第13話「日常パートは命の洗濯」
月曜日。
ドローンが来ない。
朝起きて、ミラの朝食を食べて、学校に行って、一限目が終わった。来ない。二限目。来ない。三限目。来ない。
おかしい。
「何もない日を喜べる人間になりたい……」
喜べないのだ。毎日襲われ続けると、襲われない日が逆に不安になる。明日まとめて来るんじゃないかとか、もっと強いのが来るんじゃないかとか、余計なことを考えてしまう。
平和恐怖症。
存在しない病名だが、俺には確実に発症している。
「岐堂くん、今日は元気だね」
明日香が笑う。そりゃそうだ。昨晩は深夜のドローン迎撃がなかったから、八時間寝た。八時間。人生で一番贅沢な睡眠だった気がする。
「うん。ちゃんと寝た」
「よかった。最近ずっと顔色悪かったから心配してたんだよ」
「……ごめん」
「謝らなくていいよ。元気ならいいの」
明日香が嬉しそうに笑う。この笑顔を見るために八時間寝る価値がある。
——四限目。昼前。
窓際に何かが見えた。
黒い点。小さい。虫くらいの大きさ。窓ガラスの外側に——一つ、二つ、三つ。増えていく。
【生体反応多数。索敵蟲。個体数:推定40以上。脅威度:低——ただし不快指数:高】
「不快指数って何だよ。分かってるなら言うな」
手のひらサイズの虫。光る複眼。多脚。壁を這っている。ガラスの外側から教室に入ろうとしている。窓の隙間に——
「うわっ、気持ち悪い!!」
一匹が窓の隙間から入ってきた。床を走る。速い。ゴキブリの三倍速い。しかも光っている。光る虫。生理的に最悪の組み合わせ。
非観測者には見えない。クラスメイトは誰も反応していない。俺だけに見えている。俺だけがこの多脚の光る虫と戦わなければならない。
——轟音。
天井が吹き飛んだ。
正確には、天井板の一部が弾け飛んだ。教室の後ろの壁に穴が開いた。
ミラがショットガンを構えていた。斜め後ろの席から立ち上がって、天井に向けて撃った。天井板に張り付いていた索敵蟲が十匹くらいまとめて粉砕された。
「天井壊すな!」
「虫は嫌い」
「嫌いって理由で建物壊すな!」
「嫌い」
二回言った。ミラの「嫌い」は重い。この人、ドローン六機に囲まれても無表情だったのに、虫に対して「嫌い」を二回言った。感情の優先順位がおかしい。
世界が即座に修復を始める。天井が元に戻る。壁の穴が塞がる。クラスメイトは何も気づいていない。AXIOMの表示が薄れていく——まだ残っている。まだ虫がいる。
【残存:12。教室内侵入済み:3】
三匹。教室にいる。
一匹が床を走っている。机の脚を伝って——明日香の椅子の方に向かっている。
「明日香、動くな」
「え?」
明日香の髪に、一匹止まった。
黒い長髪の上に、光る多脚の虫。明日香には見えていない。見えていないから平気な顔をしている。でも俺には見えている。明日香の綺麗な髪の上に虫がいる。
——考えるより先に手が出た。
「じっとして——」
手を伸ばした。明日香の髪に触れる。虫を掴む。潰す。光が消える。
——手が、明日香の頬に触れていた。
虫を払う動作の延長で、指先が頬を掠めた。
明日香の目が大きくなった。
「あ……」
「……」
時間が止まった。
教室の中。授業中。先生は板書に集中している。周囲のクラスメイトは前を向いている。その中で、俺と明日香だけが——互いの顔を見ている。
俺の指が、明日香の頬に触れている。
柔らかい。
温かい。
明日香の肌は、ミラと正反対だ。温度がある。血が通っている温度。生きている温度。指先に伝わる体温が——
【心拍数——】
(今は黙れ)
AXIOMが黙った。最近、空気を読む頻度が上がっている。
「……ごめん。虫——いや、ゴミがついてて」
「あ……そ、そうなんだ」
明日香の頬が赤い。耳まで赤い。目が泳いでいる。
「あ、ありがと……岐堂くん」
「うん。ごめん、急に」
「ううん。びっくりした、だけ」
——斜め後ろから、視線。
振り返らなくても分かる。ミラが見ている。虫を全滅させた後のミラが、この光景を見ている。
振り返った。
ミラが無表情で——俺を見ていた。
何も言わない。何も言わないのが、一番怖い。
昼休み。
今日は三人で——と思ったら、ミラが「用事」と言って消えた。また用事。この人の用事の頻度が上がっている。本当に用事なのか、離席することで何かを表現しているのか、判断がつかない。
明日香と二人。教室。窓際。
さっきの頬の件で気まずいかと思ったが、明日香は何事もなかったように話しかけてくる。強い。この人は強い。
「岐堂くん、見て見て。新しいアプリ見つけたの」
スマホの画面を見せてくる。
