第14話「判断官の定期検診」
昼休み。屋上。
弁当を広げようとした瞬間——声が降ってきた。
「定期検査に来ました」
給水タンクの上。神崎玲奈が座っていた。足をぶらぶらさせている。スカートの裾が風に揺れている。制服だ。うちの制服じゃない。見たことのないデザイン。だが似合っている。全てが似合う女は怖い。
「……定期検査」
「はい。前回の観察から二週間。経過を確認します」
「誰に頼まれたの」
「誰にも。判断官の業務です。——嫌ですか?」
「嫌です」
「嫌でもします」
「選択肢ないじゃん!」
神崎がタンクから飛び降りた。着地が静か。猫みたいだ。猫は可愛いが、この猫は人を喰う。
「ミラは?」
「ミラさんなら一階で明日香さんとお話ししてますよ。——偶然」
「偶然じゃないだろ。お前が仕組んだだろ」
「仕組んでません。偶然です。偶然って素敵ですね」
嘘だ。この人の「偶然」は全部計算だ。
「では、始めますね」
「何を」
「身体検査です。前回は初回だったので簡易でしたが、今回はもう少し丁寧に」
「丁寧にしなくていい」
「丁寧にしないと正確なデータが取れません。——まず腕を見せてください」
右腕を掴まれた。袖を捲り上げられる。神崎の指が肘の内側を辿る。
「AXIOM接続の影響で神経系に負荷がかかっているはずです。——ここ、痺れたりしませんか?」
「痺れてない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「嘘ですよ。肘の内側を触った時に0.3秒遅れて筋肉が反応しました。末梢神経に微小な遅延が出てます」
「……よく分かるな」
「判断官ですから」
指が肘から手首に降りる。脈を取っている。指先が冷たくも温かくもない。神崎の体温はいつも「分からない」。それが怖い。
「次。肩から背中を確認します。シャツを上げてください」
「……上げるの?」
「筋繊維の状態確認です。AXIOMが体を動かすとき、負荷が一番かかるのが背中と腰。——自分で上げますか? 私が上げますか?」
「自分で上げます!!」
シャツの裾を持ち上げる。背中を見せる。屋上で。昼休みに。高校生が。なんだこの絵面は。
指が触れた。
「——っ!」
「動かないで」
冷たくも温かくもない指が、背中を這う。肩甲骨の縁を辿る。背骨に沿って降りる。一つ一つの椎骨を確認するように、ゆっくりと。
「……動くと最初からやり直しますよ?」
「やり直すな」
「じゃあ我慢して。——上手に」
声が近い。後ろから。耳の横で話している。息がかかるくらいの距離。
指が背骨を降りていく。腰に近づく。筋肉の境目を押すように。
「筋肉のつき方は悪くない。前回より改善してます」
「褒められてる?」
「事実を言ってるだけです。褒めてませんよ?」
「いや今のは褒めてた」
「褒めてません。——ここ、痛いですか?」
わき腹を押された。
「痛っ——!」
「痛いんですね。覚えました」
「覚えなくていい! 弱点把握すんな!」
「判断官ですから。弱点は把握しないと」
にっこり笑う。最悪の笑顔。弱点を見つけた子供みたいな笑顔。
「もう一箇所。——首の後ろを見せてください」
「首?」
「AXIOMの神経接続点です。ここが一番重要」
髪をかき上げて首の後ろを見せる。神崎の指が項に触れる。
「…………」
近い。神崎の呼吸が首筋にかかる。産毛が逆立つ。
「接続は安定してますね。炎症もない。——ただ」
「ただ?」
「ここ——」
首の横に指が滑った。耳の下。顎のライン。
「——緊張で筋が張ってます。もう少しリラックスしてください」
「お前が触ってる状態でリラックスできるわけないだろ!!」
「あら。私のせいですか?」
「お前以外に原因がない!」
神崎が微笑んだ。笑顔が綺麗で、綺麗なのが腹立たしい。
「——ところで」
【神崎個体の心拍数が検査開始以降15%上昇。原因を分析中——】
