第17話「消耗戦と間接キス」
五月に入った。
ゴールデンウイークなど存在しなかった。連休の三日間で撃墜したドローンは合計二十二機。追跡型が三体。索敵蟲が一度。中型が一機。休みの日ほど敵が来る。未来の兵器に祝日の概念はない。
——そして連休が明けた今日。
「毎日殴られる人生、先が見えない……」
机に突っ伏す。一限目が始まる前。体中が痛い。昨晩も深夜二時にドローン四機を迎撃した。睡眠時間は四時間。目の下の隈がそろそろ常設になりつつある。
「岐堂くん、大丈夫? また顔色悪いよ」
明日香が覗き込んでくる。心配そうな顔。
「大丈夫。ちょっと寝不足で」
「最近ずっとそうだよね……何かあるの?」
「……バイトが忙しくて」
「バイト? 一年生なのに?」
「うん。まあ、色々」
嘘だ。バイトなんかしていない。ドローンを殴るバイトがあったら時給を請求したいくらいだが。
「あんまり無理しないでね」
「ありがと」
明日香の声は温かい。嘘をつく自分が申し訳ない。
——窓の外に、黒い点が見えた。
一つ。細長い。虫みたいな——違う。機体だ。
【追跡型ユニット検知。機種:ストーカー級。ロック対象:あなた。振り切り推奨——困難】
(困難って何だよ。振り切れないなら推奨すんな)
教室の窓から見える。校舎の外、校庭のフェンスの向こうに。細長い機体。多脚。壁に張り付いている。光る単眼がこちらを見ている。——俺を見ている。
明日香が窓の外を見た。
「岐堂くん、なんか変な虫? がいるよ。フェンスのところ」
「見るな! 窓閉めて!」
「え、なんで——」
「いいから!」
明日香がびくっとした。言い方がきつかった。反省する。
「……ごめん。虫が苦手で」
「あ、そうなんだ。ごめんね、言い方悪くて——」
「いや俺が悪い。ごめん」
謝り合い。明日香は優しいから、こっちが声を荒げても怒らない。それが余計に申し訳ない。
【追跡型ユニット、移動開始。校舎に接近中】
(昼休みまで待て。授業中に出られない)
昼休み。
弁当を「忘れ物した」と言って教室を出た。階段を駆け下りる。昇降口を出る。校舎裏。
ミラが先に待っていた。銃を手にしている。
「来てる。北校舎の壁面。三体」
「三体!? さっき一体しか見えなかったぞ」
「増えた。追跡型は分裂する」
「分裂すんの!?」
「正確には合流。別の個体が寄ってきた」
校舎の北壁。見上げる。——いた。三体。壁面に張り付いている。多脚が壁を掴んでいる。細長い胴体。単眼が赤く光っている。
こっちを見た。
認識フィールドが展開される。空気が変わる。昼休みの校庭の喧騒が遠くなる。
「追跡型は一度ロックすると止まらない。殴っても次が来る」
「じゃあどうすんの」
「ロック対象を変える。——私に付け替える」
「ミラに?」
「私が囮になる。追いかけさせる。その間に背後から関節部を壊して」
「待って、ミラが囮って——危なく——」
「私は大丈夫。あなたより速い」
反論の余地がなかった。事実、ミラは俺より速い。
ミラが走った。三体の前に飛び出す。銃を一発撃つ。命中はしない。——わざと外した。注意を引くために。
三体がミラを追って壁面から飛び降りた。地面を走る。多脚が地面を削る。速い。ミラの後を追う。校舎裏の通路を走る。
俺は壁際に隠れる。ミラが三体を引き連れて通り過ぎるのを待つ。
一体目が通過した。——今だ。
背後から飛び出す。関節部——多脚の付け根。AXIOMが補助する。右手のエネルギーを集中して、関節を殴る。
砕けた。一体目が崩れ落ちる。多脚がばらばらになって停止する。
「しつこい! ストーカーかよ!」
二体目が振り返った。俺にロックし直した。突進してくる。
左手——シールド。二体目の突進を弾く。先週覚えた両手運用が役に立った。シールドで受けて、右手で関節を殴る。
二体目、停止。
三体目はミラが処理していた。銃の精密射撃。多脚の付け根を一本ずつ撃ち抜いて、動けなくしてから胴体を撃つ。冷静。効率的。
全機停止。
認識フィールドが解除される。校舎裏に日常が戻る。昼休みの校庭の声が聞こえてくる。サッカーをしている声。笑い声。
「……倒した」
「倒した。でも——学校の近くに来られたのは危険」
「うん」
「明日香さんに見られたかも」
「……窓から見てた。虫だと思ってると思う」
「言い訳、考えて」
「いつも俺が考えてるんだが!?」
「私は言い訳が下手だから」
「自覚あるなら練習しろよ」
「……嘘をつくのは苦手」
嘘をつくのが苦手。ミラは嘘をつかない。つけない。だから俺が嘘をつく。明日香に。クラスメイトに。先生に。世界に。
——それが少しだけ、重くなってきている。
五限目。
暑い。五月の陽射しが窓から差し込んでいる。エアコンはまだ入らない。教室の気温が上がっている。
水筒を忘れた。
昼休みに校舎裏で戦闘して、そのまま教室に戻って、弁当を食べる時間もなくて——水筒のことを完全に忘れていた。朝、台所のテーブルに置いたまま。
喉が渇く。戦闘の疲労もある。汗をかいた。水分が欲しい。
「岐堂くん」
小声。明日香だ。
「水筒忘れた?」
「……うん」
「私の飲む?」
明日香が自分の水筒を差し出した。ピンク色の水筒。蓋がコップになるタイプではなく、直飲みタイプ。
「え、いいの?」
「うん。はい」
受け取る。蓋を開ける。飲む。麦茶。冷たい。美味い。乾いた喉に沁みる。
「……美味い。助かった、ありがと」
「ううん」
明日香が微笑んだ。——微笑んだ後、急に顔が赤くなった。
「……あ」
「どうした?」
「それ……私が飲んだやつ」
「え」
「直飲みだから……その、口つけたところ、同じ……」
「…………」
「……間接キス、だね」
間接キス。
言われて初めて気づいた。直飲みの水筒。明日香が口をつけた場所。俺が口をつけた。同じ場所。
意識した瞬間、顔が熱くなった。
「い、いや、気にしなくて——」
「う、うん、気にしないけど——」
気にしてる。二人とも気にしてる。明日香の顔が真っ赤だ。俺の顔もたぶん同じ色だ。
「……返すね」
「う、うん」
水筒を返す。指先が触れた。明日香がびくっとした。水筒を受け取って、蓋を閉めて、膝の上に乗せて——そのまま、水筒を両手で抱えて俯いた。
耳が赤い。首まで赤い。
【間接的口唇接触を検知。記録——】
(記録するな黙れ消えろ)
【了解。……記録しました】
(聞いてなかった!!)
