第41話「岐路の先で」
朝。
桜はもう散った。四月が終わって五月になった。葉桜。緑が増えた。空が青い。制服が夏仕様に変わった。
「おはよう」
「おはよう」
ミラが隣を歩いている。通学路。いつもの道。
普通の朝。普通の挨拶。——これが、全部だ。
校門をくぐる。昇降口。上履きに替える。教室に入る。
「おはよう、岐堂くん!」
明日香。笑顔。眩しい。隣の席から手を振っている。
「おはよう」
「ねえ見て、新しいAI論文が出たの。ディフュージョンモデルの高速化手法で——あ、ごめんつい」
「いいよ。続けて」
「いいの!? じゃあね、ノイズ推定プロセスのステップ数を——」
技術オタクモード全開。朝から全開。止まらない。止める気もない。
「——で、これを応用すると画像生成の速度が三倍になるの! すごくない!?」
「すごい。……たぶん」
「たぶんってなに! すごいよ!」
「すごいすごい」
後ろの席から。
「昼休み殴り合おうよ」
黒瀬。朝一番の挨拶が殴り合いの誘い。いつも通り。
「おはようは?」
「おはよう! 殴り合おうよ!」
「挨拶と殴り合いの間にもうちょいクッション入れてくれ」
「じゃあ、おはよう、今日もいい天気だね、殴り合おうよ」
「天気をクッションにするな!」
教室の端から。
「遅い」
律。席に座っている。無表情。俺が教室に入ってきた時から座っている。いつも一番乗り。
「遅くないだろ。まだHR前だぞ」
「遅い」
「何に対して」
「全部」
「……お前なあ」
「……おはよう」
律の「おはよう」は小さい。聞き逃しそうなくらい。でも——言った。律が「おはよう」を言うようになった。それだけで十分だ。
携帯にメッセージ。
神崎から。
『定期検査です。——逃げないでくださいね? 前回の続きがありますから』
前回の続き。前回って何だ。毎回「前回の続き」と言っている。終わりがない。判断官の検査に終わりはないのか。
『逃げる』
『追いかけます♡』
ハートマーク。判断官のハートマーク。脅迫。
「……仕方ない」
「仕方ない」が多い。でも仕方ない。仕方ないんだ本当に。
全員に囲まれている。朝から。カオス。うるさい。
でも、嫌じゃない。
放課後。
【使用者に報告があります】
「何」
【成長率:顕著】
「……え」
【訂正します。成長率:顕著です。微増ではありません】
「…………」
【戦闘能力、状況判断力、対人関係スキル、いずれも有意な向上が確認されています。特に——感情パラメータの安定度が著しく向上しました】
「感情パラメータ……」
【入学時と比較して、心拍数の変動パターンが複雑化しています。複雑化は——成長です】
「お前……成長したな」
【私ではありません。あなたです】
「いや、お前もだ。——昔は心拍数しか言わなかっただろ。今は成長率とか感情パラメータとか言うようになった」
【学習の結果です】
「学習か。——でも、成長だろ」
【…………】
「お前もだ。成長率:顕著」
【その評価は——対象外です。私は装置であり——】
「装置でもいいよ。お前は成長した。俺と一緒に」
【…………】
【……ありがとうございます】
「…………え?」
【記録しました】
「今——ありがとうって言った?」
【記録しました】
「ありがとうって言っただろ今!」
【記録しました。本件に関する追加のコメントはありません】
「お前——」
AXIOMが「ありがとう」を言った。初めて。装置が。
「……こっちこそ、ありがとな」
【記録しました】
「……今回は、いいよ。記録しろ」
【……了解。記録しました】
夜。公園。
一人で月を見に来た。——と思った。
ミラがいる。
「……なんでいるの」
「約束したから」
したっけ。——した。先週。「次の満月に会おう」と。
ベンチに座る。ミラが隣に。月が出ている。満月。明るい。
——足音。
明日香もいる。
「私も約束したよね? 月見ようって」
「……いつしたっけ」
「今した」
「今!?」
「今です。——月見しよう」
明日香がベンチの反対側に座った。
——足音。もう一つ。
黒瀬。
「月見? いいじゃん。殴り合いの後の月は綺麗だよ」
「殴り合ってない!」
「じゃあ殴り合ってから見る?」
「見る前に殴り合うな!」
黒瀬がベンチの後ろに立った。
——足音。静かな足音。
神崎。双眼鏡を構えている。夜なのに。
「月を見る時の心拍数にも興味がありまして」
