第36話「未来の自分」
三日目。
ANCHORが迎えに来た。
「準備はできていますか」
「できてるかは分からない。——行く」
「……十分です」
ミラは一緒に来なかった。
「ここで待ってる」
「いいのか」
「私が行くと——話がしにくいと思う。あの人と」
あの人。未来の選。ミラの送り主。AXIOMの製作者。——五十年後の俺。
「……分かった。行ってくる」
「行ってらっしゃい」
ミラの「行ってらっしゃい」は初めて聞いた。声が小さかった。
施設。
灰色の建物の中。廊下が長い。白い照明。影がない。足音だけが響く。
ANCHORが先を歩く。何も言わない。
廊下の突き当たり。扉。普通の扉。金属製。装飾なし。
「この先です」
「……うん」
「私はここで待ちます」
「分かった」
扉を開けた。
部屋。広くない。机が一つ。椅子が二つ。窓がある。——外は灰色。
椅子に——人が座っていた。
同じ顔。
俺と同じ顔。年を重ねている。頬の線が鋭い。目の下に影がある。髪が少し長い。姿勢がいい。——目が疲れている。深く。長く。五十年分の疲れが、目に溜まっている。
「来たか」
声が低い。俺の声を低くして、感情を抜いたような声。
「お前が……未来の俺?」
「そうだ」
「…………」
向かい合って座った。机を挟んで。同じ顔が二つ。
未来の選が——AXIOMを着けていた。両手に。黒いグローブ。俺のとは違う。洗練されている。継ぎ目がない。完成形。
「AXIOMの——完成版か」
「ああ。お前のは試作型だ。——俺が作った」
「知ってる」
「知ってるか。ミラが話したか」
「……ミラが話した」
未来の選が机の上で手を組んだ。
「聞きたいことがあるだろう」
「ある。——なんでこうなった」
「正しく選んだからだ」
「正しく選んで、これ?」
「これだ」
未来の選が窓の外を見た。灰色の空。
「因果のズレが起きるたびに、最善の判断をした。被害を最小化した。人を守った。世界を守った。——全部、正しかった」
「…………」
「正しい判断を繰り返した結果が、この世界だ。整っている。安全だ。誰も死なない。——誰も笑わない」
「…………」
「正しさを追い続けたら、ここに着いた。——桜がない世界に」
未来の選の声に感情がない。事実を述べている。淡々と。
「朝霧さんに会った」
「……朝霧を知っているか」
「消えかけの人。——お前が消したのか」
「俺が判断した。百人を守るために、一人の存在強度を下げた。——正しい判断だった」
「正しかったか」
「正しかった。計算上も、結果としても。朝霧本人もそう言っているだろう」
「……言ってた」
「だろう。——俺の判断は、常に正しい。AXIOMが最適解を出す。俺が実行する。迷いがない。ブレがない。——完璧だ」
完璧。この灰色の世界が、完璧の結果。
「……最悪じゃん」
「最悪かどうかは関係ない」
「関係あるだろ」
「ない。正しさに快・不快は含まれない。最悪でも正しいことはある。最高でも間違っていることはある」
「…………」
「お前は、どうする」
「どうするって」
「同じ道を歩くか。——違う道を選ぶか」
未来の選が俺を見た。同じ目。同じ色。でも——温度が違う。俺の目にはまだ熱がある。未来の選の目には——もうない。使い果たしている。
「俺はお前にならない」
「……なぜだ」
「分からない。でも嫌なものは嫌だ」
「感情論か」
「そうかもしれない。でも嫌なものは嫌だ。——正しくても。完璧でも。桜のない世界は嫌だ」
「桜がなくても人は生きていける」
「生きていけるけど、俺は嫌だ」
「……子供だな」
「子供でいい。子供でいたい。——お前は子供でいられなかったのか」
未来の選が黙った。
長い沈黙。
「……いられなかった」
「…………」
「正しさを選び続けたら——いつの間にか、大人になっていた。大人になったんじゃない。大人にならざるを得なかった。迷う暇がなかった。迷ったら人が死ぬ。だから迷わなかった」
「…………」
「迷わなくなったら——月を見なくなった」
未来の選の声が、初めて揺れた。微かに。
「月を見る暇がなかった。空を見上げる余裕がなかった。約束を守る時間がなかった。——気づいたら、ここにいた」
「…………」
「お前には、まだ約束がある」
「ある。十三件」
「十三件か。——多いな」
「多い。増えすぎた」
「……守れ」
「守る」
「全部」
「全部」
未来の選が立ち上がった。窓に向かって歩いた。灰色の空を見ている。
「帰れ」
「え?」
「帰れ。お前はまだ変われる。だから帰れ。月を見ろ。約束を守れ。——正しさを選ぶ前に、隣にいる人間の顔を見ろ」
「…………」
「俺はそれができなかった。だからお前に頼む。——頼めるのは、お前だけだ」
「お前は——月、見れなかったのか」
未来の選が答えなかった。
沈黙が——答えだった。
「…………」
「ミラを連れて帰れ。あいつは——お前の隣にいるべきだ。こんな灰色の世界じゃなく」
「ミラを——お前が送ったのか。過去に」
「送った。——俺にできる、最後のわがままだった」
「わがまま?」
「正しい判断じゃない。ミラを過去に送ることに合理的な理由はない。ただ——」
未来の選が振り返った。
笑っていた。
疲れた笑顔。五十年分の重さを背負った笑顔。目の下の影が深い。でも——笑っていた。
「ただ、ミラに月を見せたかった。——それだけだ」
「…………」
「子供みたいな理由だろう。笑えよ」
「笑えない」
「笑えないか。——そうか」
未来の選が机の引き出しから何かを取り出した。小さなデバイス。転送座標の設定端末。
「入学式前に戻す。やり直せ。俺のようにならないために」
「やり直すって——記憶は」
「残る。全部覚えている状態で、もう一度入学式を迎えろ」
「…………」
「ミラも一緒に行く。AXIOMも残る。——お前の世界のものだ。もう」
「お前は——どうするんだ」
「俺はここにいる。——正しさの続きをやる。それが俺の役割だから」
「…………」
「行け」
「——お前もな」
「何だ」
「月、見ろよ。——灰色でも、上にはあるだろ」
未来の選が目を見開いた。一瞬だけ。
「……生意気だな」
「お前だからな」
未来の選が——笑った。今度は、少しだけ本物の笑顔で。
「……よかった。お前は、まだ笑えるんだな」
「笑えるよ。——約束が十三件もあるから」
「そうか。——なら、十四件目だ」
「何だよ」
「笑え。ずっと笑ってろ。正しさで笑えなくなる前に——隣の人間と、馬鹿みたいに笑ってろ」
「…………」
「約束だ」
「……約束」
【約束リスト更新——現在14件】
AXIOMが記録した。未来の選との約束を。
未来の選がAXIOMの表示を見た。同じAXIOMの、試作型の表示を。
「……まだ『微増』って言ってるか、そいつ」
「言ってる。ずっと」
「……俺のは、もう何も言わない。完成しすぎて」
「…………」
「不完全なうちが——一番いいんだ。たぶん」
未来の選が転送端末を操作した。
「行け。——もう来るな」
「来ない。——でも、覚えてる」
「覚えてるか」
「覚えてる。お前のことも。この灰色の空も。——全部」
「……十分だ」




