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第6話「隣の席の天使と、隣の部屋の未来人」

 入学四日目。

 鏡を見て死体かと思った。

 目の下のクマがすごい。肌の色が悪い。髪がボサボサ。寝癖が三箇所。昨日は床で寝たせいで首が斜めに固定されている。右を向くと痛い。左を向くともっと痛い。正面を向いても痛い。全方位に痛い。

「ゾンビ通り越して死体……」

【生存しています】

「生きてるだけで偉いシリーズ今日も継続」

【意味が不明です】

「俺の処世訓だよ」

【記録しました】

「処世訓は記録しなくていい」

 朝食はミラが作ってくれた。味噌汁と焼き鮭と白米。昨日の倍豪華になっている。進化が速い。明日には懐石料理が出てきそうだ。

 ミラは今朝も501号室から来た。パジャマではなく、昨日と同じ服装——制服じゃない、見慣れない素材の服。

「行ってくる」

「気をつけて」

「……うん」

 もう「新婚みたい」とは言わない。学習した。


 教室。一限目。数学。

 sin、cos、tanが黒板を踊っている。

 踊っているが、踊りが見えない。目がかすむ。瞼が重い。教科書の文字がぐにゃぐにゃ揺れている。

 ——落ちた。

 何分寝たか分からない。気がついたら、肩を叩かれていた。

「岐堂くん、起きて。先生来るよ」

 明日香の声。

 目を開ける。教科書がヨダレで濡れている。最悪だ。慌てて袖で拭く。

「……あ。ごめん」

「大丈夫? 顔色悪いよ」

 明日香が心配そうにこちらを見ている。近い。いい匂いがする。柔軟剤の匂いか、シャンプーの匂いか、あるいはそのどちらでもない、「明日香の匂い」としか言えない何か。

「ゲームで夜更かしして……」

 嘘。未来人が俺のベッドで寝てたから床で寝たせいです。

 ——絶対に言えない。言ったらどうなるか想像もつかない。いや想像はつく。社会的に死ぬ。

「夜更かしはだめだよ。ちゃんと寝ないと」

「うん……気をつける」

 明日香がふと、俺の手を見た。

「手、乾燥してない? 赤くなってるよ」

「え?」

 右手を見る。確かに指先が荒れている。昨日のコンクリート床で擦れたせいか、それともAXIOMの影響か。

「はい、これ使って」

 明日香がペンケースからハンドクリームの小さいチューブを取り出した。

「え、いいの?」

「うん。手荒れ放っておくと酷くなるから」

 受け取ろうとして——手が触れた。

 明日香の指が、俺の指に。

 柔らかい。

 暖かい。

 ミラの手が氷みたいに冷たかったのと正反対で、明日香の指は人間の体温そのものだ。柔らかくて、暖かくて、生きている温度。

「……ありがと」

「ううん」

 明日香が微笑む。何でもないことのように。

 ——何でもない。何でもないはずだ。クラスメイトがハンドクリームを貸してくれた。それだけのことだ。

【心拍数上昇。原因:隣席個体との物理的接触。接触面積:約4平方センチメートル】

(接触面積まで測るなお前)

【記録しました】

(記録もすんな)

 ハンドクリームを塗る。ラベンダーの匂いがする。明日香の匂いだ。さっきから感じていた「いい匂い」の正体はこれだったのか。

「いい匂い」

「でしょ? お気に入りなの」

 明日香が嬉しそうに笑った。無邪気な笑顔。罪がない。罪がなさすぎる。

 ——この時の俺は知らなかった。

 この匂いが、数時間後に大問題を引き起こすことを。


 放課後。

 校門を出る。今日はミラは来ていないだろう。昨日は校門で待ってたが、毎日は——

 いた。

 校門の横。昨日と同じ桜の木の下。

 ——制服を着ていた。

 うちの学校の制服。紺のブレザーに赤いリボン。スカートは膝丈。似合っている。異様に似合っている。黒髪のストレートと紺のブレザーの組み合わせが、まるで広告のポスターみたいだ。

