第31話「何も変わらない(ことにした)」
火曜日。朝。
教室に入った瞬間、身構えた。
昨日の告白。保留。気まずい空気。——覚悟はしていた。
「おはよう、岐堂くん! 新しいアプリ見つけたの!」
明日香が笑っていた。
いつもの笑顔。いつもの声。いつものテンション。スマホを見せてきた。画面にはネットワーク構築シミュレーターの新作が映っている。
「見て見て、パケットルーティングの最適化が——あ、ごめん、朝から技術の話——」
「いや、見せて」
「いいの? じゃあね、この新機能がすごくて——」
いつも通りだった。
完璧に、いつも通り。昨日の告白がなかったかのように。泣きそうな笑顔の痕跡がないかのように。
「……お前すごいな」
「何が?」
「いや、なんでもない」
何がすごいか。明日香の強さが。「引きずらないタイプ」と言っていたが、これは引きずっていないのではなく——引きずらないと決めたのだ。自分の意志で。
強い。
——明日香は強い。
昼休み。屋上。
三人で食べる。いつも通り——のはず。
選。ミラ。明日香。
黒瀬と律はそれぞれ別行動。黒瀬は「走ってくる」、律は「非効率」と言って教室に残った。
弁当を開ける。ミラの弁当。明日香の弁当。俺はコンビニのサンドイッチ。
「岐堂くん、またコンビニ? 卵焼きあげる」
明日香が箸で卵焼きを差し出した。いつものやつ。
「ありがと……」
受け取る。食べる。美味い。いつもの味。
ミラが弁当箱の蓋を開けた。中身を見て——無言で、自分の唐揚げを俺の弁当箱に移した。
「……これも」
「あ、ありがと……」
卵焼き。唐揚げ。二方向からおかずが来る。
明日香とミラが目を合わせた。
火花。
視線が交差する。0.5秒。無言。笑顔。——笑顔の裏に何かがある。
【周囲の緊張度が上昇しています。原因:複数の感情パラメータが競合——】
(黙れ今だけは黙れ)
【了解】
食べた。黙々と。卵焼きと唐揚げを。美味い。美味いけど喉を通りにくい。空気のせいだ。
「……美味い」
「でしょ? 母の卵焼き」
「……でしょ」
ミラの「でしょ」が低い。唐揚げの「でしょ」。
二つの「でしょ」の温度差がすごい。
「あはは、ミラちゃんの唐揚げも美味しそうだね」
「……ありがとう」
「今度レシピ教えてよ」
「……いい」
「え、いいの? やった!」
「……いい、けど。教える義理はない」
「義理じゃなくて友達だから!」
「……友達」
ミラが「友達」を咀嚼している。明日香を「友達」として認識しているのか。恋敵として認識しているのか。たぶん両方だ。
「私たち友達だよね、ミラちゃん」
「…………」
「ね?」
「……うん」
ミラの「うん」が小さかった。でも——嘘ではなかった。
三人で弁当を食べた。いつもより少しだけ静かで、いつもより少しだけおかずが多い昼休み。
放課後。
帰り道。ミラと二人。いつものルート。
歩いている。並んで。
ミラの手が——俺の手に近づいた。
いつもなら繋ぐ。ミラから。最近は俺から繋ぐこともあった。
——ミラの手が、止まった。
引っ込めた。
「……繋がないの?」
「…………」
「ミラ」
「……選が答え出すまでは、ずるいことしたくない」
「ずるいって——」
「明日香さんは正面から言った。私は——まだ言ってない。言ってないのに手を繋ぐのは、ずるい」
「…………」
「明日香さんが待ってるのに、私だけ近くにいるのは——フェアじゃない」
ミラの横顔が真っ直ぐ前を向いている。感情を押し込めている顔。でも——押し込めることを自分で選んでいる顔。
「ミラ——」
——地面が揺れた。
【警告。敵性ユニット接近。捕縛型。2体。接近方向:前方と右方。殺傷意図:なし。ただし拘束後の処理は不明】
路地の角から——四足歩行の機体が飛び出してきた。犬型。背中からワイヤー射出機構。目がない。代わりにセンサーアレイ。
一体目がワイヤーを撃った。ミラに向かって。
ワイヤーがミラの腰に巻きつく。引っ張られる。
「ミラ!」
ミラが冷静に叫んだ。
「来ないで。罠——」
二体目が横から出てきた。ワイヤーが俺に向かって飛ぶ。
避けた。AXIOMの反射補助。ワイヤーが壁に刺さる。
一体目がミラを引きずっている。ミラは銃を抜こうとしているが、腕もワイヤーで拘束されかけている。
「殺さないくせに捕まえるとか、一番タチ悪い!」
二体目のワイヤーをもう一本避けて、一体目に向かって走る。
一体目の関節を蹴った。律に教わった——というか、律にやられた動きを真似た。関節部。硬い。でも、AXIOMの出力を全開にすれば——
蹴りが入った。一体目がよろめく。ワイヤーが緩む。
