第2話「桜の入学式」
——話を、数時間前に戻す。
四月の朝。午前七時半。
鏡の前に立つ。真新しい制服。ボタンが光ってる。靴も新品。つま先がまだ痛い。
「入学式だ。高校生だ。青春だ」
独り言が多いのは一人暮らしの弊害だ。話し相手がいないと人間は壁に向かって喋り始める。進化として正しいのかは分からない。
「友達できるかな。彼女できるかな」
鏡の中の自分を見る。特に取り柄のない顔。スポーツは平均。勉強も平均。身長も平均。偏差値50を擬人化したらたぶんこんな顔になる。
「……無理だな」
まあいいか。
「生きてるだけで偉い」
これが俺の処世訓である。ハードルは低ければ低いほど日常が輝く。今日も生きてる。偉い。靴紐も結べた。天才かもしれない。
家を出る。
四月の大阪。空が高い。桜が咲いている。
通学路は知らない道だ。三月に引っ越してきたばかりで、この街のことはまだよく分かっていない。スマホの地図を頼りに歩く。電車を一本乗って、駅から徒歩十二分。Googleマップは嘘をつかない。たぶん。
校門が見えた。
桜並木。ベタだけど綺麗だ。花びらが風に舞って、新入生の肩に降りている。絵に描いたような入学式の光景。
——なのに。
何かが、引っかかった。
足音が揃いすぎている。
最初は気のせいだと思った。校門から体育館に向かう新入生の列。全員が同じテンポで歩いている。左足、右足、左足、右足。振り子みたいに正確なリズム。
(揃ってるな……)
行進でもしてるのか。いや、みんな普通にスマホいじったり友達と喋ったりしてる。意識して揃えてる感じじゃない。なのに足音だけが、異様に均一だ。
(……軍隊? ここ軍隊なの?)
考えすぎか。入学式の緊張で神経質になってるだけだ。きっとそう。
体育館に入る。パイプ椅子が並んでいる。座る。式が始まる。
校長のあいさつ。来賓の祝辞。校歌斉唱。
拍手。
——拍手が、揃いすぎている。
パチパチパチパチ。全員が同じタイミングで手を打っている。オーケストラの演奏みたいに正確だ。誰一人ズレない。何百人もの人間が、寸分の狂いもなく同じリズムで拍手している。
(これ、おかしくないか……?)
隣に座っている男子を見る。普通に拍手してる。何も感じてない顔。向こうの女子も。その隣も。誰も気にしていない。
——来賓の一人に目が行った。
壇上の端に立っている中年の男性。スーツを着て、姿勢よく立っている。
その人の右腕が、消えた。
肩から先が、まるで画像データが壊れたみたいにノイズに変わって——一瞬で消失した。切断面から血が滴る。赤い雫がスーツの袖口から床に落ちる。
俺は息を呑んだ。
誰も反応しない。
隣の男子はスマホをいじってる。前の女子は欠伸を噛み殺してる。来賓たちは穏やかに微笑んでいる。腕が消えた男性自身すら、表情一つ変えていない。
——三秒後。
腕が戻った。
ノイズが逆再生するように収束して、何事もなかったかのように右腕がそこにあった。血の跡もない。スーツも汚れていない。床も綺麗。
(…………)
(俺だけ見えてる……?)
心臓がうるさい。周りを見回す。誰も動揺していない。咳一つしない。
(見えてるけど見なかったことにしていいですか……?)
いいに決まってる。見なかったことにする。俺は今日から高校生だ。青春を謳歌するのだ。腕が消える来賓のことなど知らない。知らない。知りたくない。
式が終わった。
体育館を出る。深呼吸。
桜が散っている。足元に花びらが積もっている。綺麗。綺麗だ。それだけでいい。
——忘れろ。
教室に移動する。クラス分けはすでに掲示されていた。一年三組。窓際の後ろから三番目。漫画の主人公みたいな席だ。リアリティがない。
席に座る。周囲を見渡す。知ってる顔は一人もいない。当たり前だ。この街に来てまだ一ヶ月。中学の友達は全員、別の高校に行った。
(ゼロからか……まあいいか)
担任が入ってくる。出席確認。自己紹介。一人ずつ名前と中学と趣味を言う。「趣味はゲームです」が八人いた。類は友を呼ぶ。
俺の番が来る。
「岐堂選です。趣味はゲームと——」
九人目。
「——散歩です」
我ながら地味だ。しかし嘘はついていない。引っ越してきたばかりの街を歩き回るのは実際楽しかった。知らない路地に入り込んで、知らない自販機を見つけて、知らない猫と目が合う。それだけで一日が豊かになる。安上がりな人間でよかった。
自己紹介が一巡して、ようやく緊張が解ける。
担任が席順を発表する。
隣の席。
「隣の席だね。時任明日香です。よろしくね」
声が聞こえて、右を向いた。
——息が、止まった。
長い黒髪。セミロングより少し長いくらいの、手入れの行き届いた真っ直ぐな髪。肌が白い。目元が涼しい。鼻筋が通っている。唇の形が綺麗だ。
上品。それが最初に浮かんだ言葉だった。
派手じゃない。ケバくもない。ただ整っている。骨格から丁寧に作られたような、そういう綺麗さ。制服の着こなしも隙がない。背筋がまっすぐで、座っているだけで空気が違う。
