第29話「朝霧一夜」
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日曜日。午後。
一人で散歩していた。ミラは偵察。明日香は家族と外出。黒瀬は「走りに行く」と言って消えた。律は知らない。
公園に来た。いつもの公園。月を見る公園。ベンチに座る。
六月の午後。雲が多い。曇天。梅雨らしい空。
——ベンチの端に、人がいた。
気づかなかった。座った時には既にいた。
女性。二十代くらい。穏やかな顔。長い髪を一つに結んでいる。服装は地味。白いカーディガンにベージュのスカート。目立たない。人混みに紛れたら見つけられないような、そういう存在感の薄さ。
——存在感が薄い。
不自然なほど薄い。
【周囲に生体反応を検知。——ただし、観測強度が通常の62%。不完全な存在反応です】
不完全な存在反応。
「……すみません」
その人が声をかけてきた。声も薄い。穏やかだが、どこか——遠い。
「あなた、観測者ですよね」
「…………」
「分かります。こちらが見える人は、そういう目をしてるから」
こちらが見える。つまり——この人は、普通の人には見えにくい存在なのか。
「朝霧一夜です。——よろしく」
「岐堂選です」
「選さん。——少し、話してもいいですか」
「……はい」
断る理由がなかった。この人に敵意はない。AXIOMも警告を出していない。ただ——穏やかで、薄くて、どこか諦めている。
「私は切り捨てられた側です」
朝霧さんはベンチに座ったまま言った。空を見ている。曇り空を。
「正しい判断の結果として、消されかけた人間です」
「……消されかけた」
「一年前。私のいた地域で——因果のズレが起きました。世界の人数調整。被害を最小化するために、一番影響の少ない人間を消す。——私が、その対象でした」
「…………」
「消去が始まりました。周りの人間から記憶が消えていく。記録が欠損していく。写真から顔がぼやけていく。名前を呼ばれなくなる」
朝霧さんの声は平坦だった。感情がないわけではない。感情を処理し終えた声。何度もこの話をして、何度も飲み込んで、消化し終えた声。
「途中で止まりました。完全に消える前に——何かのエラーで。私は消えかけたまま、ここにいます」
「消えかけたまま……」
「存在感が薄いでしょう? 人混みに入ると見失われます。名前を呼ばれても気づかれないことがあります。写真に写りにくい。——消えかけの状態で、固定されています」
それが「観測強度62%」の意味か。完全な存在ではない。かといって完全に消えたわけでもない。中途半端な状態で世界に存在している。
「……恨んでないんですか」
「恨んでいません」
「なんで」
「正しかったから」
「…………」
「私が消えることで、地域全体の因果のズレが修復される予定でした。百人の生活を守るために、一人を消す。——計算としては正しい」
「計算としては、って——」
「計算としても、判断としても、正しかった。私もそう思います」
朝霧さんが俺を見た。穏やかな目。透明な目。——諦めた目ではない。納得した目だ。
「正しかったから、恨めないんです。間違いなら怒れる。理不尽なら叫べる。でも——正しかったから。怒る先がない」
「…………」
「選さんは、どう思いますか」
「どう思うかって——」
「正しい判断で、一人の人間が消されかけた。それについて」
答えなければいけない。この人は答えを求めている。——いや、求めていない。ただ聞いている。どう思うか、を。
「……正しいとしても、嫌だと思います」
「嫌?」
「正しいかどうかは分かる。百人を守るために一人を犠牲にするのが合理的なのは分かる。でも——嫌だ。正しくても嫌なものは嫌だ」
「…………」
「朝霧さんが消されかけたのは正しかったかもしれない。でも俺は、正しくても——人が消えるのは嫌だ」
声が出た。思ったよりも強い声だった。
朝霧さんが少し黙った。
「……子供ですね」
「子供でいい」
「感情論ですよ」
「感情論でいい。正しさだけで世界が回るなら——朝霧さんが消えかけるようなことは起きちゃいけなかった。正しさが人を消すなら、その正しさは——」
言葉が詰まった。正しさが間違っている、とは言えない。正しさは正しい。間違いではない。でも——嫌だ。
「……俺は、正しくても嫌なものは嫌です。それだけです」
朝霧さんが微笑んだ。
穏やかな笑顔。——少しだけ、泣きそうな笑顔。
「……素敵ですよ、それは」
「え」
「正しさに納得しないこと。正しくても嫌だと言えること。——それは素敵なことだと思います」
「…………」
「私にはできなかった。正しいと思ってしまったから。納得してしまったから。——でも、納得しない人がいてくれるのは」
朝霧さんが空を見上げた。曇り空。雲の隙間から、微かに光が差している。
「救われます」
「…………」
「ありがとうございます。——話を聞いてくれて」
朝霧さんが立ち上がった。
「もう行きますね」
「朝霧さん」
「はい」
「また会えますか」
「……分かりません。消えかけの人間ですから。明日いるかどうかも」
「でも——」
「でも、今日はここにいました。それだけで十分です」
朝霧さんが歩いていった。公園の出口に向かって。
——途中で、輪郭がぼやけた。
存在感が薄くなる。公園を歩く人たちの中に紛れていく。溶けていく。見えなくなる。
消えたのではない。見えなくなっただけ。まだいる。まだ存在している。——62%の存在として。
AXIOMが何も言わなかった。
心拍数の報告もない。記録の通知もない。沈黙。
空気を読んでいる。——初めてではない。でも、今日の沈黙は、いつもより深かった。
夕方。帰り道。
ミラが偵察から戻っていた。マンションの前で待っていた。
「おかえり」
「ただいま」
「……顔が暗い」
「暗い?」
「暗い。何かあった」
歩きながら話した。朝霧さんのこと。消えかけの存在のこと。正しい判断の犠牲者のこと。
ミラは黙って聞いていた。
「正しさって、何だろう」
「……分からない」
「分からないのに、戦ってるんだな。俺たち」
「……うん」
「正しいことが人を消す。正しいことが人を傷つける。それでも正しいのか」
「…………」
「答えは出ない。たぶん、出ない。——でも、嫌だと思う気持ちだけは、捨てたくない」
ミラが俺の手を取った。
冷たい手。いつもの冷たさ。でも——今日は、その冷たさが必要だった。
手を握り返した。
「……ミラ」
「何」
「ありがと」
「何も、してない」
「いてくれるだけで」
「…………」
手を繋いだまま歩いた。住宅街の帰り道。街灯が点き始めている。
空を見上げた。曇り空。月は——見えない。
見えなくても、そこにある。
朝霧さんのように。見えなくても、存在している。
「……今日の月は」
「見えない」
「見えなくても——あるんだよな」
「……ある」
「……じゃあ、今日は0点?」
「0点じゃない。——選がいるから、20点」
「低いな」
「曇りだから。——でも、0じゃない」
「……そうか」
0じゃない。
それだけで、今は十分だ。




