第7話「ラッキースケベは戦闘中に発生する」
ミラが転入して三日目。
教室の空気はすでに異常だった。
隣の席に明日香。斜め後ろにミラ。左方向から柔らかい笑顔が飛んでくる。右後方から無表情の視線が刺さる。どちらを向いても心拍数が上がる。前を向けば黒板しか見えないが、二方向からの気配は消えない。
【左方向:時任個体。距離50cm。右後方:ミラ個体。距離120cm。包囲状態です】
(包囲って言うな)
昼休み。
明日香「岐堂くん、一緒にお昼食べよう」
ミラ「選。昼。屋上」
同時だった。
声が重なった瞬間、教室の気温が三度下がった気がした。いや、ミラの周囲だけ物理的に下がっている可能性がある。あの体温だし。
「え、えーっと……」
助けを求めるように周囲を見るが、クラスメイトたちは全員目を逸らしている。男子が一人、合掌していた。成仏を祈られている。
「……半分ずつ、でいい?」
明日香「え?」
ミラ「……」
結局三人で屋上に行った。
弁当を広げる。ミラの弁当は今朝自分で作ったらしい。白米と卵焼きと鮭。俺に作ってくれたのと同じメニュー。おかずの数が少ないが、彩りは整っている。レシピ再現の精度が日に日に上がっている。
明日香の弁当は品数が多い。自分で作っているのか、家族が作っているのか聞いたことはないが、とにかく綺麗だ。ミニトマトの配置にまで美意識が宿っている。
俺の弁当はミラ製。朝起きたらキッチンに置いてあった。蓋を開ける。唐揚げ、卵焼き、ほうれん草のおひたし、白米。完璧だった。三日前にカップ麺しか食べられなかった男の弁当とは思えない。実際、俺が作ったわけじゃない。
箸をつける。唐揚げに手を伸ばした——瞬間。
横から箸が伸びてきた。俺の唐揚げを、つまんでいった。
ミラだった。
「おい、それ俺の唐揚げ」
「もらった」
「もらったじゃない。聞いて?」
「美味しい」
「感想じゃなくて同意を!」
明日香が苦笑しながら自分の弁当箱を差し出す。
「はい、岐堂くん。私の卵焼きあげるね」
「あ、ありがと——」
ミラの視線が刺さる。
目を合わせると無表情。だが空気が違う。さっきまで唐揚げを食べていた口元には何の変化もないのに、目だけが——冷凍庫の扉を開けた時みたいな温度を放射している。
「怖い怖い怖い」
「何が」
「いや何でもない。卵焼き美味い」
ミラの箸が動いた。今度は明日香の弁当から、ミニトマトをつまんでいった。
「あ……」
明日香が声を上げる。ミラは無表情のまま、ミニトマトを口に入れる。
「……美味しい」
意趣返しなのか天然なのか判別がつかない。この人の行動原理は分からないことの方が多い。
「ミラちゃん、食べたかったら言ってくれれば——」
「ごめんなさい」
謝った。素直に謝った。明日香相手だと謝るのか。
明日香が微笑む。「いいよ。はい、もう一個」
ミラが二つ目のミニトマトを受け取る。
——なんだこの光景。戦場のような教室から一転して、屋上は平和だ。春の風が吹いている。桜は散り始めているが、まだ花が残っている。
(これが三角関係……なのか?)
【三者間の関係性を分析中——結論:複雑】
(お前に聞いてない)
放課後。
校門を出て駅に向かう途中だった。ミラが横にいる。明日香は部活見学で残っている。
夕暮れの通学路。住宅街を抜けて、駅前のロータリーに差しかかった——時。
空気が変わった。
比喩ではなく、物理的に。風が止まった。鳥の声が消えた。通行人の足音が——揃った。入学式の日と同じ、異様に均一なリズム。
ミラの足が止まった。
右手が動く。腰の後ろ——服の下に隠してあった銃に手が伸びる。
「……来る」
「何が」
「多い」
多い。何が多いのか聞く前に、答えが空から降ってきた。
ドローン。
六機。
第3話で追われた時と同じ黒い機体。音がしない。プロペラもエンジンもない。ただ浮かんでいる。先端の光点がこちらを向いている。
「またこいつらか」
「それだけじゃない」
路地の奥から、影が二つ滑り出してきた。
人型——ではない。人の形に似ているが、関節の位置がおかしい。肘が逆に曲がっている。指が六本ある。全身が暗い灰色の装甲で覆われていて、両腕の先端に薄い光の刃がある。
【刃型ユニット検知。数:2。武装:高周波ブレード。危険度:ドローンの約3倍】
「3倍!?」
「避けて!」
刃が振り下ろされた。
ミラが俺の腕を引いて横に飛ぶ。コンクリートの地面に光の線が走る。切断面が赤く光って——数秒遅れて、アスファルトが左右に割れた。
「地面切れてるんだけど!?」
ミラが銃を構えて撃つ。二発。ドローン一機の光学部に命中して火花が散る。だが落ちない。装甲が固い。前のドローンより頑丈になっている。
「硬い……!」
ミラが舌打ちした。初めて聞く音だった。この人でも舌打ちするのか。
