第5話「同意なき同居生活」
目が覚めたのは翌朝だった。
ベッドの中。自分の部屋。昨夜ロータリーのベンチで意識を失ったはずなのに、ちゃんとマンションの502号室に戻っている。
——誰が運んだ?
考えるまでもない。一人しかいない。
体を起こす。全身が痛い。筋肉痛が昨日の倍になっている。AXIOMに体を動かされた反動だろう。自分の意志で動いた筋肉痛より、勝手に動かされた筋肉痛の方がタチが悪い。
膝の上にあったジャケットが、枕元に畳んで置かれていた。ミラの匂い。微かに、知らない花の匂い。
「……運んでくれたのか」
【昨夜22時にミラ個体があなたを搬送しました。体重測定値:——】
「体重言うな」
【了解】
学校に行く準備をする。制服を着る。顔を洗う。歯を磨く。鏡の中の自分は普通の高校生に見える。昨日六機のドローンを叩き壊した人間には見えない。
玄関を開ける。
——ミラが立っていた。
「おはよう」
「うわっ!!」
「もう一つ、話がある」
「朝から!?」
「大事な話」
「……何」
「今日から、選の近くにいる」
「近くって……どのくらい」
「隣の部屋を借りた」
「隣!?」
隣。501号室。俺の部屋のすぐ隣。壁一枚。
「いつ!?」
「昨日。選が寝てる間に」
「寝てる間に!? 契約とか審査とかあるだろ!?」
「終わった」
「早すぎる!!」
ミラが平然とした顔で言う。
「近くにいないと、守れない」
「守るって——」
「昨日みたいなことが、また起きる。たぶん頻繁に。だから、近くにいる」
「それは分かるけど、隣の部屋って」
「一番効率がいい」
「また効率!」
ミラの表情は変わらない。無表情の壁に向かってツッコミを投げ続ける虚しさ。のれんに腕押し。ぬかに釘。ミラにツッコミ。新しい慣用句が誕生した。
「……もう借りちゃったんだろ」
「借りた」
「仕方ない」
「仕方ない?」
「仕方ない。もういい。好きにしろ」
ミラが少しだけ——本当に少しだけ——口角を上げた。
笑った? 今の笑ったのか? 光の加減か?
「じゃあ、今日から。よろしく」
「……よろしく」
よろしくって何だ。隣人の挨拶か。未来から来た護衛との挨拶が「よろしく」でいいのか。いいんだろう。もう何でもいい。
ミラが荷物を取りに行くと言って出て行った。荷物があるのか。未来人にも荷物があるのか。着替えとか歯ブラシとかそういうやつか。
学校は平和だった。
ドローンも来ない。異常もない。隣の席の明日香と英語の教科書を共有して、昼休みにパンを食べて、六限の体育をサボりかけて思い留まって、放課後になった。
普通の一日。普通の高校生活。
こういう日がずっと続けばいいのに、と思う。思うけど——たぶん続かない。
帰宅。
502号室のドアを開ける。
一人の部屋。テーブルの上にお茶のコップが——ない。昨日の残りは片付けられていた。ミラか。いつ入った。
手を見る。黒いグローブ。外せるけど外すと通知地獄が始まるやつ。実質外せない。
【環境スキャン完了。居住空間として適切と判断】
「聞いてない」
【記録しました】
「何を記録したんだよ」
【居住環境の評価です】
「俺の部屋を勝手に採点するな」
【採点ではありません。記録です】
「同じだろ!」
こいつとの付き合いは長くなりそうだ。嫌な予感しかしない。
夜。
九時を過ぎた。風呂に入って、夕飯を食べて(カップ麺)、歯を磨いて、寝る準備をした。明日も学校だ。普通の高校生活は続く。隣に未来人が住み始めたことを除けば。
チャイムが鳴った。
ドアを開ける。
ミラだった。パジャマ姿。
——パジャマ。
白地に薄い青のストライプ。袖が少し長くて、指先が半分隠れている。髪を下ろしている。学校で見かけるような普通のパジャマなのに、ミラが着ると妙にアンバランスだ。昨日銃を撃っていた人間の就寝スタイルがこれ。ギャップが渋滞している。
「寝る前に、確認」
「確認って何の」
「選が無事かどうか」
「無事だよ。見て分かるだろ」
「見た。無事」
「じゃあいいだろ」
「いい。でも来た」
「来なくてよかったよね!?」
「確認は大事」
「距離感!」
「距離は約三メートル。ドアを挟んで」
「そういう距離の話じゃない!」
ミラが少し考える素振りを見せた。
「……今日、何回目?」
「何回目って何が」
「確認。何回来たかって話」
「今日は三回目」
「三回目!? いつ来た!?」
「一回目は六時。選がお風呂に入る前」
「いなかったぞ」
「ドアの前で気配を確認して帰った」
「怖いわ!!」
「二回目は八時。カップ麺の匂いがした」
「匂いで確認すんな!」
「三回目は今」
「多い!!」
ミラが無表情のまま、わずかに首を傾げた。
「多い?」
「多い! 一日三回は多い!」
「でも、心配だから」
「心配……」
心配、と言われると強く出られない。こっちの安否を気にかけてくれている。それは分かる。分かるが、加減というものがある。
ミラが一歩踏み出した。玄関の中に足を踏み入れようとしている。
「入るな! 男の部屋に!」
