第11話「判断官は楽しそう」
放課後。通学路。
今日は平和だった。昼休みにドローンも来なかった。屋上でミラと弁当を食べて、明日香と廊下ですれ違って手を振って、五限の体育で走って、六限の英語で半分寝た。普通の一日。普通の高校生の一日。
——こういう日に限って、来る。
踏切の手前。
女の子が立っていた。
見たことのない顔。うちの学校の制服じゃない。私服。白いブラウスに紺のプリーツスカート。長い髪を片側に流している。
綺麗だ。
ミラとは違う種類の綺麗さ。ミラが冬の月なら、この人は春の刃物。きらきらしていて、でも触ったら切れる。
目が合った。
——微笑んだ。
微笑み。完璧な微笑み。口角の上がり方、目の細め方、全てが計算されている。自然に見えて自然じゃない。意図のある笑顔。
「初めまして。——いえ、初めましてじゃないですね。正確には」
「……誰ですか」
「神崎玲奈。判断官です」
判断官。聞いたことのない肩書き。
「判断官って何」
「あなたを排除するかどうか——私が決める人」
「排除!? 穏やかじゃないね!?」
「穏やかですよ? だって私、今すごく楽しいので」
楽しい。この状況で楽しいと言える神経が怖い。笑顔が怖い。楽しそうなのが一番怖い。
「排除って、殺すってこと?」
「そんな物騒な言い方しないでください。——消すんです」
「物騒さ変わってない!」
神崎が一歩近づいた。
距離が縮まる。俺は一歩下がる。神崎がまた一歩。下がる。また一歩。踏切のポールが背中に当たった。これ以上下がれない。
「逃げないでください。逃げると……もっと近くなりますよ?」
「脅しだろそれ!」
「脅しじゃありません。事実です」
AXIOMが反応する。
【未知の個体を検知。戦闘能力:推定——計測不能。推奨:交戦回避】
計測不能。AXIOMが計測できない相手は初めてだ。ドローンも刃ユニットも数値が出ていたのに、この人だけ測れない。
「検査させてもらいますね」
「検査って——」
手が伸びてきた。
俺の顎を掴んで、持ち上げた。
力は強くない。でも逆らえない。指先に技術がある。関節の隙間に指を入れるような、最小限の力で最大限の制御をする触り方。
神崎の顔が近づく。俺の瞳を覗き込む。
「瞳孔反応——正常」
耳に手を添える。指先が耳の後ろを撫でる。
「神経伝達——問題なし」
首筋に指が当たる。脈を取っている。
「心拍数——」
にこっと笑った。
「すごく上がってますね。怖いから? それとも——別の理由?」
「怖いからに決まってんだろ!」
「本当に?」
「本当!」
「嘘、下手ですね」
指が離れた。半歩下がる。まだ笑っている。
【神崎個体の心拍数にも微増を検知。原因:不明】
AXIOMの表示が視界に浮かぶ。
神崎の指が——一瞬止まった。本当に一瞬だけ。
笑顔が0.1秒消えて、すぐに戻った。
「……今のAXIOMの表示、消してもらえますか」
「俺に言われても」
【記録しました】
「記録するな」
——と、俺と神崎が同時に言った。
目が合う。
一瞬の沈黙。
「……あら。ハモりましたね」
「ハモりたくなかった」
「私もです。——でも、面白い」
面白い。この人は何でも面白がる。怖い。
「判定」
「え?」
「判定です。——継続観察」
「殺さないの?」
「今消すのはもったいないので。もう少し——楽しませてください」
「楽しむって何を!?」
「あなたが足掻くところ」
「趣味が最悪だ!!」
神崎が髪を掻き上げた。風に黒い髪が流れる。
「また来ますね。定期的に」
「来なくていいんですけど」
「来ますよ。だって——まだ検査の途中ですから」
振り返る。目が笑っている。全力で笑っている。
——去っていく。ヒールの音が遠ざかる。
一人、踏切の前。
遮断機が降りてきた。電車が通過する。轟音。風圧。
「…………」
【心拍数の正常化に推定3分を要します】
「知ってる」
横からミラが現れた。いつから見ていたのか分からない。たぶん最初から。
「……選。あの人のこと、どう思った?」
「怖かった。あと性格が最悪」
「それだけ?」
「それだけ」
「……そう」
怖かったのは本当。でも綺麗だったのも本当。
——絶対言わないけど。
帰り道。ミラと並んで歩く。
夕焼けの空がオレンジ色に染まっている。踏切の遮断機が上がる。通過した電車の風が髪を揺らす。
「……判断官って、ミラも知ってた?」
「知ってた」
「なんで言わなかった」
「……来るかどうか、分からなかったから」
「来たけど」
「来た」
「めちゃくちゃ来たけど」
「……そう」
ミラの声が平坦だ。いつも以上に平坦。感情を消しているのか、元からないのか——いや、ミラに感情がないわけがない。昨日の夜、萌え袖で眠ってしまった人間に感情がないわけがない。
「あの人、また来るって言ってた」
「来る。判断官は定期的に観察する」
「定期的って、どのくらい」
「分からない。神崎のペース次第」
「……神崎のペースって、あの人が楽しいと思ったら来るってことだろ」
「たぶん」
「絶対来るじゃん。めちゃくちゃ楽しそうだったぞあの人」
「……選」
「何」
「あの人に——気をつけて」
「気をつけるって、何に」
「…………全部」
全部。ミラの「全部」は重い。
マンションに着く。エレベーター。五階。廊下。
「おやすみ」
「おやすみ。……選」
「何」
「今日の心拍数、高かった」
「——見てたのか」
「AXIOMのログで」
「盗み見すんな!!」
「盗み見じゃない。共有データ」
「共有した覚えない!!」
ミラが501号室のドアを開ける。入る直前に——振り返った。
「神崎の前では——心拍数、上がらないで」
「それは俺に言われても——」
「お願い」
ドアが閉まった。
廊下に一人。
「……無茶言うなよ」
【心拍数は自律神経の管轄であり、意志による制御は困難です】
「知ってる。——お前、こういう時だけ正論言うよな」
【事実を伝えるのが私の仕事です】
「事実でも空気読め」
【……記録しました】
502号室に入る。靴を脱ぐ。電気をつける。
手を見る。グローブ。右手の甲に、神崎の指が触れた感触が残っている。冷たくもなく温かくもない、不思議な温度。
ミラの手は冷たい。明日香の手は温かい。
神崎の手は——温度が分からなかった。
それが一番怖い。




