第12話「殴り合おうよ」
47機事件から三日。
体はまだ少し痛い。オーバーライドモードの反動は想像以上だった。全身の筋肉が悲鳴を上げていて、階段を降りるだけで膝が笑う。
でも学校には行く。行かないとミラが心配する。心配すると部屋に来る。部屋に来ると7分が10分になる。10分が15分になる。15分が朝まで——その未来は避けたい。色々な意味で。
今日は土曜日。学校は休み。
ミラは「用事がある」と出て行った。いつもの「用事」。何の用事かは聞かない。聞いても「用事」としか返ってこない。
一人の休日。久しぶりだ。
散歩に出た。
商店街。昼下がり。人通りは多い。八百屋のおばちゃんが大根を並べている。パン屋からいい匂いがする。コロッケ屋の行列が十人くらい。普通の土曜日。普通の商店街。平和。
——平和だった。
「殴り合おうよ」
声が、正面から来た。
女の子が立っていた。
背は俺より少し低い。ショートカット。日に焼けた肌。目がきらきらしている。笑顔。満面の笑顔。太陽みたいな笑顔。
——太陽みたいな笑顔で「殴り合おうよ」と言っている。
「……は?」
「殴り合い。楽しいよ」
「楽しくないが?」
「やったことないの?」
「ないよ! 普通ないだろ!」
「えー、もったいない」
もったいない。殴り合いの経験がないことが「もったいない」に分類される世界観。理解が追いつかない。
「誰ですか」
「黒瀬美琴。——あなたのこと、知ってるよ」
「知ってる?」
「うん。AXIOMの使用者。岐堂選。47機を単独撃破した人」
「何で知って——」
「REVISIONの関係者。ってか、戦闘要員」
REVISION。ミラの所属組織。未来からの——
「じゃあ味方?」
「味方ー。たぶん」
「たぶんって何だよ」
「味方だけど、殴りたい」
「矛盾してるだろ!」
「矛盾してないよ。味方でも殴り合えるでしょ。スパーリングっていうの。知らない?」
「知ってるけど同意してない!」
黒瀬が——動いた。
速い。
右手が伸びてくる。ジャブ。反射的に首を傾けて避ける。AXIOMが体を動かしてくれた——じゃない。今のは自分の反射だ。この二週間で身についた動き。
「お、避けた。いいね」
「避けなきゃ当たるだろ!」
「当たっても平気だよ。手加減するから」
「手加減の問題じゃない!」
二発目。左フック。低い。腹を狙っている。AXIOMが補助して後ろに跳ぶ。距離を取る——取れない。黒瀬が距離を詰めてくる。速い。ドローンより速いかもしれない。
【黒瀬個体の戦闘能力:近接格闘特化。打撃速度:使用者を上回る。推奨:距離を取って——】
「距離取れないんだけど!?」
蹴りが来た。回し蹴り。低い。脛を狙っている。跳んで避ける。着地と同時に黒瀬が組み付いてきた。
「わっ——」
両腕で体を掴まれる。近い。顔が近い。黒瀬の目がきらきらしている。楽しそうだ。楽しそうなのが怖いのは神崎と同じだが、種類が違う。神崎は「愉悦」。黒瀬は「純粋な楽しさ」。子供が公園で遊んでいる時の目だ。
「本気出していいかな」
「今まで本気じゃなかったの!?」
「半分くらい」
「半分でボコボコなんだけど!!」
黒瀬の足が俺の脚の間に入る。足払い。バランスが崩れる。背中から地面に倒れる。
衝撃。
息が詰まる。
——その上に、黒瀬が乗った。
マウントポジション。格闘技で言うところの上位制圧姿勢。黒瀬が俺の腹の上に座っている。両膝で挟まれている。逃げられない。
「ねえ、もっと動いてよ」
「この体勢で言うセリフじゃない!!」
「え? なんで?」
「なんでって——お前その格好で人の上に——」
黒瀬の服装。タンクトップにショートパンツ。動きやすさ重視。肌の露出が多い。腕の筋肉がしなやかに張っている。鎖骨から首にかけてのラインが目に入る。汗で肌が光っている。
見るな。見るな。見るな。
「え、何見てんの?」
「見てない!」
「顔赤いよ?」
「赤くない!」
「赤い赤い。面白い。照れてんの?」
「照れてない!!」
【接触面積が急激に増加中。心拍数:危険域。推奨:速やかに離脱——】
「黙れ!!」
黒瀬が首を傾げる。きょとんとした顔。純粋な疑問の表情。この人には本当に「恥ずかしい」という概念がないのかもしれない。格闘の延長で人の上に座ることに何の躊躇いもない。
「降りて!」
「えー、まだ決着ついてないのに」
「決着って——俺が下にいる時点で負けだろ!」
「じゃあ返してみて。返せたら認める」
「返すって——」
腰をひねる。ブリッジ。格闘技の基本——をAXIOMが補助してくれて、黒瀬の体を横に崩す。が、黒瀬はバランスを崩さない。体幹が異常に強い。
