第3話「手が冷たい女」
走っている。
全力で走っている。
人生でこんなに走ったのは中学の持久走以来だ。あの時は「あと一周で終わり」というゴールがあった。今はない。ゴールがない全力疾走。マラソンですらない。ただの逃走。
背後から光線が飛んでくる。
右。アスファルトが弾ける。左。電柱の根元が焼け焦げる。真後ろ。俺が一秒前にいた場所に、直径三十センチの穴が開く。
「死ぬ死ぬ死ぬ!! なんで!? 入学二日目!!」
叫んでも誰も振り向かない。駅前の通りを走っているのに、通行人は普通に歩いている。光線が足元のタイルを砕いているのに、コンビニから出てきたサラリーマンはコーヒーを啜りながらスマホを見ている。
俺だけが見えている。
俺だけが狙われている。
理由は分からない。心当たりもない。入学式で何か悪いことをした覚えはない。校歌もちゃんと歌った。歌詞は三番まで覚えてないけど口パクで乗り切った。それが死に値する罪だとは思えない。
角を曲がる。路地に入る。
——行き止まり。
「嘘だろ」
高さ三メートルのフェンス。乗り越えられる高さじゃない。引き返そうとして振り向くと、路地の入口を黒い影が塞いでいた。ドローン。二機。先端の光点が、ゆっくりとこちらに収束する。
(終わった)
足が止まる。息が止まる。思考が止まる。
——銃声。
乾いた破裂音が路地に響いた。
ドローンの一機が火花を散らして壁に激突する。二機目がぐらりと揺れて、もう一発。今度は機体の中央を撃ち抜かれて、回転しながら地面に落ちた。残骸が路地の石畳を滑って、俺の足元で止まる。
煙が立ち昇る。
硝煙の匂い——じゃない。もっと無機質な、オゾンみたいな匂いがする。
路地の入口に、人影。
逆光で顔が見えない。細いシルエット。右手に何かを持っている。拳銃——に似た何か。形が見慣れない。
人影が歩いてくる。光が顔に当たる。
黒い髪。白い肌。無表情。
——昨日の少女だった。
桜並木の奥で消えた、あの少女。
「お前——昨日の——」
「伏せて」
短い声。感情がない。命令形だけど怒ってない。天気予報みたいな口調で致命的なことを言う。
「は?」
「伏せて」
頭上を光線が通過した。髪の毛が焦げる匂い。追加のドローンが路地の上空から降りてきたらしい。少女が腕を上げて、二発撃つ。二機落ちる。正確すぎる。
少女が俺の手を掴んだ。
「走って」
「手冷たっ!!」
氷みたいだった。冷凍庫に手を突っ込んだみたいな冷たさ。人間の体温じゃない。
「いいから走って」
「冷たいのはいいけど説明して!?」
「走りながら」
「走りながら説明できる体力ない!!」
引きずられるように走り出す。少女の足が速い。細い体のどこにそんな脚力があるのか。こっちは全力疾走の後で心肺が限界なのに、少女は息ひとつ乱れていない。
路地を抜ける。大通りを横切る。信号は赤だったが少女は止まらない。車が来ていないのを一瞬で確認して、そのまま突っ切る。
「信号! 赤!!」
「車来てない」
「そういう問題じゃ——」
また光線。交差点の真ん中のアスファルトが吹き飛ぶ。通行人は反応しない。信号を守ってる場合じゃないことは理解した。
少女が路地裏に飛び込む。狭い階段を降りる。地下に向かっている。
「どこ行くの」
「安全なところ」
「安全って、地下!?」
「ドローンは地下に入れない。構造上」
「構造上って何の構造——」
「着いた」
地下通路だった。
古い商店街の地下連絡通路。シャッターが降りた店舗が両側に並んでいる。蛍光灯が半分切れていて、残り半分もちらちら点滅している。人の気配はない。閉鎖されて久しい場所。
少女がようやく立ち止まった。
俺の手を離す。離した瞬間、手のひらにじわっと熱が戻ってきた。握られていた部分だけ白くなっている。
「……ここなら大丈夫」
「大丈夫……?」
「追ってこない。しばらくは」
「しばらくって何分」
「分からない。でも、少なくとも数分は」
膝に手をつく。息が整わない。心臓が耳の後ろで打っている。視界が明滅する。酸欠だ。
「……座って」
「立っ……てら……れない……」
壁に背をつけて、ずるずると座り込んだ。冷たいコンクリートの床。ホコリっぽい空気。蛍光灯がじじじと音を立てている。
少女は座らなかった。通路の奥を警戒するように立っている。右手の拳銃——に似た武器を体の横に下げたまま。