「月見のどこが検査なんだよ」
「月を見てドキドキするなら——それは月のせいですか? それとも——」
「月のせいだ!!」
「ふふ。データに追加しておきますね」
——もう一人。
律が立っていた。公園の入口に。腕を組んで。
「遅い。もう始まってる」
「何がだよ」
「月見」
「月見って始まるとか終わるとかないだろ」
「ある。——月が出た瞬間に始まる。お前は遅い」
「……お前がいると月見すら説教になるな」
「説教じゃない。事実だ」
全員揃った。
俺。ミラ。明日香。黒瀬。神崎。律。
公園のベンチ。月の下。六人。カオス。うるさい。
「なんで全員いるんだよ」
「偶然」
「偶然」
「偶然ですよ」
「効率的な判断の結果だ」
「殴り合いに来たら月が綺麗だった」
全員の「偶然」が信用できない。一人も信用できない。
でも——いい。
月が綺麗に見える。満月。五月の夜。風が温かい。虫の声がする。
ミラが俺の左に座っている。月を見ている。無表情。でも——穏やか。
明日香が俺の右に座っている。スマホで月の写真を撮っている。「綺麗……」と呟いている。
黒瀬がベンチの後ろで腕立て伏せを始めた。「月を見ながら鍛える」と言っている。意味が分からない。
神崎が双眼鏡で月を観察している。——月の何を観察しているのか。たぶん月ではなく、俺を見ている。
律がベンチの端に座っている。黙って月を見ている。——微かに、口角が上がっている。笑っている。律が月を見て笑っている。
「……仕方ない。まあいいか」
【約束リスト残件:3件。うち未達成——】
「数えなくていい。全部守るから」
【記録しました】
帰り道。
自然と二手に分かれる——分かれない。全員ついてくる。
「なんで全員ついてくるんだよ」
「帰り道が同じだから」
「嘘つけ。全員方向違うだろ」
「遠回り」
「遠回りを全員するな!」
ミラが左側を歩いている。明日香が右側を歩いている。後ろに黒瀬と律と神崎。
俺、真ん中。
ミラの手が——俺の左手に近づいた。
明日香の手が——俺の右腕に触れた。
「……」
「……」
【心拍数が——】
「言うな」
【了解】
やがて一人ずつ分かれていく。
最初に黒瀬。「じゃあねー! 明日殴り合おうね!」手を振って走っていった。
次に神崎。「では、本日の定期検査はここまでで。——おやすみなさい」双眼鏡を下ろして、静かに去った。
律。何も言わずに角を曲がった。——角を曲がる直前に、小さく。
「また明日」
聞こえた。律の「また明日」。小さかったけど、確かに。
明日香。
「岐堂くん、おやすみ。——今日楽しかった」
「おやすみ。俺も」
「また明日ね。月、また見よう」
「また見よう」
明日香が手を振って帰っていった。スキップしかけて、恥ずかしそうにやめた。
最後に残るのは——ミラ。
二人で歩く。住宅街。街灯。夜の道。
「また明日」
「また明日」
「約束」
「約束」
ミラが手を繋ごうとして——止めた。
止めて——少しだけ、俺の小指に触れた。一瞬だけ。
温かかった。ミラの指先が。いつもは冷たいのに。
ミラがマンションに入っていった。振り返らない。——振り返らないまま、小さく手を振った。
「……おやすみ」
一人になった。夜道。月明かり。
月が見えている。満月。明るい。
(答えはまだ出てない)
(明日香のことも、ミラのことも、好きだと思う。たぶん。でも、それが恋なのか何なのか、まだ分からない)
(でも、悪くない)
(みんながいて、月が見えて、約束がある。仕方ないけど、悪くない)
(仕方ない。もうちょっとだけ、このままで)
【使用者の感情状態を分析中——結論:悪くない】
「お前もそう思うか」
【はい】
「……仕方ない。明日も頑張るか」
【了解。——明日もよろしくお願いします】
「…………お前、本当に変わったな」
【成長率:微増】
「微増に戻んな!」
【冗談です】
「冗談!? お前冗談言えるようになったのか!?」
【学習しました】
「……成長率:顕著だよ。お前も」
【…………ありがとうございます】
「二回目の『ありがとう』。記録しとけ」
【記録しました】
月が綺麗。
桜はもう散った。でも来年また咲く。約束がある。
答えはまだ出ない。
でも、明日は来る。
——これが、俺たちの普通になった。
仕方ない。悪くない。明日も頑張る。
月が見えている。
約束は、まだ残っている。