ミラのワイヤーを掴んだ。両手で。引きちぎる。AXIOMの出力全開。金属のワイヤーが千切れる。
手がミラの手に触れた。
——繋いだ。
結果的に。ワイヤーを千切った勢いで、ミラの手を掴んだ形になった。
ミラの目が俺を見た。
「……繋いだ」
「これは救助だから! ずるいカウントに入れんな!」
「……でも繋いだ」
「ミラ!!」
二体目が突進してくる。
手を繋いだまま——ミラが銃を構えた。左手で。右手は俺が握っている。
ミラの左手一本の射撃。精密。二体目の脚部関節を撃った。二体目がバランスを崩す。
俺が右手でエネルギーを叩き込んだ。ミラの手を握ったまま。左手で。
二体目が停止。
一体目がワイヤーを再射出しようとする。
ミラの手を離した。離したくないけど——離す。
一体目の正面に立った。ワイヤーが飛んでくる。シールドで弾く。弾いたワイヤーが一体目に絡まる。自縄自縛。
蹴り。胴体。停止。
二体とも沈黙。
認識フィールドが修復される。路地が元に戻る。
息が荒い。手が痛い。ワイヤーを千切った時に手のひらが切れている。
「……ありがと」
「……仕方ないだろ」
「手、切れてる」
「大したことない」
「大したことある。——見せて」
ミラが俺の手を取った。右手。手のひらの切り傷を確認する。
「…………」
「ほら、大したこと——」
「ばかか」
ミラの声が低かった。怒っている——のではない。心配している。心配を怒りに変換している。
「ワイヤーを素手で千切るな。手が壊れる」
「壊れてない」
「壊れかけてる」
「……すみません」
ミラが俺の手のひらにハンカチを巻いた。止血。丁寧に。冷たい指が傷に触れる。少しだけ痛い。
「……ミラ」
「何」
「手、繋いだの——本当に救助だから」
「…………」
「ずるいカウントには——」
「入れない。——でも」
「でも?」
「……手、温かかった」
ミラがハンカチを結んだ。巻き終わった。手を離した。
「……既成事実で勝つのは嫌」
「え?」
「私は、ちゃんと言いたい。明日香さんみたいに。正面から。——既成事実で選の隣にいるんじゃなくて、ちゃんと選ばれて隣にいたい」
「…………」
「だから——選が答えを出すまでは、手は繋がない」
「……ミラ」
「今日のは例外。救助だから。——でも、次からは」
「分かった」
ミラの横顔が、少しだけ大人に見えた。
十五歳。未来から来た少女。無表情。感情が読めない——はずだった。今は読める。少しだけ。
悔しくて、真面目で、ちょっとだけ嬉しくて、でもやっぱり悔しい。そういう横顔。
「……お前、意外とそういうとこ真面目だな」
「意外とって何」
「いや、褒めてる」
「……そう」
歩き始めた。並んで。手は繋がない。少しだけ距離がある。
でも、隣にはいる。
夜。自宅。自分の部屋。
天井を見ている。
明日香の「好き」が頭の中に残っている。ミラの「既成事実で勝つのは嫌」が重なっている。
二人とも、待ってくれている。俺が答えを出すまで。
——重い。重いけど、逃げたらダメだ。
でも正直——恋愛って何なんだ。
好き。大事。一緒にいたい。守りたい。——全部、明日香にもミラにも感じる。同じなのか。違うのか。同じだったら二人とも「好き」なのか。違うなら何が違うのか。
【恋愛の定義を検索しますか?】
「お前に聞いてない」
【了解。——しかし、参考までに。使用者の心拍数データを分析した結果——】
「聞いてない」
【了解】
「…………」
「……やっぱ教えて」
【対象A(ミラ個体)との接触時:平均心拍数118bpm。対象B(明日香個体)との接触時:平均心拍数109bpm】
「数値で恋愛語るなよ……」
【数値は嘘をつきません】
「数値が全部じゃないだろ」
【正確です。数値が全部ではありません。——ですが、参考にはなります】
「…………」
【使用者。一つだけ】
「何」
【答えを出す必要はありますが、急ぐ必要はありません。——両対象とも、待つと言っています】
「……お前に慰められるのは初めてだな」
【慰めではありません。事実の提示です】
「……ありがとな」
【記録しました】
「…………今回は、記録していい」
【了解】
天井を見ている。
答えはまだ出ない。出ないけど——逃げない。ちゃんと考える。
二人が待ってくれている間に。
窓の外。月が出ている。半月より少し太い。明後日あたりで満月か。
月が見ている。答えを急かさない。ただ、見ている。
——明日も学校だ。明日香がいて、ミラがいて、黒瀬がいて、律がいて、神崎が遠くにいる。
いつもの日常。少しだけ変わった日常。
何も変わらない。
——ことにした。