息が整うまでに二分かかった。
「……説明」
「何を」
「全部」
少女がこちらを見た。無表情。蛍光灯の光が片側だけ当たっていて、顔の半分が影になっている。
「長くなる」
「短くまとめて」
「……あなたを狙っている。未来の兵器が。理由は、今は言えない」
短すぎる。
「未来って何」
「そのまま。未来」
「未来の兵器って何」
「さっきのドローン」
「なんで俺を」
「今は言えない」
「お前は何者なんだ」
「……」
少女が目を逸らした。初めて見る反応。さっきまで銃を撃ちながらノーリアクションだったのに、自分のことを聞かれたら目を逸らす。
「出たら話す。全部は無理だけど、できる範囲で」
「できる範囲って」
「……多くはない」
「正直だな」
「嘘は下手」
嘘が下手。こんな状況で言うことか。こっちは命の危機に瀕してるのに、この少女はどこかズレている。ズレてるのに、嘘を言ってる感じはしない。
——足音。
通路の奥から。
少女の表情が変わった。変わったといっても微細な変化で、眉が一ミリ動いた程度だ。しかし、今までが完全な無表情だっただけに、その一ミリは叫び声に等しかった。
「来た」
「早くない!? 数分って言っただろ!」
「地上からじゃない。別の入口」
少女が俺の腕を引いた。壁際に押し込まれる。少女の体が覆いかぶさるように——いや、正確には俺を壁と自分の体の間に挟み込むようにして、通路の中央から隠れた。
狭い。
暗い。
目の前に少女の顔がある。
距離は——測りたくない。測らなくても分かる。吐息が顔にかかる距離だ。少女の息は冷たい。手だけじゃなくて、吐く息まで冷たい。どういう体温調節をしてるんだこの人。
「…………」
「…………」
沈黙。
通路の奥から、金属が擦れるような音が近づいてくる。何かが這っている。ドローンとは違う。もっと重い音。
少女が左手で俺の口を塞いだ。冷たい。
(静かにしろってことは分かるけど)
(この体勢で静かにできるわけないだろ……!)
心臓がうるさい。自分の心臓の音が通路中に響いているんじゃないかと思う。少女の体が近い。制服じゃない服の素材が——何だろう、見たことのない質感の生地が、腕に触れている。体温は低いのに、体は柔らかい。
(考えるな。今それを考えるな)
金属音が近づく。
通り過ぎる。
——遠ざかっていく。
少女が手を離した。一歩下がる。
「行った。大丈夫」
「大丈夫じゃない、心臓が……」
「怪我した?」
「してない。別の意味で」
「別の意味?」
首を傾げている。本気で分かっていない顔。この少女には「男女間の距離感」という概念が実装されていないのかもしれない。
「……もういい。忘れて」
「忘れる?」
「忘れて」
「分かった」
素直か。
蛍光灯がぷつんと一つ消えた。暗さが増す。残った蛍光灯が心もとなくちらついている。
少女が通路の奥を確認してから、こちらに向き直った。
「もう少し待って。安全を確認する」
「……なあ」
「何」
「名前」
「名前?」
「お前の名前。まだ聞いてない」
少女が、ほんの一瞬だけ間を置いた。
「ミラ」
「ミラ……?」
「ミラ」
「苗字は」
「……ミラだけ」
ミラだけ。それが本名なのか偽名なのか分からない。外国人の名前みたいでもあるし、日本語の響きにも聞こえる。不思議な名前だ。
「綺麗な名前だな」
思ったことがそのまま口から出た。
ミラの動きが止まった。
一拍。
「……ありがと」
声が小さかった。蛍光灯のちらつきの中で、わずかに——耳が赤い。気のせいかもしれない。光の加減かもしれない。でも、赤く見えた。
「俺、岐堂選。きどう・せん」
「……選」
「うん」
「選」
二回言った。確認するみたいに。
沈黙。
蛍光灯がじじじと鳴っている。地下通路の湿った空気。遠くで水が滴る音。
「……俺、何に巻き込まれてるんだ」
「出たら、話す」
「さっきもそう言った」
「だから、出たら」
「約束だぞ」
「約束」
短い返事。でも、重い。
この人は約束を軽く扱わない——そういう直感があった。理由は分からない。出会ってまだ三十分も経っていない相手のことを、なぜそう思えるのか。
でも、思った。
「……行ける?」
「行ける」
「歩ける?」
「歩ける」
「手、貸す?」
一瞬の間。
「……いい。自分で歩ける」
「そう」