「おっ、いい動き。でも甘い」
黒瀬が体重を前に移す。顔が近づく。
「もう一回」
「近い近い近い!」
「——離れて」
声。
冷たい声。
ミラだった。
いつの間にか、五メートル先に立っていた。銃に手をかけている。目が——冷たい。第5話のハンドクリーム事件、第7話の寝癖事件を遥かに超える冷気。絶対零度。宇宙空間の温度。
「あ、誰?」
黒瀬が振り向く。まだ俺の上に座ったまま。
「離れて。今すぐ」
「えー、もう少し」
「今すぐ」
ミラの声にはいつもの平坦さがない。低い。静かに怒っている。静かに怒るミラを見るのは初めてだ。嫉妬とは違う。もっと——本能的な何か。
黒瀬がようやく降りた。のんびりと。急いでいない。
「あなた、REVISIONの——」
「ミラ。選の護衛」
「護衛かー。じゃあ味方だね。私も味方。黒瀬美琴」
「味方なら——選に乗らないで」
乗るな。表現が直球すぎる。
「乗ったんじゃなくてマウント取っただけだよ」
「同じ」
「違うって。格闘だよ格闘。スパーリング」
「……選。怪我は」
「ない。ない、けど——精神的ダメージが」
「精神的?」
「……いいから忘れて」
ミラの目が黒瀬を見ている。黒瀬の目がミラを見ている。空気が冷たい。二人の間に目に見えない壁がある。
黒瀬が——にっこり笑った。
「ねぇ、あなたも殴り合う?」
「殴り合わない」
「えー。じゃあ銃で撃ってもいいよ、避けるから」
「撃っていいの」
「ミラ、撃つな」
危なかった。ミラが本気で引き金に手をかけていた。黒瀬を未来兵器で撃つところだった。商店街で。昼の。人通りのある。
「また遊ぼうね」
黒瀬が手を振った。満面の笑顔。太陽。
「遊びたくない」
「照れなくていいのに」
「照れてない!!」
「じゃあねー。次はもっと本気で来るから」
「今日で半分なら本気はもういい!!」
黒瀬が走っていった。速い。あっという間に商店街の人混みに消える。嵐が去ったような静寂。
「…………」
「…………」
ミラと二人。商店街の真ん中。
ミラが無言で俺の服の乱れを直し始めた。シャツの裾を入れ直す。襟を整える。背中についた砂を払う。丁寧に。黙って。
「……怒ってる?」
「怒ってない」
「嘘」
「……少しだけ」
少しだけ。今日の「少しだけ」はいつもより重い。
「あの子——REVISIONの戦闘要員って言ってた」
「知ってる。黒瀬美琴。近接格闘特化。私より速い」
「お前より速いの!?」
「近接戦に限れば。銃を使えば私の方が強いけど」
「じゃあ負けてないだろ」
「……負けてない」
声のトーンが微妙だ。戦闘力の話をしているのに、別のことを考えている。
「ミラ」
「何」
「あいつに乗られたのは俺の意志じゃないからな」
「……分かってる」
「分かってるなら——」
「分かってるけど、嫌」
「嫌なの」
「嫌。……すごく嫌」
「少しだけ」じゃなくなった。「すごく」。ミラの語彙が「少しだけ」から「すごく」に昇格する事態の深刻さを噛み締める。
「もう乗られないようにする」
「約束」
「約束って——格闘仕掛けられて断れなかったんだけど」
「断って」
「断れなかったら?」
「私が撃つ」
「それは困る!」
「……冗談」
「冗談に聞こえなかった」
「……半分冗談」
半分本気。怖い。
商店街を歩く。並んで。いつもの半歩後ろじゃなくて、今日は横に並んでいる。肩が触れそうな距離。
コロッケ屋の前を通る。いい匂いがする。
「……コロッケ食べる?」
「食べる」
二つ買った。一つずつ持って、歩きながら食べる。
ミラが一口齧る。
「……美味しい」
「だろ」
「選のより美味しい」
「俺はコロッケ作ったことないけど」
「作って」
「作れないけど」
「……じゃあ一緒に買いに来よう。また」
「……いいよ」
「約束」
約束がまた増えた。月を見る約束。コロッケを買いに来る約束。技術の話を聞く約束。全部守る。全部守ると言った。言ったからには守る。
【約束リスト更新。現在の件数——】
「数えなくていい」
【了解。——ただし、増加傾向にあることは記録します】
「記録はするのか」
【仕様です】
「お前の仕様、都合良すぎないか」
【仕様です】
ミラがコロッケの最後の一口を食べた。指先に衣のかけらがついている。それを——舐めた。指先を。猫みたいに。
「…………」
「何」
「いや。何でもない」
【心拍数——】
「言うな」
【了解】
商店街。土曜日の昼下がり。コロッケの匂いと、隣のミラと、背中の痛みと、新しい知り合い。
日常が、また一段騒がしくなった。