「なんで」
「なんでって……色々あるだろ!」
「色々?」
「色々! 常識とか、モラルとか、世間体とか!」
「世間体」
「そう、世間体!」
「……未来には世間体という概念が希薄」
「今は現代だ!!」
ミラが動きを止めた。表情は変わらない——けど、目が少しだけ伏せられた。
寂しそうに見えた。
いや、ミラの表情変化は微細すぎて確信が持てない。でも、さっきまでの無表情とは何かが違う。まつ毛の角度が、ほんのわずかに下がった気がする。
「…………」
「…………」
沈黙が痛い。
「……10分だけ。10分だけならいい」
俺が言った。自分で言った。なぜ言った。
ミラが顔を上げた。
「5分」
は? 俺が譲ったのに値切ってきた。いや逆だ。俺が10分と言ったのをミラが5分にした。遠慮してるのか。
「5分でいい」
「いや、もう10分って言っちゃったし——」
「7分」
「……え? 上がった」
「7分。間を取って」
「交渉が上手いのか下手なのか分からない」
「……7分。だめ?」
上目遣い——ではない。ミラの身長は俺とほぼ同じなので物理的に上目遣いにはならない。だが、伏せた目をゆっくり持ち上げる動作が、結果的にそう見えた。
「……仕方ない。7分な」
「7分」
「7分以上は絶対ダメだからな」
「分かった」
ミラが靴を脱いで上がってきた。パジャマの足元はスリッパ。未来人もスリッパを履くのか。
リビングに入る。ミラが部屋を見回す。昼間にも見たはずだが、また確認している。安全確認なのか、単に興味があるのか。
「座って。お茶出す」
「いい。7分しかないから」
「律儀だな……」
ミラがテーブルの前に座った。俺も向かいに座る。
沈黙。
「……何する? 7分」
「何もしない。選が無事なのを確認する」
「確認はもう終わってるだろ」
「近くで確認する」
「距離感……」
ミラが部屋を見ている。本棚。ゲーム機。教科書の山。カップ麺のゴミ。——カップ麺のゴミを今すぐ片付けたい。
「……選」
「何」
「ご飯、ちゃんと食べてる?」
「食べてる」
「カップ麺」
「食べてるだろ」
「……栄養が——」
「7分しかないんだから説教は省略で」
「……分かった」
また沈黙。
時計を見る。まだ3分しか経っていない。7分は意外と長い。
ミラがあくびをした。
小さいあくび。口元を手で隠す。目が潤む。
「……眠いの?」
「少し」
「寝ろよ。隣なんだから」
「あと4分ある」
「4分で何するんだよ」
「選を見てる」
「見てても面白くないだろ」
「面白くなくていい」
何だその返し。
ミラが目をこすった。パジャマの袖が長くて、手のひらが布の中に埋もれている。萌え袖。未来人も萌え袖をするのか。
——3分後。
ミラの頭がゆっくり傾いた。
テーブルに突っ伏す——んじゃなくて、横に倒れた。俺の布団——万年床の布団の上に、そのまま横になった。
「おい。7分過ぎてる」
返事がない。
「おーい」
返事がない。
「ミラ」
寝てる。
完全に寝ている。呼吸が穏やかで、規則的で、深い。さっきまで目をこすっていたのはこの伏線だったのか。
時計を見る。7分どころか30分過ぎている。
「……30分過ぎてる」
返事がない。当たり前だ。寝てるんだから。
ミラの寝顔を見る。
——無防備だった。
昼間の、銃を撃つ姿からは想像もつかないほど無防備。肩の力が完全に抜けている。眉間の微かな緊張も消えている。口元が、ほんの少しだけ開いている。
起きてるときは読めない表情が、寝てるときはこんなにも柔らかくなるのか。
年相応に見えた。昼間は年齢不詳だったのに、寝顔だけは——同い年の女の子だった。
髪が顔にかかっている。
払ってやろうか——と手を伸ばしかけて、止めた。
何やってんだ俺。
「……仕方ない」
毛布をかける。ミラの肩まで引き上げる。
俺は床で寝る。予備の毛布を引っ張り出して、テーブルの横に転がる。
——床、硬い。
背中が痛い。昨日は駅前のベンチで寝たし、今日は床。高校生活、まともにベッドで寝た日が少ない。
【心拍数の安定を確認。良質な睡眠環境です】
視界に文字が浮かぶ。暗い部屋の中で、AXIOMの表示だけが光っている。
「俺は床なんだけど」
【使用者の睡眠環境は最適ではありません。しかし同室個体の睡眠品質は優良です】
「同室個体のケアは俺の担当じゃないんだけど」
【記録しました】
「何を記録した」
【同室個体の睡眠品質と、使用者の自己犠牲的行動パターンを】
「自己犠牲じゃない。ベッド取られただけだ」
【記録しました】
「記録すんな」
【記録しました】
「聞けよ」
AXIOMとの初夜(語弊がある)は、こうして過ぎていった。
目を閉じる。床が硬い。背中が痛い。毛布が薄い。
でも——隣から聞こえるミラの寝息は、不思議と落ち着いた。
あの冷たい手の持ち主が、今は暖かい布団の中で眠っている。
それだけで——
いや、何でもない。寝る。
明日も学校だ。
翌朝。
目覚まし時計より先に、匂いで目が覚めた。
味噌汁の匂い。
味噌汁?