前を向く。先生の声が遠い。板書が目に入らない。さっきの戦闘より心拍数が高い気がする。
——斜め後ろから、視線を感じた。
ミラだ。見てた。見てなくても、AXIOMのログで全部分かっている。
次の休み時間が怖い。
放課後。
校門を出たところで、ミラが隣に並んだ。
しばらく無言で歩いた。いつもの帰り道。商店街を抜けて、住宅街に入る。
ミラが口を開いた。
「水筒、共有してた」
「……見てたの?」
「見てない」
「嘘だろ」
「見てない。AXIOMのログで知った」
「お前、ログで知るのと見てるのは実質同じだからな!?」
「違う。見てない」
「技術的には違うかもしれないけど精神的には——」
「間接キス」
「——っ」
「明日香さんと。間接キス」
「あれは偶然——水筒忘れて——喉渇いて——」
「偶然」
「偶然!」
「…………」
ミラが鞄から水筒を出した。
銀色の水筒。ミラがいつも持ち歩いているやつ。
「……これも飲んで」
「え?」
「飲んで」
「なんで」
「……飲んで」
三回目。ミラの「飲んで」は命令だ。断る選択肢がない。
「……仕方ないな」
受け取る。蓋を開ける。飲む。水。冷たい。ミラの水筒はいつも水だ。シンプル。
返す。ミラが受け取る。
——ミラが、同じ場所から飲んだ。
堂々と。俺が口をつけた場所に、自分の唇を当てて。飲んだ。
目を閉じている。一口。二口。ゆっくり。
「……ミラ」
「これで同じ」
「同じって……」
「間接キス。同じ」
「自覚的にやるな!!」
「自覚的にやったらダメ?」
「ダメとは言わないけど——明日香のは偶然で——」
「偶然より意図的の方がいい」
「何の理論だよ!!」
ミラが水筒をしまった。表情は変わらない。無表情。いつも通り。
——でも、唇が微かに動いた。笑みとは言えない。でも、何かの感情が唇の端にあった。
「……選の味がした」
「味って——麦茶の味だろ。さっきの残りの」
「違う。選の味」
「人間に味はない!」
「ある」
「ない!」
「……ある」
三回目の「ある」。ミラが確信を持って言うとき、俺に反論の余地はない。
【間接的口唇接触:本日二件目。記録——】
「二件目ってカウントすんな!!」
【パートナー候補との間接接触回数は重要な——】
「重要じゃない!!」
夕方。
帰り道。住宅街を抜けて、河川敷沿いの道を歩く。
空が赤い。五月の日は長い。まだ明るい。でも空の端が紫に変わり始めている。
「……疲れた」
「うん」
「毎日こうだな」
「うん」
「ドローンと追跡型と索敵蟲と。いつまで続くんだろ」
「……分からない。でも、続く」
「正直だな」
「嘘はつかない」
河川敷。先週、両手運用の訓練をした場所。ベンチがある。二人で座った。
空を見上げる。夕焼けが薄れて、東の空に星が見え始めている。
「綺麗だな」
「綺麗」
ミラも空を見ている。夕暮れの光がミラの横顔を照らしている。白い肌が橙色に染まっている。黒い髪が風に揺れている。
——綺麗だ。空じゃなくて。
言わない。学習した。
「……選」
「ん」
「約束、覚えてる?」
「約束?」
「……前に言った。困ったら呼んでって」
覚えている。同居が始まった朝。ミラが言った。「困ったら呼んで。いつでも行く」。
「覚えてる」
「……いつでも。本当にいつでも」
「うん」
「夜中でも。戦闘中でも。——一人で辛くなった時でも」
「……ミラ」
「約束。忘れないで」
ミラが俺を見ている。夕暮れの光の中で。無表情——ではない。無表情の奥に何かがある。心配。不安。それとも——もっと別の何か。
「忘れない。約束する」
「……うん」
ミラが少しだけ笑った。——笑った、と思う。唇の端が動いた。それだけ。でもそれだけで十分だ。
月が出ていた。東の空。細い三日月。
「月も綺麗だな」
「……うん」
二人でベンチに座って、月を見た。
戦闘も、間接キスも、追跡型ユニットも——全部、どうでもよくなる時間。
五月の夕暮れ。河川敷。隣にミラ。
これでいい。今は、これでいい。




