第16話「黒瀬美琴の友達申請」
火曜日。二限目と三限目の間の休み時間。
教室のドアが開いた。担任が入ってきた。後ろに誰かいる。
「転入生の紹介です。——黒瀬さん、どうぞ」
教壇に立った女。
——見覚えがある。
すごくある。
先週、商店街で殴り合った女だ。質量補正パンチで俺のわき腹を抉った女だ。格闘スーツで組み付いてきた女だ。
「黒瀬美琴です。よろしくー」
軽い。声が軽い。手を振っている。にこにこ笑っている。先週俺を半殺しにした人間とは思えない明るさ。教室がざわつく。可愛いからだ。顔が良くてスタイルが良くて笑顔が明るい。好戦的で距離感がバグっていることはまだ誰も知らない。
黒瀬が教室を見渡した。
——目が合った。
にっこり笑った。
「あ、いた。殴り合いの人」
教室中の視線がこっちに集まった。
「その紹介やめて!!」
「え、なんで? 殴り合ったじゃん」
「殴り合ったけど! それ学校で言うやつじゃないから!!」
担任が困惑している。クラスメイトがざわざわしている。「殴り合い?」「え、岐堂くんと?」「喧嘩?」——違う。違うんだ。事情が複雑すぎて一言では説明できないし、仮に説明しても誰も信じない。
「黒瀬さん、席はあそこ。岐堂の二つ後ろ」
「はーい」
黒瀬が歩いてくる。俺の横を通り過ぎるとき——肩をポンと叩いた。
「またよろしくね」
「よろしくない」
「照れなくていいのに」
「照れてない」
黒瀬が席に着く。二つ後ろ。近い。ミラの斜め後ろの席だ。
ミラが微かに振り返った。黒瀬を見ている。無表情。——だが、目が冷たい。先週商店街でこの二人が対峙した時と同じ目。
黒瀬はにこにこしている。ミラの目に気づいているのかいないのか。たぶん気づいていて気にしていない。この人はそういう人だ。
三限目が終わった瞬間、後ろから手が伸びてきた。
肩に手を置かれる。重い。——黒瀬だ。
「ねー」
「近い」
「昼休み殴り合おうよ」
「学校で殴り合わない」
「じゃあ放課後」
「放課後も殴り合わない」
「えー、つまんないの」
黒瀬が選の机に腰をかけた。太ももが机の端に。近い。距離感がない。この人の対人距離はゼロかマイナスしかない。
「ボディタッチ多くない?」
「普通だよ?」
「普通じゃないから」
「えー、こっちの学校の人って距離遠くない? もっとこう——」
黒瀬が腕を組んできた。右腕に。ミラと同じことをするが、圧が全然違う。ミラは「しがみつく」だが、黒瀬は「組みつく」だ。格闘の構えの延長にある。
「おい」
「何?」
「腕組むな」
「やだ」
「やだって——」
「あのさ、殴り合った仲じゃん。友達でしょ」
「殴り合い=友達の等式がおかしい!!」
周囲のクラスメイトがこちらを見ている。転入初日で男子の腕に組みつく女子。社交的と言えば聞こえはいいが、実態は格闘家の距離感だ。
明日香がこちらを見ている。困惑した顔。
「岐堂くん……お友達?」
「友達じゃ——」
「友達! 殴り合いの友達!」
「だからその言い方やめろ!!」
明日香が「あはは……」と曖昧に笑った。笑ったが目が泳いでいる。一週間前にミラが転入してきたばかりなのに、もう一人増えた。明日香の中で何かが計算されている気がする。
ミラが立ち上がった。
教室の通路を歩いてくる。黒瀬の前に立った。
「離れて」
「えー、なんで?」
「選の腕。放して」
「選って呼んでるんだ。仲良いね」
「……放して」
「私が先に組んだよ?」
「私が先に出会った」
「先とか関係ある?」
「ある」
空気が冷えた。教室内の気温が二度下がった気がする。ミラの冷気。先週の商店街の再現。
二人の間に挟まれている。右腕に黒瀬。左側にミラ。物理的に逃げ場がない。
「二人とも落ち着いて——」
「落ち着いてる」「落ち着いてるよ?」
同時に言った。二人とも落ち着いてない。ミラの目が冷たいし、黒瀬の笑顔が戦闘的だ。
【周囲の緊張指数が上昇。教室内の安全を確認中——問題ありません。ただし使用者の心拍数は問題があります】
(俺の心臓だけが危険なのかよ)
昼休み。
修羅場が勃発した。
ミラが選の手を引っ張った。
「選。屋上」
明日香が声をかけてきた。
「岐堂くん、一緒にお昼食べよう」
黒瀬が肩に手を置いた。
「あ、私も行くー」
三方向。同時。
俺の選択肢は——ない。全員が同じ方向に向かっているからだ。結果として四人で屋上に向かうことになった。
屋上。フェンスの前。風が吹いている。五月が近い。空は青い。平和な昼休み。
——平和なのは天気だけだ。
弁当を広げる。俺。ミラ。明日香。黒瀬。四人。
ミラの弁当は今朝作ったやつ。卵焼き、鮭の塩焼き、ほうれん草のおひたし。和食。完璧。
明日香の弁当は母親の手作り。彩り豊か。ハンバーグ、ブロッコリー、ミニトマト。可愛い。