「迎えに来た」

「迎え……は別にいいけど、なんで制服着てるの」

「転入した」

「転入!?」

「この学校に。今日から」

「いつ!?」

「今日」

「今日!? いつ手続きしたの!?」

「午前中に」

「俺が数学で寝てる間に!?」

「校長室に行って、書類を出した。受理された」

「受理って——戸籍とか住民票とか——」

「ある」

「あるの!?」

「作った」

「作ったって——偽造!?」

「偽造じゃない。……作成」

「同じだろ!」

 ミラが平然としている。未来の技術で戸籍を作って高校に転入する。やっていいことと悪いことの境界線が未来では曖昧らしい。

「何組」

「三組」

「……俺と同じクラスじゃん」

「同じクラスがいい。護衛しやすい」

「護衛って言うな学校で」

「明日から登校する」

「……仕方ない」

 また「仕方ない」だ。俺の辞書から「仕方ない」を削除したら人生が成り立たなくなりつつある。

 ミラが不意に、俺の手に顔を寄せた。

 鼻を近づけている。

「……何の匂い」

「え?」

「手。何か匂いがする」

 ハンドクリーム。明日香に借りたラベンダーのハンドクリーム。

「え、クラスメイトに借りた——」

「女の人?」

 声のトーンが変わった。0.3度くらい下がった。

「え、まあ……隣の席の子に——」

「……そう」

 無表情。完全に無表情。いつもと同じはずなのに、空気が違う。

 気温が2度下がったような感覚。ミラの周囲だけ冷気が発生している気がする。気のせいだと思いたいが、体感的には気のせいじゃない。

「手、荒れてたから貸してくれて——」

「そう」

「それだけだから」

「そう」

「そう」が二回続くと怖い。「そう」の温度が低い。氷点下の「そう」。

「……嫉妬してる?」

「してない」

 即答。

「絶対してる」

「してない」

「してるだろ」

「……してない。……少しだけ」

「少しなんだ」

「少しだけ」

 少しだけ。その「少しだけ」が全身から冷気を発生させているのだが、指摘すると面倒なことになりそうなので黙っておく。

 帰り道。

 並んで歩く。ミラは相変わらず半歩後ろ。護衛の位置。

 夕日が長い影を作っている。四月の夕暮れは暖かい。風が穏やかで、桜の花びらが歩道に散らばっている。

 不意に、手が引かれた。

 ——ミラが手を繋いできた。

 冷たい手。昨日と同じ、氷みたいに冷たい手。でも、握る力は強くない。指を絡めるわけでもなく、ただ手のひらを重ねるだけの、おずおずとした繋ぎ方。

「……」

 言葉が出ない。

「……」

 ミラも何も言わない。

「……ミラから繋いできたよな」

「……気のせい」

「嘘つけ」

「気のせい」

「俺の手を掴んでるのは誰の手だ」

「……風」

「風は手を持ってない」

 ミラが黙った。手は離さない。

 ——ラベンダーの匂いを消したいのかもしれない。

 そう思ったら、少しだけ可愛いと思った。思ったことは絶対に口にしない。学習した。

【手部接触を検知。パートナー登録を推奨します】

「推奨すんな!!」

 声が出た。

 ミラが驚いて手を離し——かけて、離さなかった。

「何」

「いや、AXIOMが余計なこと——」

「何て?」

「……パートナー登録を推奨、とか」

 一拍の沈黙。

「……登録する?」

「しない!!」

「そう」

 また氷点下の「そう」が出た。しかし手は繋いだままだ。矛盾している。この人は矛盾の塊だ。無表情なのに嫉妬するし、冷たい声なのに手は離さない。

 マンションが見えてきた。

 エントランスの手前で、ミラがようやく手を離した。名残惜しそうに——いや、表情からは読み取れないが、手を離す速度がほんの少しだけ遅かった。

「……明日から、同じクラス」

「うん」

「隣の席がいい」

「席は先生が決めるだろ」

「……斜め後ろくらいなら」

「リクエストすんの?」

「した」

「もうしたの!?」

「校長に」

「校長にリクエストする転入生いないだろ!」

「いた。私」

 反論の余地がない。

「……おやすみ」

「おやすみ。……選」

「何」

「明日から、あの子の隣にもいる」

「あの子って——」

「ハンドクリームの子」

 明日香のことだ。

「隣にいるから、見てる」

「何を見るんだよ」

「……選が笑うところ」

「笑うって、普通に笑ってるだけだけど」

「誰に笑ってるか、見てる」

「…………」

「おやすみ」

 ミラが501号室のドアを開けて、入った。

 ばたん。

 廊下に一人。

「……おやすみ」

 誰もいない廊下に向かって呟いた。

【心拍数の推移を記録しました。本日のピーク:手部接触時。持続時間:4分32秒】

「持続時間まで計るなお前」

【正確な記録は重要です】

「重要じゃない情報もある!」

【判断は使用者に委ねます】

「委ねるなら最初から記録すんな!」

 502号室のドアを開ける。暗い部屋。一人暮らしの部屋。

 ——壁一枚向こうに、あの冷たい手の持ち主がいる。

 手のひらを見る。まだ、ほんの少しだけ冷たい。


 一方。

 教室の窓際。

 三階の廊下の窓から、時任明日香は校門を見ていた。

 忘れ物を取りに戻っただけだった。ペンケースを机に置き忘れた。ハンドクリームを貸したあのペンケースを。

 取りに戻って、窓の外をふと見た。

 校門の横で、岐堂くんが女の子と話していた。

 黒い髪の、きれいな子。制服を着ていたけど、見たことのない顔。転入生だろうか。

 二人が歩き出すのを見た。

 途中で——手を繋いだのを、見た。

 見えた。三階からでも、はっきり見えた。

「岐堂くん、彼女いたんだ……」

 声は小さかった。自分にしか聞こえない声。

 ペンケースを鞄にしまう。教室を出る。階段を降りる。

 四月の夕暮れ。空がオレンジ色。桜が散っている。

 手を見る。

 さっき岐堂くんにハンドクリームを渡したとき、指が触れた。

 少し荒れた、でも暖かい手だった。

「……ま、いっか」

 明日香は笑った。

 笑ったけど——少しだけ、表情が曇ったのは、誰も見ていなかった。

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