AXIOMの表示が出た。
神崎の指が——一瞬だけ止まった。
本当に一瞬。0.5秒もなかったと思う。すぐに動きが再開される。すぐに笑顔が戻る。でも、止まった。確実に止まった。
「あら。AXIOMさん、余計なことを」
「見えてるよ。お前の心拍数」
「そうですか」
「15%上がってるってさ」
「検査には集中力が必要ですから。心拍数が上がるのは当然です」
「当然なんだ」
「当然です」
声は平然としている。笑顔も崩れない。完璧な制御。——でも指は止まった。AXIOMは嘘をつかない。神崎の心拍数は上がっていた。検査に集中しているからではない理由で。
「じゃあ——」
神崎が選の耳元に顔を寄せた。
唇が耳に触れそうな距離。囁く。
「あなたの心拍数の方が、ずっと高いですけどね?」
【使用者の心拍数:急上昇中】
「お前!! 余計なこと表示すんな!!」
神崎が満足そうに離れた。一歩。二歩。距離を取る。
指先で唇に触れる。考えるような仕草。——違う。笑いを堪えている。
「検査は以上です」
「なんで満足そうなんだよ」
「いいデータが取れたので」
「データって何の!」
「秘密です」
「秘密って——」
「判断官のデータは機密扱いです。——でも、一つだけ教えてあげましょうか」
「何」
神崎が振り返った。髪が風になびく。逆光。絵になる。この人は常に絵になるように動いている。
「あなたの弱点、三つ増えました」
「弱点三つ!? 何だよ!」
「わき腹。首の横。それと——」
指を立てる。三本目。
「——耳元で囁かれると、心拍数が47%上がること」
「それ弱点じゃなくて個人情報だろ!!」
「判断官的には弱点です」
にっこり。
「次回は二週間後に。もっと丁寧に検査しますね」
「丁寧にしなくていい!」
「楽しみにしててください」
「楽しみにしてるのはお前だろ!」
「さあ。どうでしょう」
神崎が階段を降りていく。足音が遠ざかる。
一人。屋上。昼休み。
シャツを直す。まだ背中に指の感触が残っている。首の横に。耳の下に。
「…………」
【検査データの記録を——】
「消せ」
【削除はできません】
「じゃあ封印しろ」
【封印機能はありません】
「お前も弱点だよ」
【それは弱点ではなく仕様です】
「仕様が一番タチ悪いんだよ!!」
——階段から足音。
ミラが上がってきた。弁当を持っている。
「遅くなった。明日香さんに——」
ミラが立ち止まった。
俺の顔を見ている。
「……顔、赤い」
「赤くない」
「赤い。——何かあった?」
「何もない」
「……嘘」
「嘘じゃ——」
「匂いがする」
「え?」
「知らない匂い。……選の背中から」
——神崎の手の匂い。ハンドクリーム事件の再来。今度は背中。
「検査——神崎が定期検査とか言って——」
「……触った?」
「触られた。検査で」
「どこ」
「背中と首と——」
「全部」
「全部じゃない! 背中と首と腕だけ——」
「全部じゃん」
「……全部かも」
ミラが弁当をテーブルに置いた。静かに。丁寧に。
そして——選の背中に手を当てた。冷たい手。
「……消毒」
「消毒?」
「神崎の匂いを消す。私の手で上書きする」
「上書きって——」
ミラの手が背中を撫でた。シャツの上から。神崎が触ったのと同じ場所を。肩甲骨。背骨。腰。
「ミラ」
「もう少し」
「……仕方ないな」
冷たい手が背中にある。神崎の「温度の分からない手」とは違う。はっきりと冷たい。はっきりと、ミラだと分かる手。
「……消毒、終わり」
「終わり?」
「終わり。——ご飯、食べよう」
何事もなかったかのように弁当を広げるミラ。
卵焼きが入っている。今日は少し甘め。
「……美味い」
「よかった」
屋上。昼休み。弁当。普通の光景。
——さっきまでの検査が嘘みたいに平和だ。
【本日の心拍数ピーク記録:神崎検査時>ミラ消毒時。ただし後者の方が持続時間が——】
「比較すんな!!」