黒瀬の弁当は——コンビニのおにぎり三個と唐揚げ棒。
「黒瀬、弁当それ?」
「コンビニ最強じゃん」
「料理はしないの?」
「殴り合いの方が楽しいからね」
「比較対象がおかしい」
食べ始める。平穏に食べたい。頼むから平穏に食べさせてくれ。
——箸が伸びてきた。
黒瀬の箸。唐揚げ棒を掴んでいる。俺の口の前に。
「はい、あーん」
「しない」
「えー、美味しいよ?」
「美味しいかどうかの問題じゃない」
「じゃあ何の問題?」
「……色々ある!」
「色々って何?」
「あーんは——そういうのは——恋人とかがやるやつで——」
「友達でもやるよ?」
「やらない!!」
横から——何かが口に押し込まれた。
「むぐっ——!?」
ミラだった。自分の弁当の卵焼きを、箸で、選の口に押し込んだ。無言で。
口の中に卵焼きがある。甘い。今朝のやつ。
「……ミラ?」
「あーんは嫌なんでしょ。だから聞かずに入れた」
「それはもっと悪い!! 同意なしの給餌!!」
「美味しい?」
「美味しいけど! そういう問題じゃ——」
「美味しいならいい」
論理が破綻している。この人の「美味しいならいい」は万能の免罪符じゃない。
「え、えっと……」
明日香が弁当の蓋を持ち上げた。卵焼きを箸で取った。
「私の卵焼きも……食べる?」
声が小さい。顔が赤い。でも差し出してくれている。
「あ、ありがと——」
受け取ろうとした瞬間、ミラが自分の卵焼きをもう一つ押し込んできた。
「むぐっ——!?」
「私の卵焼きの方が先」
「先とか関係ないだろ!!」
黒瀬が唐揚げ棒を口元に突き出す。
「ねえ、唐揚げは?」
三方向からの食料攻撃。口が追いつかない。
【栄養摂取量が許容値を超過しています。消化器系に負荷が——】
「助けて」
【使用者の要請を承りました。しかし食料攻撃への対処法は私のデータベースにありません】
「役に立たねえ!!」
昼休みの残り。
どうにか食事を終えた。胃が重い。卵焼き二つ、唐揚げ棒一本、おにぎり半分(黒瀬が「半分こ」と言って強引に)、明日香のミニトマト三個(「岐堂くん、野菜も食べないと」)。通常の1.5倍の量を食べた。
ミラと黒瀬が向かい合っている。弁当を食べ終わって、二人の間に妙な空気が流れている。
「ねえ、ミラちゃんだっけ」
「ミラ」
「選のこと、好きなの?」
ストレート。ド直球。空気を読まない質問。黒瀬らしい。
ミラが一瞬黙った。
「……護衛対象」
「護衛ね。ふーん」
「それだけ」
「それだけには見えないけどなー」
「……それだけ」
「じゃあ私が友達になっても問題ないね?」
「…………」
沈黙。風が吹く。ミラの髪が揺れる。
「……問題ない」
「やった。じゃあ友達ね」
「友達ではない」
「え、さっき問題ないって——」
「選と友達になるのは問題ない。私と友達になるとは言ってない」
「あはは、面白いね。好き」
「嫌い」
会話が噛み合っていない。黒瀬は気にしていない。ミラは不機嫌だが、否定しきれていない。
明日香が俺の横で小さく笑った。
「岐堂くんの周り、大変そうだね」
「……自覚はある」
「でも、楽しそう」
「楽しい……か?」
「うん。みんな、岐堂くんのこと好きなんだなって」
明日香が笑う。穏やかな笑顔。
——でも、その目の奥に何かがある。気のせいかもしれない。気のせいであってほしい。
【使用者の周囲に存在する好意ベクトル数:現在4。うち恋愛的好意:分析中——】
(分析すんな)
【了解】
AXIOMが黙った。空気を読む頻度が確実に上がっている。
放課後。
黒瀬が腕を組んできた。
「ねえ、帰り道殴り合わない?」
「殴り合わない」
「じゃあ歩くだけ?」
「歩くだけでいい」
「つまんないなー」
つまんないと言いながら腕を離さない。黒瀬の距離感はゼロだ。組みつく。くっつく。触る。全部に悪意がない。悪意がないから始末に悪い。
校門の前。ミラが待っている。
俺の腕に黒瀬がくっついているのを見た瞬間——ミラの目が凍った。
「離れて」
「えー、なんで?」
「選の腕。私の」
「ミラちゃんの? えー、選の腕は選のでしょ」
「…………」
正論だった。ミラが一瞬言葉に詰まった。
「……私の方が先」
「先って何の話?」
「何でもいい。先」
ミラが反対側の腕を取った。右に黒瀬。左にミラ。両腕を塞がれた。
「あの、歩けないんだけど」
「歩ける」「歩けるよ?」
歩けない。物理的に。腕を振れない。
後ろから声がした。
「岐堂くん、また明日ね——」
明日香が友達と並んで歩いている。こちらを見ている。俺が両腕に女子を従えている絵面を見ている。
手を振ってくれた。笑顔。いつもの笑顔。
——でも、歩く速度がほんの少しだけ速くなった気がする。
「……仕方ない」
【仕方ない回数:今月47回目。過去最多ペースです】
「カウントすんなお前!!」