ドローン五機が同時に光線を放つ。ミラが俺を突き飛ばして避ける。俺は転がる。背中を打つ。痛い。
刃ユニットが距離を詰めてくる。速い。人間の動きじゃない。関節が逆に曲がっているのに、走る速度は陸上選手を超えている。
「使って!」
ミラの声。
「AXIOM。起動して!」
【AXIOM:起動準備完了。同意しますか? Y / N】
視界に表示が浮かぶ。刃が迫っている。あと二秒。
「Y! 同意する!」
【起動します。身体制御を一部移管——】
体が動いた。
自分の意志じゃない。膝が勝手に曲がって、横に跳んだ。刃が空を切る。風圧が頬を撫でる。
右手が勝手に拳を握る。グローブの表面が光る。
「殴るのか!? 刃持ってる相手を!?」
【最短距離の攻撃手段です】
「もっと安全な手段は!?」
【ありません】
「ないのかよ!!」
拳が振り出される。刃ユニットの胸部——装甲の継ぎ目に、正確にめり込んだ。
衝撃。金属が歪む音。刃ユニットの体が後方に吹き飛ぶ。壁に激突して、壁ごとめり込んだ。コンクリートの破片が降る。
「……え、今の俺?」
【正確には私が補助しました】
「補助って——腕振ったの俺だよな?」
【あなたの筋肉で、私の計算で】
「共犯じゃん」
【効率的な共犯です】
効率的な共犯。最悪のフレーズが生まれた。
ドローン五機が旋回して戻ってくる。ミラが二機撃ち落とす。残り三機。
もう一体の刃ユニットが正面から突っ込んでくる。両腕の刃が十字に交差する。首を狙っている。
【緊急回避。身体制御移管度:70%】
「70って何——」
体が沈んだ。膝が折れるように低くなって、刃の下を潜り抜ける。同時に右拳がアッパーの軌道で刃ユニットの顎——に相当する部分を撃ち抜いた。
首がもげた。
「首もげた!!」
【装甲の弱点は関節部です。特に頚部】
「冷静に解説するな!」
頭部のない刃ユニットが、それでもまだ動いていた。刃を振り回す。視覚がないのに正確に俺を追ってくる。
「頭なくても動くの!?」
【制御系統が分散しています。完全停止には胸部コアの破壊が必要です】
「最初に言えよ!」
【聞かれなかったので】
「聞かれなくても言え!!」
右拳を胸部に叩き込む。今度は深く。装甲を貫通して、中にある光る球体——コアに指が触れた。握り潰す。
刃ユニットが停止した。糸が切れたように崩れ落ちる。
残りドローン三機。
ミラが一機撃ち落とす。俺が一機殴り落とす。最後の一機が逃げようとする——
【逃走する個体を追跡しますか?】
「追跡って——待て、足が」
足が勝手に加速した。地面を蹴る力が普通じゃない。三歩でドローンに追いついた。跳躍。信じられない高さ。ビルの二階の窓と同じ目線まで飛んだ。
拳がドローンを叩き落とす。
着地。膝が衝撃を吸収する。自分の体とは思えない動き。
静寂。
「……全部か?」
【全機撃墜。刃ユニット2体撃破。損傷:使用者に軽度打撲2箇所。戦闘時間:47秒】
「47秒……」
47秒。一分もかかっていない。六機のドローンと二体の刃ユニットを、47秒で。
「……俺すげぇ」
【正確には私が】
「水差すな」
戦闘が終わった——瞬間、世界が動いた。
何度目かの光景。見慣れてきた、と言いたいが、慣れるものではない。
割れたアスファルトが逆再生するように元に戻る。壁にめり込んだ刃ユニットの残骸が消える。コンクリートの破片が空中で集まって、壁に吸い込まれる。
世界が修復されている。
傷も、破壊も、戦闘の痕跡も——全部なかったことになっていく。数秒前まで光線で焼かれていた地面が、何事もなかったように平らに戻る。
通行人が歩いている。普通に。何も見えていない。何も聞こえていない。何も感じていない。
俺だけが覚えている。
——修復の衝撃波が来た。
地面が揺れる。バランスを崩す。足元がぐらりと傾いて——
「っ——」
ミラも同時に体勢を崩した。
俺が後ろに倒れる。ミラが前のめりに崩れる。タイミングが最悪だった。物理法則が人間関係に配慮してくれるわけがない。
背中が地面に着く。
その上に——ミラが落ちてきた。
密着。
完全な密着。
ミラの体が俺の上にある。顔が目の前にある。髪が落ちてきて、視界の半分が黒い髪で覆われる。残り半分に、ミラの顔。
近い。
距離が——ゼロだ。
鼻先が触れそうな距離。ミラの瞳が見える。黒い瞳。底が見えないくらい深い色。瞳孔がわずかに開いている。
吐息がかかる。冷たい。いつもの冷たい息。でも今は、その冷たさが——逆に熱く感じる。
「——っ!」
声が出ない。
ミラも動かない。いつもなら即座に離れるはずの人が、動かない。
「……離れて」
ミラが言った。声が小さい。いつもの平坦なトーンじゃない。かすかに——震えている?
