り落とし、四機目を掴んで地面に叩きつけた。
静寂。
23秒。
【全機撃墜。損傷:なし。戦闘時間:23秒】
「23秒か。早くなってる」
【成長率:微増】
「……微増って。もうちょいあるだろ」
【正確です。微増です】
「正確なのがムカつく」
微増。23秒で四機撃墜して微増。AXIOMの評価基準が厳しすぎる。上司にしたくないタイプだ。
世界が修復される。いつもの光景。砕けたアスファルトが戻る。壁の凹みが消える。通行人は何も気づかない。
——観測者は辛い。
毎日こうだ。戦って、壊して、世界が直って、誰も覚えていない。俺だけが覚えている。グローブについた煤を払っても、五分後には世界がそれすら「なかった」ことにする。
戦った証拠が残らない。
疲労だけが残る。
これを毎日繰り返して、授業中に寝落ちして、「夜更かしし過ぎ」と心配されて、嘘をつく。
——しんどい、と思ったのは一瞬で。
「まあいいか」
口癖が出る。
まあいいか。生きてるだけで偉い。今日も四機倒した。偉い。自分で自分を褒めないと誰も褒めてくれない。AXIOMは「微増」しか言わないし。
マンションに帰ると、エントランスにミラが立っていた。
501号室の鍵を持ったまま、俺を待っていたらしい。
「おかえり」
「ただいま。用事終わった?」
「終わった」
「何の用事?」
「用事」
聞くだけ無駄だった。
並んでエレベーターに乗る。五階。降りる。廊下を歩く。
「今日、時任さんと仲良くしてた」
唐突に来た。
「時任さんって——明日香のこと? さん付けで呼ぶの」
「時任さん」
「固いな……まあ普通にクラスメイトだよ」
「……昼休み。二人で食べてた」
「お前がいなかったからな」
「……髪、触られてた」
心臓が跳ねた。
「見てたの!?」
「見てた」
「用事あるって言ったろ!? いつ見てたんだよ!」
「用事の前に。教室を出る時に」
つまり、教室を出る直前に明日香が俺の寝癖を直しているのを目撃して、そのまま出て行ったのか。何も言わずに。
「……寝癖直してもらっただけだから」
「……そう」
「本当にそれだけだから」
「……そう」
「そう」の温度が低い。第5話のハンドクリーム事件と同じ冷気。学習しない俺も悪いが、避けようのない事故だ。
502号室の前に着く。鍵を出す。
手を繋がれた。
——強い。
「痛い痛い、握力」
「……ごめん」
「嫉妬してるだろ」
「してない」
「嘘」
「……少しだけ」
少しだけ。ミラの「少しだけ」は「かなり」と同義だということを、俺はそろそろ学習すべきだ。
手を離してくれない。鍵が開けられない。
「ミラ、鍵——」
「もう少し」
「もう少しって」
「あと7秒」
「秒数指定すんの?」
「7が好き」
「7分ルールの7?」
「……」
答えない。答えないが、7秒ちょうどで手が離れた。律儀。
502号室に入る。ミラは501号室へ——行かなかった。ついてきた。
「今日は早めに帰ってくれ。明日も学校だし」
「分かった。7分だけ」
「7分な」
「7分」
テーブルの前に座る。ミラが向かいに座る。いつものルーティン。
——ミラがスマホを取り出した。
未来のスマホ。形は現代のものと似ているが、薄さが尋常じゃない。紙みたいに薄い。
「これ」
画面を見せてくる。
月の写真だった。
満月。どこかの高台から撮ったらしい。建物の影と、雲の隙間から覗く月。綺麗だ。
「いつ撮ったの」
「さっき。用事の帰りに」
用事の帰りに月を撮る。この人にも写真を撮る趣味があったのか。
「綺麗だな」
「……うん」
「送ってよ」
「……いいの?」
「いいよ。壁紙にする」
ミラの動きが止まった。
「壁紙……」
「スマホの」
「……壁紙に、する?」
「するけど。変?」
「変じゃない。……うれしい」
声が小さい。でも確かに「うれしい」と言った。
画像が送られてきた。ミラのIDは「ミラ」。苗字なし。アイコンは設定されていない。デフォルトのグレーの人影。味気ない。
「アイコン設定しないの?」
「何にすればいいか分からない」
「好きなものとか」
「……月」
「じゃあ月にすればいい」
「……この写真?」
「この写真」
ミラがスマホを操作する。数秒後、アイコンが月の写真に変わった。
「できた」
「うん。いいじゃん」
「……選のアイコンは」
「俺? 猫」
「猫」
「散歩中に撮った野良猫」
「……見せて」
見せる。茶トラの猫が塀の上で寝ている写真。
「……かわいい」
「だろ」
「……選もかわいい」
「俺は猫じゃないけど」
「猫じゃなくてもかわいい」
「…………」
返し方が分からない。ミラは時々、ド直球を投げてくる。ド直球すぎて避けられない。バットを構える暇すらない。
7分が過ぎた。
「時間」
「……分かった」
ミラが立ち上がる。玄関に向かう。靴を履く。
「おやすみ」
「おやすみ」
ドアが閉まる。
一人になる。
スマホを見る。ミラから送られてきた月の写真。壁紙に設定する。
——綺麗だった。
ベッドに倒れ込む。今日は床じゃない。自分のベッドで寝られる。それだけで幸せだ。ハードルが低い人生で助かっている。
目を閉じる。
——スマホが震えた。
ミラからのメッセージ。
【月、きれい】
窓の外を見る。カーテンの隙間から月が見えた。さっきの写真と同じ月。壁一枚向こうのミラも、同じ月を見ているんだろう。
「見てる?」
【見てる。選も見て】
「……見てるよ」
【……おやすみ】
「おやすみ」
スマホを枕元に置く。
月明かりが薄くカーテンを透かしている。
明日香の柔らかい指と、ミラの冷たい手。どちらも今日、俺に触れた。
どちらも暖かかった——と思うのは、たぶん、睡眠不足のせいだ。
きっと、そうだ。
目を閉じる。
3秒で、落ちた。