俺は一人暮らしだ。味噌汁を作る人間はこの部屋にいない——
がばっと起き上がる。
キッチンにミラがいた。
昨日のパジャマのまま。エプロン——俺が一度も使ったことのない、引っ越しの時に母親が「一応」と置いていったエプロンを装着して、コンロの前に立っている。
「おはよう」
「おは——なんで俺の家にいるの!?」
「隣だから」
「隣だからって来るな!!」
「鍵、開いてた」
「開いてたとしても!」
「味噌汁」
「え」
「作った。あと、卵焼き」
テーブルに朝食が並んでいた。味噌汁。卵焼き。白いご飯。漬物。
誰の食材だ。冷蔵庫を見る。中身が充実している。昨日まで卵と醤油とマヨネーズしかなかったはずの冷蔵庫に、野菜と豆腐と味噌が増えている。
「……これ」
「買ってきた。朝」
「朝って何時」
「5時」
「早すぎる」
「選が起きる前に準備したかったから」
「…………」
反論する気力がない。
座る。箸を取る。味噌汁を一口。
——美味い。
普通に美味い。出汁がちゃんと効いてる。カップ麺生活の人間には眩しすぎる味。
「……美味い」
「よかった」
無表情。でも声が少しだけ——本当に少しだけ柔らかい。
「ミラ、料理できるんだな」
「基本的なものだけ」
「未来にも味噌汁あるの?」
「ない」
「ないのに作れるの?」
「レシピを検索した」
「検索……」
「未来のデータベースに日本料理のレシピがある。再現した」
「再現の精度高すぎない?」
「一回目は失敗した」
「一回目……何時にやったの」
「4時」
「4時!?」
この人、朝4時から味噌汁を試作していたのか。隣の部屋で。
「失敗したやつは?」
「飲んだ」
「自分で……」
「もったいないから」
未来人にも「もったいない」の精神はあるらしい。
卵焼きに箸をつける。甘い味付け。少し焦げてる。でも美味い。焦げてる部分が香ばしくて、むしろ好みだ。
「卵焼き、甘いね」
「レシピに砂糖と書いてあったから。……甘すぎた?」
「いや、丁度いい」
「……そう」
また、声が柔らかくなった。ほんの少しだけ。
黙々と食べる。ミラは向かいに座って、自分の分の味噌汁を飲んでいる。
朝の光がカーテン越しに差し込んでいる。穏やかな朝。
——昨日まで一人暮らしだったのに、今朝は向かいに人がいる。味噌汁がある。卵焼きがある。会話がある。
「……ミラ」
「何」
「明日からは——」
「作る」
「いや、毎日は——」
「作る」
「俺の台詞を聞いて?」
「聞いた。でも、作る」
「…………」
「栄養バランスが悪い。カップ麺は食事じゃない」
「食事だろ」
「食事じゃない」
断定が強い。未来人的にはカップ麺は食事にカウントされないらしい。
「……仕方ない」
「仕方ない?」
「仕方ない。好きにしろ」
二日連続の「好きにしろ」。俺の語彙は「仕方ない」と「好きにしろ」だけで構成されつつある。
食べ終わる。ミラが皿を洗い始める。
「洗い物は俺がやる」
「いい。早い」
「いや俺の家だし——」
「終わった」
「早っ」
手際が異常。動きに無駄がなさすぎる。戦闘も家事も同じ効率で処理している。
時計を見る。あと二十分で家を出ないと遅刻する。
「学校行ってくる」
「うん。気をつけて」
「……なんか新婚みたいだな」
言ってから後悔した。何を言ってるんだ俺は。
ミラが固まった。
0.5秒の沈黙。
「新婚……?」
「いや、何でもない。忘れて」
「新婚って、結婚したばかりの——」
「忘れてって言った!!」
「……忘れない」
「忘れろ!」
「記憶の消去はできない」
「人間的に忘れろ!」
逃げるように玄関を出る。
ドアを閉める。
——隣の501号室のドアの前に、小さな表札がかかっていた。
「ミラ」
苗字なし。名前だけ。
表札を見つめて、溜息をついた。
【心拍数の上昇を検知。原因:直前の会話内容と推測】
「お前も忘れろ」
【記録しました】
「記録するなって言ってんだろ!!」
朝から騒がしい。
これが日常になるのだと、この時はまだ思っていなかった。




