第25話「体育祭本番(前編)」
体育祭当日。快晴。
五月の終わり。空が青い。雲がない。グラウンドに白線が引かれている。テントが並んでいる。保護者席が埋まっている。
——その中に一人、双眼鏡を構えている女がいる。
見なかったことにしよう。
「岐堂くん、今日頑張ろうね!」
明日香が笑った。体操服。ハチマキは赤。俺も赤組。ミラも赤。黒瀬も赤。同じクラスだから当然だが。
「おう。——まず二人三脚だな」
「ミラちゃんと頑張ってね」
「……明日香も」
明日香の笑顔に影はない。本心から応援している。こういうところが明日香だ。
第一種目。二人三脚。
スタートラインに並ぶ。右足と左足を紐で結ぶ。——ミラとの距離が、近い。
「……近い」
「二人三脚だから」
「分かってるけど——もうちょい離れられない?」
「離れたら転ぶ」
「密着しすぎても転ぶから!!」
ミラの肩が俺の肩に触れている。体操服越しに体温が伝わる。ミラの体温は低い。でも今日は——少し高い気がする。緊張しているのか。
「ミラ、緊張してる?」
「してない」
「嘘だろ」
「……少しだけ」
ミラの「少しだけ」シリーズ。本当は結構緊張している。
ピストルが鳴った。
走る。右、左、右、左。ミラとリズムを合わせる。ミラの身体能力は高い。俺はAXIOMで底上げされている。ペース自体は速い。——が。
ミラの体が揺れるたびに、柔らかいものが腕に当たる。
考えるな。走れ。考えるな。走れ。
【心拍数が運動由来の数値を大幅に超過しています。原因は——】
(黙れ)
【了解】
コーナーを曲がる。ミラが俺の腰に手を回した。バランスを取るために。
「っ——」
「倒れないように」
「分かってるけど——手の位置!」
「腰」
「もうちょい上!」
「……背中?」
「背中! 背中にして!」
ミラの手が背中に移動した。——温かい。冷たいはずなのに温かい。
ゴール。三位。
紐を解く。ミラが少し息を切らしている。
「三位か……」
「楽しかった」
「え?」
「楽しかった。——初めて。こういうの」
ミラが体操服の裾を直している。髪が乱れている。汗が頬を伝っている。
「……まあ、楽しかった」
「うん」
ミラが微かに笑った。体育祭の青空の下で。
第三種目。騎馬戦。
男女混合。四人一組。上に乗る人間と、三人の騎馬。
チーム編成。
上:岐堂選。
前:真壁律。
左:黒瀬美琴。
右:モブ男子(田中)。
「……この編成おかしくないか」
「何が」
「前が律で左が黒瀬って——戦力過多だろ」
「効率的だ」
「抽選のはずなのになんでこうなった」
「くじ引いたらこうなった」
黒瀬が拳を鳴らした。
「選を落としたら殴る」
田中の顔が真っ青になった。
「ぼ、僕落としませんから……」
「落とさなくても殴りたくなるかも」
「理不尽!!」
律が前に立った。無表情。
「効率的に守る。——敵が近づいたら排除する」
「排除って穏やかじゃないな」
「穏やかに排除する」
「穏やかな排除って何だよ」
笛が鳴った。騎馬戦開始。
——三十秒で戦場が片付いた。
黒瀬が左から突進して、敵の騎馬を力づくで崩した。質量補正なしの純粋な力で。三チーム壊滅。
律が前方から近づく敵を最小限の動きでいなした。敵の上の人間の帽子を、すれ違いざまに抜き取った。一チーム。
右から来た敵は田中が——田中は何もしていない。震えていただけ。敵が黒瀬の姿を見て自分から逃げた。
「俺何もしてない……」
【使用者の戦闘貢献度:0%】
「言うな」
「選は上にいればいい。——それが役割だ」
律が短く言った。優しいのか厳しいのか分からない。
優勝。圧勝。
「やったー! 楽しかった!」
「楽しかったですか……僕は怖かったです……」
田中が泣きそうだ。黒瀬に肩を叩かれて「いい騎馬だったよ」と言われて、さらに泣きそうになった。
第五種目。借り物競走。
選の出番。スタートラインに立つ。封筒を持って走る。途中で封筒を開けて、中に書かれた「もの」を借りてゴールする。
笛が鳴った。走る。
封筒を開ける。中の紙を見る。
——好きな人。
「嘘だろ」
足が止まった。グラウンドの真ん中で。
好きな人。好きな人を連れてゴールしろ。
——周囲を見る。
左から——ミラが走ってきた。観客席から飛び出してきた。体操服のまま。無表情だが、足が速い。
「選。——借り物」
「なんで中身知ってるんだよ!?」
「AXIOMのログが見える」
「見るな!!」
右から——明日香が手を挙げた。応援席から。
「岐堂くーん! 何借りるのー?」
声が届いている。紙の中身は見えていないはず。でも、手を挙げている。
後ろから——黒瀬が走ってきた。騎馬戦の余韻で走っている。
「選ー! 私私! 何か分かんないけど私!」
「何か分かんないのに来るな!!」
——観客席。
神崎玲奈が立ち上がりかけた。双眼鏡を下ろして。
——座り直した。双眼鏡を構え直した。
「慌てませんよ。私は。——ただ、誰を選ぶのか、データとして興味がありますので」
声は届かないはずだが、読唇術で分かった。AXIOMが親切にも翻訳してくれた。親切じゃない。余計なお世話だ。
四方向から。ミラが左。明日香が右。黒瀬が後ろ。神崎が——座ったまま圧をかけている。
「……誰を選んでも死ぬ気がする」
【全対象が接近中。最適選択を計算中——】
「頼む、計算してくれ」
【計算不能】
「計算不能!?」
【どの選択肢を選んでも使用者の生存率が低下します。全ルートが危険です】
「全ルート危険って何だよ! 借り物競走だぞ!?」
ミラが近づいてくる。あと十メートル。明日香が応援席のフェンスを越えようとしている。黒瀬がもう五メートル。
——AXIOMが震えた。
文字通り、震えた。表示がバグった。数値が乱れた。心拍数の表示が「???」になった。
【——エラー。感情パラメータの競合により処理が——】
足がもつれた。
AXIOMの制御が一瞬乱れた。身体補助が途切れた。
転んだ。
グラウンドの砂の上に。盛大に。顔から。
「——っ!!」
砂まみれ。体操服が砂だらけ。
——失格のブザーが鳴った。時間切れ。
仰向けになった。空が青い。雲がない。五月の空。
「……仕方ない」
四人が周りに集まっていた。
ミラが手を差し出した。
「……残念」
明日香が砂を払ってくれた。
「あはは、仕方ないね。大丈夫?」
黒瀬が肩を叩いた。
「えー、つまんなーい。——でも転び方面白かった」
「面白くない!」
——遠く。観客席。
神崎が双眼鏡を下ろした。
「……誰も選べなかった、と。データに追加しておきます」
AXIOMが翻訳した。翻訳しなくていい。
——微かに、ほっとした顔をしている。ような気がする。双眼鏡の向こうだから確証はないが。
【借り物競走結果:失格。原因:感情パラメータの競合による制御エラー】
「お前のせいだろ」
【申し訳ありません。——しかし、使用者が誰かを選んだ場合の予測損害が——】
「予測すんな」
【了解。——記録しました】
「記録もすんな!」