「……選が先に動いて」
「お前が上にいるから動けないんだけど!?」
「……動けない」
「何で」
「……体が、動かない」
嘘だろ。さっきまで刃ユニット相手に銃を撃ちまくってた人間が、俺の上で動けなくなっている。戦闘力と今の状況の落差がひどい。
ミラの顔が——赤い。
赤い。確実に赤い。光の加減ではない。耳の先端が赤い。頬がうっすら色づいている。無表情は保っている。無表情を保っているのに、顔色だけが正直に反応している。
【心拍数が双方とも上昇。接触面積:推定——】
「「黙れ」」
声が重なった。
俺とミラが同時にAXIOMを黙らせた。人生初のハモリが「黙れ」。なんの青春だ。
【……了解】
沈黙。
通行人が横を通り過ぎていく。こちらを見もしない。世界修復のおかげで戦闘は認識されていないが、男女が路上で重なっている光景は物理的には見えるはずだ。見えているのに見ていない。この街の人間は優しいのか無関心なのか。
「……ミラ」
「何」
「そろそろ本気で離れてくれないと——」
「分かってる」
「分かってるなら——」
「もう少しだけ」
「もう少し!?」
「……あと3秒」
「何のための3秒だよ!!」
ミラが体を起こした。ゆっくりと。3秒ちょうど。律儀に計っていたのか。
立ち上がる。制服についた砂を払う。ミラも同じように服を直す。
目を合わせない。
二人とも、微妙に視線を逸らしている。
「…………」
「…………」
気まずい。戦闘後の高揚感は完全に消えて、残っているのは心臓の鳴りと顔の熱さだけだ。
「……選」
「何」
「47秒、すごかった」
「お前のサポートだろ」
「でも、体を動かしたのは選」
「……ありがと」
「……うん」
また沈黙。
——ミラが、自分の唇に指を当てた。
無意識の仕草に見えた。さっきの距離を——唇の距離を、確認しているような。
「……ミラ?」
「何でもない」
手を下ろす。表情が戻る。無表情。いつもの無表情。でも、耳だけはまだ赤い。
「帰ろう」
「うん」
並んで歩き出す。
手は繋がない。今日は繋がない。繋いだら——たぶん、何かが変わってしまう。何が変わるのかは分からないけど、変わる気がする。
夕日がロータリーを照らしている。さっきまで戦場だった場所が、嘘みたいに穏やかだ。噴水が動いている。花壇のチューリップが咲いている。
「……ミラ」
「何」
「一つ聞いていい?」
「何」
「さっきの3秒、何だったの」
ミラが前を向いたまま答えた。
「……心拍数を、正常に戻すのに必要な時間」
「嘘つくの下手って自分で言ってたよな」
「嘘じゃない」
「じゃあ何で目逸らしてるんだよ」
「……前を見てるだけ」
「嘘」
「嘘じゃない」
「嘘」
「…………」
ミラが早足になった。
半歩先を歩く。護衛の位置じゃなくて、逃げの位置。
追いかける。
「待てよ」
「待たない」
「待てって」
「待たない」
「……ミラ」
「何」
「耳、まだ赤い」
ミラの足が止まった。
両手で耳を押さえた。
——走った。
全力で走った。戦闘中より速いんじゃないかと思うくらいの速度で、マンションの方角に消えていった。
「…………」
一人、取り残された。
夕暮れの通学路。
【逃走した個体を追跡しますか?】
「するわけないだろ」
【了解。本日の戦闘ログと、逃走ログを記録しました】
「逃走ログって何だよ」
【ミラ個体の逃走パターンを分析しました。原因:心拍数の異常上昇。推定——】
「もういい。黙れ」
【了解】
手のひらを見る。
AXIOMのグローブ。黒い表面。ここからエネルギーが出て、ドローンを殴り、刃ユニットを砕いた。47秒で。
——同じ手で、ミラに触れた。
正確には触れていない。ミラが上に落ちてきただけだ。でも、体温は感じた。冷たいはずのミラの体が、あの瞬間だけ——暖かかった気がする。
(……考えるな)
帰ろう。家に帰って、風呂入って、飯食って、寝よう。明日も学校だ。明日からはミラも同じ教室にいる。明日香も隣にいる。AXIOMは黙らない。ドローンはまた来る。
日常が、加速している。
未来からの干渉が、日に日に増えている。
——でも。
帰り道、ふと空を見上げた。
夕焼けの空に、月が見えた。まだ薄い、昼間の残り香みたいな月。
「……綺麗だな」
ミラと一緒に見る約束を、まだしていない。
そのうちしよう、と思った。




