第30話「明日香の告白」
月曜日。放課後。
明日香に呼ばれた。
「岐堂くん、放課後ちょっといい?」
昼休みに、教室で。いつもの笑顔。でも——少しだけ、声が硬かった。明日香の声が硬くなるのは珍しい。いつも柔らかい声。穏やかな声。それが少しだけ、緊張を含んでいた。
「いいけど、どうした?」
「話したいことがあるの。——二人で」
二人で。
ミラが後ろの席で聞いていた。聞こえていたはずだ。ミラの耳は良い。
ミラは何も言わなかった。ただ、ノートに目を落としたまま——ペンを少しだけ強く握った。
放課後。校舎裏。
花壇の横のベンチ。人が来ない場所。明日香が選んだ場所。
六月の夕方。まだ明るい。日が長い。紫陽花が咲いている。青と紫。
明日香が立っていた。制服のスカートを両手で押さえている。風が吹いているわけではない。緊張で手の置き場がないのだ。
「座らない?」
「うん。——いや、立ったまま言う」
「……おう」
明日香が俺を見た。真っ直ぐに。いつもの穏やかな目。でも——奥に、覚悟がある。
「ずっと言いたかったことがあるの」
「…………」
「入学してから——岐堂くんの隣の席で、毎日話して。最初は普通のクラスメイトだった。でも、だんだん——」
明日香の声が少し震えた。すぐに立て直した。
「岐堂くんが時々すごく疲れた顔してて。理由は聞けなかったけど。——でも、次の日には笑ってて。その笑顔見るたびに、ほっとして」
「…………」
「技術の話をした時、岐堂くんだけ『続けて』って言ってくれた。みんな途中で飽きるのに。岐堂くんは最後まで聞いてくれた」
「……聞きたかったから」
「うん。——だから」
明日香が一歩踏み出した。距離が近くなった。紫陽花の匂い。夕陽。
「私、岐堂くんのことが好き」
ストレート。真っ直ぐ。技術トークで暴走する時と同じ勢い。照れも衒いもない。ただ真っ直ぐに、言葉を投げた。
「…………」
心臓が跳ねた。
【心拍数——】
(今は黙れ)
【……了解】
AXIOMが黙った。空気を読んだ。
明日香の目が揺れている。言った後の不安。返事を待つ怖さ。でも——逃げていない。目を逸らしていない。
「……ごめん。正直に言う」
「うん」
「嬉しい。すごく。——でも」
「でも?」
「恋愛って、俺よく分かんないんだ」
「分かんない?」
「明日香のことは大事だと思ってる。一緒にいて楽しいし、話してると安心する。でもそれが恋なのか、友達として好きなのか——整理がつかない」
「…………」
「ミラのこともお前のことも、大事だと思ってる。でもそれが同じ『大事』なのか違う『大事』なのか——」
「……ミラちゃんのことも?」
「……たぶん。分かんない。正直に言うと、分かんない」
最悪の答えだ。分かっている。「好き」か「ごめん」のどちらかを言うべきだ。保留は一番ずるい。
でも——嘘は、つきたくなかった。
「考えさせてほしい。ちゃんと向き合いたいから」
頭を下げた。
沈黙。
「……ずるいなあ」
明日香の声が聞こえた。顔を上げた。
明日香が笑っていた。泣きそうな顔で。目が潤んでいる。でも——笑っていた。
「ずるい?」
「ずるいよ。そういう誠実なとこが好きなんだから」
「……明日香」
「適当にごまかされるより、ずっといい。——ちゃんと考えてくれるんでしょ?」
「考える。絶対に」
「じゃあ、待ってる。答えが出るまで」
「……ごめん」
「謝らないで」
明日香が目元を拭った。袖で。一瞬だけ。すぐに顔を上げた。
「聞けてよかった。——ずっと言えなかったから。胸の中にしまっておくの、得意じゃないんだ」
「…………」
「じゃあ、先に帰るね。——明日も、普通に話しかけるから。覚悟しといて」
「覚悟?」
「私、引きずらないタイプだから」
明日香が笑った。今度は——本物の笑顔。少しだけ無理をしている。でも、嘘じゃない笑顔。
明日香が歩いていった。校舎裏の角を曲がる。
角を曲がる直前に——一瞬だけ立ち止まった。
振り返らなかった。
でも、肩が小さく震えた。一瞬だけ。
それから——歩いていった。
紫陽花が揺れていた。風のせいだ。風のせいにしておく。
夜。自宅。
ミラがリビングにいた。ソファに座っている。テレビはついていない。
「ミラ」
「……何」
「明日香に告白された」
「…………」
「保留にした」
「……断らなかったの?」
「断れなかった。——正直に話した。恋愛が分かんないって」
「……私のことも?」
「……お前のことも、大事だとは言った」
ミラが膝の上で手を組んだ。指が白くなるくらい、強く。
「嬉しいような、嬉しくないような」
「俺もそんな感じ」
「……ずるい」
「明日香にも言われた」
「……でしょうね」
沈黙。
テレビのつかないリビング。台所の時計が動く音だけが聞こえる。
「ミラ」
「何」
「お前に隠したくなかった。だから言った」
「…………」
「お前と明日香と、両方に嘘つきたくない。——結果として二人を待たせてる。最悪なのは分かってる」
「最悪じゃない」
「え」
「最悪は、嘘をつかれること。——正直なのは、ずるいけど、最悪じゃない」
ミラの声が低かった。抑えている。何を抑えているのかは——分かる。
「……ミラ」
「もう一つだけ」
「何」
「断らなかったってことは——明日香さんのこと、少しは意識してるってこと?」
「…………」
「……ごめん。聞かなくていい」
「いや、答える。——分かんない。分かんないけど、大事な人だとは思ってる。それが恋なのかは分かんない」
「……私と同じ答え?」
「同じかもしれない。違うかもしれない。——それが分かんないから困ってる」
ミラが立ち上がった。
「寝る」
「ミラ——」
「大丈夫。怒ってない」
「怒ってないけど——」
「怒ってない。——少しだけ、悔しい」
「悔しい?」
「明日香さんの方が先に言えたから」
ミラが自分の部屋に行った。ドアが閉まる。静かに。
——先に言えた。
ミラも言いたかったのだろうか。先に。
リビングに一人。時計の音。
「……ちゃんと考える。逃げないから」
誰に言っているのか分からなかった。明日香に。ミラに。自分に。
——閉まったドアの向こうから、小さな声が聞こえた。
「……信じる」
聞こえた。
届いていた。
月が窓から見えた。半月。いつもより眩しい。




