第10話「月を見る約束」
夜。午後九時。
スマホが鳴った。ミラからのメッセージ。
【出てきて】
一行。句読点もない。用件も理由もない。
——慣れた。
この一週間で、ミラの呼び出しパターンは大体把握した。【確認】は寝る前の安否確認。【ドローン】は戦闘。【出てきて】は——何だろう。初めてのパターンだ。
パーカーを羽織って外に出る。
501号室のドアの前にミラがいた。
私服。白いブラウスにデニムのスカート。夜に出歩く格好。手には何も持っていない。武器もない。
「どうした」
「散歩」
「散歩?」
「選と」
「……今から?」
「今から」
九時に散歩。高校生の行動としてはギリギリだが、まあ——
「仕方ないな」
また出た。口癖。
マンションを出る。夜の住宅街。街灯がオレンジ色に道を照らしている。人通りは少ない。犬の散歩をしているおばさんが一人。コンビニの明かりが遠くに光っている。
ミラが半歩前を歩いている。いつもは半歩後ろなのに、今日は前。行き先があるらしい。
「どこ行くの」
「公園」
「公園って、駅の向こうの?」
「うん」
十分くらい歩いた。
駅前の大きな公園。昼間は子供が走り回っている場所が、夜になると別の顔を見せる。噴水が止まっていて、ベンチに街灯の光が落ちている。木の葉が夜風に揺れて、影がゆらゆら動いている。
人はいない。
ミラがベンチに座った。空を見上げている。
俺も隣に座る。ベンチ一つ分の幅。距離は——50cmくらい。肩は触れていない。
ミラが見ている方を見る。
——月。
満月だった。
雲がほとんどない夜空に、丸い月が浮かんでいる。明るい。街灯がなくても足元が見えるくらい明るい。四月の月。春の月は低い位置にあるから、建物の間から覗くように光っている。
「月、見よう」
「……これが本題?」
「うん」
「散歩じゃなかったのか」
「散歩は口実」
「正直だな」
「嘘は下手だから」
それは知っている。
二人で月を見る。無言。風の音。遠くの車の音。虫の声はまだ少ない。四月だから。
「……選」
「ん」
「未来では月が見れない」
唐突だった。
でも、ミラの唐突さには慣れた。前置きがない。いつも本題から始まる。天気の話をしてからの導入とか、「実はね」的な前振りとか、そういうものがこの人にはない。
「見れないって、曇ってるとか?」
「空が、いつも曇ってる」
「いつも?」
「いつも。私がいた頃は——一度も晴れた日がなかった」
一度も。
その言葉の重さが、数秒遅れてきた。
一度もない。月を見たことがない。星を見たことがない。晴れた空を知らない。
「……ずっと曇り?」
「ずっと。灰色の空。昼も夜も変わらない」
「なんで」
「……色々あった。未来で」
色々。ミラの「色々」は重い。俺の「色々」が「宿題と筋肉痛」くらいの重さだとしたら、ミラの「色々」はそれの千倍くらいある。
「だから、見たかった。月」
「……」
「選と見たかった」
「選と」が付いた。
月を見たかった、だけじゃなくて。選と見たかった。
「……綺麗だな」
「うん」
「思ってたのと違う?」
「違う。もっと——白いと思ってた」
「白くない?」
「黄色い。少しだけ」
「少しだけ、な」
「……うん。少しだけ」
ミラの「少しだけ」は分厚い辞典になりつつあるが、今のは——柔らかかった。いつもの「少しだけ嫌」「少しだけ嫉妬」とは違う色。
沈黙。
心地いい沈黙だった。無言でも気まずくない。一緒に同じものを見ている、それだけで成立する時間。
「選」
「ん」
「約束して」
「何を」
「また見よう。月」
「……いいよ」
「いっぱい見よう。毎月でも」
「毎月はちょっと——まあいいか。約束する」
ミラが——笑った。
笑った、と断言できる変化だった。口角が上がった。ほんの数ミリ。ほんの数ミリだけど、確かに上がった。無表情の堤防に、小さなひびが入ったみたいな変化。
「……選が約束してくれると、安心する」
「安心?」
「約束があると、未来がある気がするから」
——ずるい。
そんなことを言われたら、何も返せない。気の利いたことが浮かばない。偏差値50の語彙力では、このミラの言葉に見合う返事が出てこない。
「……全部守るよ。約束」
出てきたのは、それだけだった。
でもミラは、また口角を上げた。さっきと同じ、数ミリの変化。
「……うん」
風が吹いた。
ミラの髪が揺れる。黒い髪が月明かりに光る。綺麗だと思った。月も綺麗だが、月明かりの中のミラも——
(考えるな。今は月を見ろ。月だけを見ろ)
——ミラの頭が傾いた。
