第4話 欠けた記憶
深夜の住宅街。俺は背中から伝わる規則正しい寝息を感じながら、重い足取りで坂道を登っていた。 骨董品屋で力を使い果たしたフワロは、店を出てすぐに「寝溜めリポーズが必要ですぅ……」と呟き、俺の背中で眠りについてしまった。
「……ったく。守護天使のくせに、対象を放っといて気持ちよさそうに寝やがって」
アパートに辿り着き、ベッドへフワロをそっと横たえる。「もうポチチは食べられないですぅ……」などと幸せそうな寝言を言っている彼女を見ていると、自然と口元が緩む。 だが、その笑みはすぐに消えた。
「……でも、これでお別れなんだな」
俺は椅子に腰掛け、老婆から受け取った桐箱を机に置いた。蓋を開け、ヘイローの欠片を確認する。
「これを付ければ、あいつは天界へ戻れる」
騒がしい日常が終わる安堵感と、それ以上に重い寂しさが胸に沈殿していく。 その時だった。桐箱の中の欠片が、呼応するように脈打ち始めた。黄金の光が溢れ出し、欠片は重力を無視して宙へ浮かび上がる。
「これは……!」
光の破片はベッドへ吸い寄せられ、フワロの頭上にある「半分」へと導かれていく。 二つの欠片が重なった瞬間、部屋中が真っ白に塗り潰されるほどの強烈な閃光が弾けた。
「うわっ……!」
思わず腕で目を覆う。数秒後、光の残滓が消えた頃――俺は、息を呑んだ。
そこに浮いていたのは、紛れもなくフワロだった。 だが、その佇まいはあまりに神々しく、静謐だった。表情は慈愛に満ち、一点の曇りもない黄金のヘイローが、彼女の輪郭をこの世のものとは思えないほど鮮やかに、清らかに縁取っていた。
これぞまさしく、本物の天使。
驚く俺を見つめ、彼女は鈴の音のような澄んだ声でささやいた。
「あら?……この方は、どなたでしょうか?」
「な、何言ってんだ。藤木だよ」
「!……私が見えるのですか?……すみません。あなたとは初対面のはずですが?」
心臓が冷たくなる。困惑する俺を余所に、彼女は指先をヘイローに触れ、何らかの情報を読み取り始めた。
「なるほど。あなたは私の守護対象、藤木さんですね。なぜか守護天使に指定された際の記憶が欠落しているようですが……天界に戻り、記録を精査すれば判明するでしょう」
彼女は淡々と続けた。
「それに、どうやら藤木さんの守護任務はすでに完了しているようです。であれば私は天界へ戻り、次なる守護対象をお守りせねばなりません」
「ま、待ってくれ!……フ、フワロは? あいつはどうなったんだよ」
「フワロは私ですが……『あいつ』とはどなたのことですか?」
「俺と一緒に過ごしたフワロだよ! アホで、ポテチが好きで、ふざけた事ばっかり言ってた……あのフワロだ!」
俺は必死にこれまでの経緯を説明した。天使は眉一つ動かさず、静かに俺の言葉を聞き終えると、悲しそうに目を伏せた。
「……理解しました。藤木さんと過ごしていたのは、ヘイローが損壊したことで発生した私の『バグ』です」
「な、なんだって……?」
「天界の記録で見たことがあります。ヘイローが破損した際、天使の精神にエラーが生じ、本来の人格とは異なる擬似人格が現れる事例が。……まさか、私自身がそうなっていたとは。不覚です」
「じゃあ……あのフワロはどうなっちまったんだ」
「正常な人格が復元された時点で、そのバグは消滅したと思われます」
消滅。 その言葉が、鋭い刃のように胸に刺さった。あのアホな笑顔も、ふざけた語尾も、ただの『バグ』として処理されたというのか。 やり場のない喪失感に、俺は沈黙するしかなかった。
「では、形式上の守護期間は明日までとさせていただきますね。終了次第、私は帰還します」
「……ああ、もう勝手にしてくれ……」
俺は力なく返事をして、布団に潜り込んだ。
夜更け。藤木が寝静まった静寂の中、彼女は机に向かい、天界への報告書を作成していた。ふとペンを止め、傍らに置かれたポチチの袋に視線をやる。
「ふぅ。……少し、空腹を感じましたね」
その瞬間だった。 ズキリ、と。 こめかみを突き刺すような鋭い痛みが走り、彼女は思わず頭を押さえた。 視界がちかちかと明滅し、脳裏に知らないはずの光景が過る。 ――誰かと笑いながら、このジャガイモのお菓子を食べている、とても楽しそうな「私」の姿。
痛みはすぐに引き、彼女は乱れた呼吸を整えた。気を取り直して、書き終えたばかりの報告書を最終チェックするために目を落とす。
「……? な、何、これは……」
一読した彼女は、思わず声を漏らした。 完璧な理論で綴ったはずの報告書。その締めくくりの一文が、あろうことか書き換えられていた。
『――以上で報告を終わりますぅ。にへっ』
それは、自分には決してできない、ひどく不真面目で、けれど驚くほど楽しげな言葉。 書いた覚えはない。本来なら即座に消すべき記述だ。しかし、彼女はなぜかその一文から目を離すことができなかった。 自由で、明るくて、どこか憎めないその響きに、胸の奥が温かくなるのを感じてしまったから。
「……不思議ですね。こんなこと、あってはならないはずなのに」
ポタッ
気がつくと、彼女の目からは一筋の涙がこぼれ落ちていた。 それは完璧な天使の瞳に宿るはずのない、胸を焼くほどに熱く、「誰か」の面影を宿す涙だった。