立ち上がる。膝がまだ少し笑っているが、走れと言われなければ大丈夫だ。
ミラが先に立って歩き出す。俺がその後ろをついていく。
地下通路は長かった。シャッターの降りた店の前を何十も通り過ぎる。かつてはたこ焼き屋だったらしい看板。古本屋。靴の修理屋。全部閉まっている。この通路がいつ閉鎖されたのか分からないが、ホコリの積もり方からして、何年も前だろう。
「ミラ」
「何」
「手、まだ冷たい?」
「……たぶん」
「冷え性?」
「……違う。体質」
「そう」
体質。人間の体質で吐く息まで冷たくなるものだろうか。ならないだろう。つまり、この人は——
考えるのをやめた。
今日はもう十分だ。入学式の来賓の腕が消えて、桜の下の少女が消えて、ドローンに撃たれて、地下通路で壁に押し付けられて、名前を聞いた。情報量が人生の許容を超えている。
出口の光が見えた。
地上に出る。夕方の光が眩しい。空は何事もなかったかのように橙色に染まっている。
ミラが周囲を確認する。
「……大丈夫。もう来ない」
「なんで分かる」
「時間帯。夕方以降は活動が落ちる」
「日没で帰宅するドローン? 律儀かよ」
「律儀とは違う。運用パターン」
「ツッコミだよ」
「……ツッコミ」
また首を傾げる。ツッコミの概念も怪しいらしい。
通りに人がいる。普通の通行人。普通の日常。ドローンも光線もない。世界は平和だ。
——平和に見える。
さっきまで撃たれていたことが嘘みたいだ。でも、膝に擦り傷があるし、制服のズボンの裾にコンクリートの粉がついている。夢じゃない。
「……約束」
ミラが言った。
「出たから。話す」
「ああ」
「でも、今日は——」
「今日はもう無理。頭がパンクしてる」
「……そう。じゃあ、明日」
「明日? どこで」
「……見つける。私が」
「見つけるって、俺を?」
「うん」
「怖いこと言うな」
「怖い?」
「ストーカーみたいだろ」
「ストーカーじゃない。……護衛」
「護衛も怖いんだけど」
ミラが少しだけ首を傾げた。何がどう怖いのか、本気で理解できていない顔。
俺は溜息をついた。
「……分かった。明日な」
「明日」
「約束」
「約束」
また約束。今日だけで二回目だ。
ミラが踵を返す。数歩歩いて——振り返った。
「選」
「何」
「……帰り道、気をつけて」
「お前が護衛なんじゃないの」
「……今日はもう来ない。たぶん。でも、念のため」
「念のためって言われると逆に怖いんだけど」
「……ごめん」
表情は変わらない。でも、声のトーンが少しだけ下がった。ほんの少しだけ。
「いや、謝んなくていい。助けてくれたし。……ありがとう」
ミラが瞬きをした。ゆっくりと、一回。
「……どういたしまして」
言い慣れていない言葉を口にした、という感じだった。
少女が去っていく。角を曲がって——消えた。今度は物理的に。走ったのかもしれないし、また瞬間移動的な何かをしたのかもしれない。どちらでもいい。今日はもう何が起きても驚かない。
——嘘だ。たぶんまだ驚く。
帰り道。
足が重い。体が重い。全力疾走の後の倦怠感が今さら襲ってくる。太ももが張っている。明日は筋肉痛で歩けないかもしれない。入学二日目にして遅刻の危機。
スマホを見る。
母親からLINE。「入学式どうだった?」
返信。「良かった」
——今日二回目の「良かった」。語彙力が本当に死んでいる。
家に着く。靴を脱ぐ。鞄を床に投げる。ベッドに倒れ込む。
天井を見る。
手を見る。
右手が——まだ冷たい。ミラに握られた手が。体温が戻りきっていない。人間の手でこんなに冷たくなれるのか。
(ミラ)
綺麗な名前だと思った。それは本心だ。
綺麗な顔だとも思った。それも本心だ。
——それと、明日また会うのが怖いのも、本心だ。
目を閉じる。
入学式の来賓の消えた腕。桜並木の少女。ドローン。光線。地下通路。冷たい手。冷たい息。近い顔。赤い耳。
明日。
明日、全部聞こう。
全部は無理でも、できる範囲で。彼女がそう言ったのだから、そうする。
——意識が落ちる直前に思った。
(明日香には、何て言い訳しよう。「入学式の帰りに地下通路で女の子に壁ドンされました」は絶対言えない)
(……入学式どうだったって聞かれたら、三回目の「良かった」を言うことになるのか)
(語彙力を何とかしないと)
眠った。
筋肉痛は、予想通りだった。