肩に、重さがかかった。
ミラが、俺の肩に頭を乗せていた。
「……ミラ?」
「疲れた」
「俺の方が疲れてるんだけど」
「私も疲れた」
「……仕方ないな」
動かない。動けない。肩に乗っているミラの頭が——軽い。体重をほとんどかけていない。遠慮しているのか、それとも本当に軽いのか。
髪がいい匂いだ。シャンプーの匂い。俺の家の風呂で使ってるやつ——じゃない。ミラが自分で買ったらしい。微かに花の匂い。何の花かは分からない。未来の花かもしれない。
心臓がうるさい。
自分の心臓の音が、肩を通してミラに伝わっているんじゃないかと思う。伝わっていたら恥ずかしい。伝わっていなくても恥ずかしい。恥ずかしいけど、この肩の重さを失くしたくない。
【心拍数——】
「今だけは黙ってろ」
【……了解】
——黙った。
AXIOMが、黙った。
「了解」の前に間があった。いつもの即レスじゃない。0.5秒くらいの、短い間。「了解」の文字が、いつもより柔らかく見えたのは気のせいだろうか。
いつもなら「記録しました」と無慈悲に続けるはずのAXIOMが、今日だけは——空気を読んだ。
AIが空気を読む日が来るとは思わなかった。
静寂。
月明かりと風の音だけが残る。
「……選」
声が近い。肩に頭を乗せているから、声がすぐ横から聞こえる。耳のすぐ下から。
「ん」
「今、何考えてる?」
「……何も」
「嘘」
「嘘じゃない」
「心臓、速い。肩から聞こえる」
——伝わってた。
「……ミラのせいだろ」
「私のせい?」
「お前が肩に乗ってくるから」
「……嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあいい」
「よくはない。よくはないけど……嫌じゃない」
「……ややこしい」
「お前に言われたくない」
ミラが小さく息を吐いた。笑った——のかもしれない。吐息が温かかった。いつもの冷たい息じゃない。温かいとまではいかないが、冷たくなかった。
月が動いていく。ゆっくりと、建物の影に隠れようとしている。
「……沈む」
「沈むな。また出るよ」
「明日も?」
「明日も。明後日も。毎日出る」
「……そうか。毎日出るんだ」
当たり前のことを、ミラは噛み締めるように言った。
毎日月が出る。それが当たり前じゃない場所から来た人にとって、その事実は——どれだけ眩しいんだろう。
「帰ろう」
「……うん」
ミラが頭を上げた。肩が軽くなる。軽くなった分だけ、何かが足りなくなった。
立ち上がる。ミラも立ち上がる。
帰り道。
手は繋がなかった。今日は繋がなくていい。隣を歩いている。それだけで十分だ。
——十分だと思った。思ったのに、右手が少しだけ寂しいのは、気のせいだ。きっと気のせいだ。
マンションに着く。エレベーター。五階。廊下。
「おやすみ」
「おやすみ。……選」
「何」
「今日、ありがとう」
「俺は何もしてない。座ってただけだ」
「座ってたから、よかった」
「……意味分かんないよ」
「分かんなくていい」
ミラが501号室のドアを開ける。入る直前に——振り返った。
「月、綺麗だった」
「ああ。綺麗だった」
「……選と見たから」
ドアが閉まった。
廊下に一人。
手を見る。右手。グローブが嵌まっている。AXIOMの黒い表面に、月明かりが反射している。
【……記録しますか?】
AXIOMが聞いてきた。
聞いてきた。勝手に記録するのではなく、聞いてきた。初めてだ。
「……しろよ。いつも通り勝手に」
【了解。記録しました】
「…………」
【…………】
「お前、今日だけちょっと優しくないか」
【仕様です】
「嘘つけ」
【……仕様です】
嘘が下手なのはミラだけじゃなかったらしい。
502号室に入る。靴を脱ぐ。電気をつけない。窓の外に月が見える。もう低い位置まで降りている。
スマホが震えた。
ミラからのメッセージ。
【おやすみ。月の夢が見たい】
「見れるよ。たぶん」
【たぶん?】
「毎日見てたら、そのうち夢にも出る」
【……約束?】
「それは約束できない。夢は俺の管轄外だ」
【……じゃあ、お願い】
「お願いは聞くよ」
【……おやすみ】
「おやすみ」
スマホを置く。
ベッドに倒れ込む。天井を見る。
——月の夢が見たい、と言ったミラの声を思い出す。テキストだから声はないはずなのに、ミラの声で再生される。あの平坦な、でも今日だけ少し揺れていた声で。
目を閉じる。
月の夢は——見れなかった。
代わりに、肩に乗った軽い重さの夢を見た。




