第37話「帰還」
部屋を出た。
廊下でANCHORが待っていた。
「終わりましたか」
「終わった。——帰る」
「了解しました。転送座標は設定済みです。——入学式前日。現代」
「……ありがとう」
「感謝は不要です。私の任務は観測です」
「観測でも——ありがとう」
ANCHORが一瞬だけ目を伏せた。
「……お気をつけて」
初めて——任務以外の言葉を聞いた気がした。
施設の外。ミラが待っていた。建物の壁にもたれて。
「おかえり」
「ただいま」
「……どうだった」
「帰れって言われた」
「……そう」
「月を見ろって。約束を守れって。——笑ってろって」
「…………」
「ミラを連れて帰れって」
ミラが俺を見た。目が揺れている。微かに。
「……あの人が?」
「あの人が。——最後のわがままだって言ってた。ミラに月を見せたかったって」
「…………」
ミラが黙った。長い沈黙。
灰色の空。灰色の建物。灰色の地面。——その中で、ミラの目だけが、光っていた。
「……行こう。帰ろう」
「うん」
転送地点に向かって歩く。並んで。手は——繋がない。ミラが決めたことだから。
でも。
「ミラ」
「何」
「帰ったら——答え出す。ちゃんと」
「……急がなくていい」
「急がない。でも逃げない」
「……うん」
「お前にも、明日香にも。——ちゃんと向き合う」
ミラが前を向いたまま歩いている。横顔が——少しだけ柔らかい。
「選」
「何」
「未来の選は——笑ってた?」
「…………最後に。少しだけ」
「そう。——よかった」
よかった。ミラの「よかった」は小さかった。でも、本物だった。
転送地点。施設の地下。
円形の光。昨日と同じ。青白い幾何学模様。
ANCHORが操作している。端末を触って、座標を設定している。
「転送先:現代。入学式前日。時刻:早朝。——座標固定完了」
「分かった」
「注意事項があります」
「何」
「記憶は保持されます。現代の人々には——あなたが未来に行ったという認識はありません。数日間不在だったことも認識されていません。世界が帳尻を合わせます」
「……つまり、何事もなかったことになる」
「何事もなかったことになります。——ただし」
「ただし?」
「あなたとミラの記憶は残ります。AXIOMのデータも保持されます。——あなたたちだけが、覚えている」
「……朝霧さんの逆だな。朝霧さんは世界に忘れられた。俺は——世界が忘れた時間を覚えている」
「正確な理解です」
円形の光が脈動を始めた。
「ミラ」
「うん」
「一緒に行く」
「一緒に行く」
光の円に足を踏み入れる。
——声が聞こえた。
後ろから。施設の奥から。
未来の選の声。遠い。廊下を通って、反響して、ここまで届いている。
「約束を守れ」
振り返らなかった。
「守る」
声だけで返した。届いたか分からない。——でも、届いたと思う。
「月を見ろ」
「見る。何度でも」
光が強くなる。視界が白くなる。
ミラの手が——触れた。今度は俺から。約束を破っている。手を繋がないと言ったのに。
ミラが握り返した。強く。冷たい手。いつもの冷たさ。
「……帰ろう」
「帰ろう」
意識が遠くなる。
灰色が消えていく。白い光に包まれる。
最後に——未来の選の声が聞こえた気がした。
聞き取れなかった。
でも——たぶん。
「……よかった」
そう、言っていた気がする。