クラスで一番きれい、と思った。教室を見回さなくても分かる。比較する必要がない。
「き、岐堂選です……」
声が裏返った。
「よろしくね、岐堂くん」
笑顔。眩しい。太陽か。太陽なのか。四月の日差しより眩しい笑顔が隣の席に座っている。意味が分からない。席順を決めたのは誰だ。表彰したい。
「入学式、どうだった?」
「え、あ、普通に……良かったです」
「敬語じゃなくていいよ」
「あ、うん。良かった」
会話が下手すぎる。もう少し何か気の利いたことが言えないのか。「桜が綺麗だったね」とか「校歌が意外と良い曲だったね」とか。
——いや、腕が消える来賓のことは言えない。あれだけは言えない。
「私もね、この学校初めてなの。知り合い誰もいなくて」
「俺も。引っ越してきたばかりで」
「そうなんだ。じゃあ一緒だね」
一緒、と言われただけで心拍数が上がる。チョロい。自覚はある。
「何か困ったら聞いてね。私も困ったら聞くから」
「……ありがとう」
笑顔。また笑顔。笑うたびに空気が柔らかくなるタイプの人間。こういう人が世の中にいるのか。
(綺麗すぎる。なんで隣の席なんだ。神か。神の采配か)
いや落ち着け。まだ入学初日だ。隣の席の美少女に浮かれて残りの高校三年間を棒に振るな。友達作りが先だ。彼女は後だ。順番を守れ。
——でも。
明日香が鞄からペンケースを取り出すとき、指先が綺麗だった。爪が短く整えられていて、マニキュアは塗っていない。飾らないのに綺麗な手。
(ペンケースの取り出し方で感動してる俺、大丈夫か?)
大丈夫じゃない気がする。高校生活、初日から波乱の予感しかない。
——もっとも。
波乱の種類が、想像とはまるで違ったわけだが。
それはまだ、数時間後の話。
放課後。
初日は午前で終わりだった。教室を出る。下駄箱で靴を履き替える。校門を抜ける。
桜並木。朝より花びらが増えている。風が吹くたびに、薄桃色の雪が降るみたいに散っている。
スマホで帰り道を確認する。来た道を逆に辿ればいいだけだが、せっかくだから少し遠回りしようか。散歩が趣味の人間にとって、知らない街は宝箱みたいなものだ。
——視線を感じた。
理由は分からない。根拠もない。ただ、首の後ろがぞわっとした。動物的な直感。
振り向く。
桜並木の奥。木の幹に半分隠れるように——少女が立っていた。
黒い髪。白い肌。制服じゃない服。この学校の生徒ではない。
目が合った。
無表情。無表情というか——感情のレイヤーが一枚足りないような顔。悲しくもなく、嬉しくもなく、怒ってもいない。ただそこに立っている。桜の花びらが肩に落ちているのに、払おうともしない。
年齢が分からない。同い年かもしれないし、年上かもしれない。どちらにも見える。
何かを言おうとした。「誰?」とか「この学校の人?」とか。
少女が——消えた。
瞬きの間だった。目を閉じて開けた、その零コンマ数秒の間に、桜の幹の横には誰もいなくなっていた。花びらだけが風に舞っている。
「消えた!?」
声が出た。周囲を見回す。どこにもいない。
「幻覚!? 入学初日から幻覚見えるのヤバくない!?」
独り言が叫びに変わる。近くを歩いていた別の新入生がぎょっとした顔でこちらを見た。すみません何でもないです。
——何でもない。何でもないはずだ。
入学式の来賓の腕が消えたのと、今のは関係ない。関係あってたまるか。俺は普通の高校生だ。今日から普通の高校生活を始めるのだ。隣の席にはクラスで一番きれいな女の子がいて、散歩が趣味で、生きてるだけで偉い。それだけで十分だ。
足早に歩き出す。
帰ろう。家に帰って、ゲームして、飯食って、寝よう。明日も学校だ。明日こそ明日香ともう少しまともな会話をする。今日の反省点はいくつかある。「良かった」を二回言った。語彙力が死んでいる。改善の余地しかない。
駅が見えてきた。
空を見上げた——のは、ただの癖だった。
空に、何かがいた。
黒い点。最初は鳥だと思った。四月の空に鳥が飛んでいる。普通の光景。
——鳥は光線を撃たない。
閃光。
目の前、三メートル先のアスファルトが弾けた。
コンクリートの破片が飛ぶ。熱波が顔を叩く。地面に直径二十センチほどの穴が開いている。縁が赤く焼けている。
「——は?」
もう一発。今度は右側。ガードレールが溶断された。金属が飴みたいにひしゃげる。
空を見る。黒い点が二つに増えている。三つ。四つ。
音がしない。プロペラの音も、エンジンの音もしない。ただ浮かんでいる。
そして、こっちを向いている。
足が動いた。考えるより先に。
「逃げた方がいい気がする——いや確実に逃げろ俺!!」
走る。
全力で走る。
背後で光線がアスファルトを抉る音が続く。周囲の通行人は——反応していない。光線が足元を焼いているのに、誰一人走らない。振り返らない。スマホを見ながら歩いている。
俺だけが見えている。
俺だけが撃たれている。
俺だけが、走っている。
——入学二日目は、まだ始まってもいなかった。