「AIの画像認識がすごくて——あ、ごめん、興味ない?」
「いや、面白い。続けて」
「いいの!?」
目のスイッチが入った。前回の技術オタクモードと同じ変化。瞳が光る。声が半音上がる。身振りが増える。
「じゃあね、このアプリ、ニューラルネットワークの畳み込み層を使って画像の特徴量を——」
始まった。
専門用語が矢のように飛んでくる。畳み込み層。特徴量。プーリング。活性化関数。全部分からない。全部分からないのに、明日香が楽しそうに話しているのを聞いているだけで退屈しない。
「——で、このモデルの面白いところは、学習データに偏りがあっても汎化性能が落ちないように正則化を——あ」
ノートが落ちた。
明日香の膝から滑り落ちた。同時に手を伸ばす。二人同時に。
手が重なった。
ノートの上で、俺の手と明日香の手が重なっている。
「あ……」
「……」
また。今日二回目。
明日香の手が温かい。指が細い。爪が綺麗に整えられている。薄いピンク色。
顔が近い。ノートを拾おうとして前屈みになったから、顔の距離が——近い。
【心拍数が双方——】
(空気読め)
【了解】
明日香が手を引っ込めた。真っ赤。耳まで。首まで。
「ご、ごめんね」
「いや、俺こそ」
「……えへへ」
何がえへへなのか分からない。分からないが、明日香が笑っているので良しとする。
「ノート、はい」
「ありがと。……岐堂くんの手、温かいね」
「……ありがと」
温かい。前に「髪柔らかいね」と言われた時と同じ衝撃。手で褒められる人生が来るとは思わなかった。
「……続き聞いていい? ニューラルネットワークの」
「聞いてくれるの!? じゃあね——」
明日香が再起動した。技術オタクモードが復帰する。さっきの赤面はどこへ行ったのか、三秒で専門用語の海に戻った。切り替えが早い。
「——で、アテンション機構をマルチヘッドにすることで並列処理が——」
膝が触れた。明日香の膝と俺の膝。机を寄せて座っているから距離が近い。明日香は気づいていない。技術の話に夢中で、物理的な距離を意識していない。
無自覚。これが一番困る。自覚的にやるミラとは種類の違う破壊力がある。
放課後。
校門を出る。
——腕を組まれた。
右腕に、重さがかかった。しがみつくような——いや、しがみついている。
ミラだった。
「今日は私と帰る」
「腕——組んでるけど」
「組んでる」
「自覚あるんだ」
「ある」
自覚的。完全に自覚的。意図的。戦略的。
「……昼に見たろ」
「見てない」
「嘘」
「見てない。……AXIOMのログで知った」
「それ前も言ってたパターンだろ!」
「パターンじゃない。事実」
ミラの腕に力がこもる。俺の腕に密着している。体温が伝わる——冷たい。いつもの冷たさ。でも、しがみつく力は強い。
校門の向こうに、明日香がいた。
帰り支度をしている。鞄を持って、友達と話している。こちらを——見た。
俺とミラが腕を組んでいるのが、見えた。
明日香の表情が——一瞬だけ、止まった。
すぐに笑顔に戻る。手を振ってくれる。
「岐堂くん、また明日ね」
「お、おう。また明日」
明日香が友達と歩いていく。背中が小さくなる。
「……見せつけてた?」
「見せつけてない」
「嘘」
「……少しだけ」
少しだけ。ミラの「少しだけ」シリーズに新作が追加された。少しだけ見せつけた。語彙は少ないのに、バリエーションだけは増え続ける。
「ミラ」
「何」
「明日香が傷つくようなことは——」
「分かってる。……分かってるけど」
「けど?」
「……選に触る人が多い」
「触るって——」
「今日だけで二回。頬と手」
「あれは俺が——」
「分かってる。選のせいじゃない。でも——」
ミラが俺の腕を強く抱いた。
「——私も、触りたい」
声が小さかった。
ミラの声は普段平坦だ。感情の波が少ない。でも今のは——波があった。小さい波。さざ波くらいの。でも確かに、揺れていた。
「……触ってるじゃん。今」
「もっと」
「もっとって——」
「……ごめん。忘れて」
「忘れないけど」
「忘れて」
「忘れないって」
「…………」
ミラが黙った。腕は離さない。黙ったまま、歩く。
夕暮れの通学路。四月も終わりが近い。桜はほとんど散って、葉桜になりつつある。風が緑の匂いを運んでくる。
腕の中のミラの体温が、ほんの少しだけ——温かくなった気がした。
気のせいだと思う。
気のせいだと思いたいが——気のせいじゃない方が、嬉しい。
【腕部接触継続時間:7分を超過しました。パートナー登録を——】
「「推奨すんな」」
ハモった。今日は二人でハモることが多い。




