第2話 悪徳学
その日から、レイドリアを立派な『悪徳貴族』にするための授業が始まった。その授業は『悪徳学』と呼ばれ、基本的にはハカンというヴィアーヌ家腹心の使用人によって教わることとなった。
「さて、それでは早速始めていきますが……よろしいですね?」
「よろしく頼む」
ハカンは70を越える歴戦の使用人だ。他のメイドや執事とは訳が違う。
先代——つまりレイドリアの祖父の代から使用人を務めており、そのキャリアは60年に迫ると聞いている。
悪徳貴族の何たるかを、ハカンは良く知っている。もしかすると、父のヴィアーヌよりも心得ているかもしれなかった。
「まずは、基本的なことから。悪徳貴族になる上で最も重要なことをお伝えします。全ての行動の目的は、即ちこれに集約すると言っても良いでしょう」
ハカンはここで一拍置いた。これから言うことを強調するために。
「最も重要なこと。それは——侮られなさい。ということです。」
「侮られる……?」
レイドリアの常識から言えば、これは貴族が最もしてはならないことだ。
いわゆるメンツというやつが貴族では重要であると、普通の授業では聞いていた。
「坊ちゃんの疑問はわかります。これは本来、貴族としてあるまじきことですが……ですが、いやだからこそ、ヴィアーヌ家はそういう方法をとっているのです」
「と……言うと?」
「この方法……自らに不満を集めさせる方法を初めて編み出したのは、先代のさらに前、先々代の頃です。先々代は極めて有能なお方でしたが、それでも完璧な統治は難しかった。不満のない領地などありません。領民たちは喫緊の不満が解決された後、互いに不満をぶつけ合うようになりました。全く、愚かなものです」
ハカンは呆れた、というような仕草をしてみせる。
「そこで編み出したのが、不満を自らにぶつけさせ、それをコントロールする方法です。これが思いの外、上手くいきました。領民たちは不満をぶつけつつも、そこから出ていこうとはしなかったのです。なぜだかわかりますか?」
「心の奥底では、ここが暮らしやすい場所だと理解していたから……でしょうか?」
「ふむ。それも正解でしょうな。ですが、決定的な理由ではありません。決定的な理由——それは、『希望』の存在です」
「希望……?」
「ケレーレ、という名に、聞き覚えはありますか?」
「ケレーレ……たしか、領兵にそのような人がいた気がします」
「その通り。ケレーレ殿はヴィアーヌ領兵領兵長を務めておられます。ケレーレ殿を、実際に目にしたことがありますか?」
「いえ」
「そうですか。では一度お会いになると良いでしょう。その『大きさ』がわかると思いますよ」
「大きさ、ですか」
「えぇ。器、存在、体躯。全てが『大きい』のです。それでいて、実力も折り紙つき。冒険者ランクでいえばS級。単騎で百の兵にも匹敵する強さです。彼はまさしく、この街の英雄です」
冒険者ランクでS級と言えば、王国にも20人はいないと言われており、例外中の例外たる特級に次ぐ高ランクだ。
「そんな英雄と、ヴィアーヌ様はある契約を結んでおられるのです」
「契約……」
「ヴィアーヌ様とケレーレ殿は旧知の仲でしてね。王立オルト学院での先輩、後輩の間柄です。ケレーレ殿の実力は学院内でも群を抜いていましたから、ヴィアーヌ様から契約を打診しました」
ハカンは茶を啜って口内を濯いだ。
「ヴィアーヌ様はケレーレ殿に全てを明かしました。そして、ケレーレ殿が領兵になった暁には、領民の生活を守る為に協力して欲しいと依頼したのです。具体的には、ケレーレ殿にはヴィアーヌ領での『英雄』になってもらい、民の不満を共にコントロールして欲しいというものです」
レイドリアは話についていくだけで苦労していたが、何とかその内容を噛み砕けていた。
「ケレーレ殿がヴィアーヌ領出身の平民であったことは、まったく幸運という他ありませんが……とにかく、ケレーレ殿なこの依頼を了承しました。もちろん、条件はありましたがね。この街では……特に領兵たちにとって、ケレーレの言葉は重い。ケレーレが白と言えば、カラスも白となる……と言えば、さすがに大袈裟すぎますが、とにかく、ケレーレ殿はヴィアーヌ様の思惑通り、この街の英雄になったのです」
不満を与える伯爵と、希望を与えるケレーレ、という構図が出来上がったわけだ。
「不満が高まりすぎた場合は、ケレーレ殿がそれを中和する。不満がなくなりすぎたら、ケレーレ殿がヴィアーヌ様を批判する。一見無関係に見えて、二人は密接にコミュニケーションをとっているのです」
「なるほど……」
「さて、ここで最も憂慮すべきことがなんなのか、わかりますか?」
「………いえ、わかりません」
話についていくのでいっぱいいっぱいだったレイドリアに、そこまで考える頭は残っていなかった。
「正解は……立場が逆転してしまうことです」
「どういうことでしょう?」
「ケレーレ殿に、支配者の座を取って代わられること。これこそ、最も憂慮すべきことです」
「な、なるほど。確かに、それは恐るべき事態……!」
「えぇ。ケレーレ殿が声を上げれば、クーデターは難なく為されるでしょう。それだけは、何があっても阻止しなくてはなりません」
聞いてみれば当然のことだった。となると、これはかなりリスキーな方策ではないだろうか、とレイドリアは思う。
「必要なのは、手綱をガッチリと掴んでおくことです。その方法は先々代も、先代も、当代も、それぞれ違います。先々代は、『希望』となる人物に常に餌を与え続けました。富、女、食い物。自分がいない生活などあり得ない、と思わせ続けたのです。そして先代は、自分に惚れた女を『希望』に仕立て上げました。女を自分に依存させ、言うことを聞かせ続けました」
なかなか非人道的だが、それも致し方ないのだろうか、とレイドリアは内心落ち込んだ。
「さて、当代はどうやってケレーレ殿の手綱を握っているのかですが……当代のやり方は、これまでのものよりもっと凶悪で、しかし確実なものです」
レイドリアはゴクリと唾を飲んだ。
自分の父の非道な行いを、今から聞くことになる。
「当代は、ケレーレ殿の脳を、魔法で弄っています」
「脳を……?」
それはレイドリアにとっては予想外のものだった。
「知る者はほとんどいませんが、当代は脳みそを弄り、精神を支配する魔法を有する、稀代の奇術師です。これは血縁的なものではなく、突然変異にもるものですが……脅威的な精度と効果を誇ります」
脳をいじる魔法など、レイドリアは聞いたことがなかった。
「とは言え、ヴィアーヌ様はそれほど大袈裟な改変はしていません。ただ、反旗を翻したり、ヴィアーヌ様に『決定的に』逆らったりしないように弄っただけです」
「決定的に……?」
「えぇ。そこがミソです。ケレーレ殿は常に、ヴィアーヌ様に意見ができますし、反対意見も言えます。現場の声を取り入れる必要がある、というヴィアーヌ様の判断により、ケレーレ殿を完全に洗脳することはしませんでした。ケレーレ殿が出来ないのは、クーデターなどの決定的な裏切りだけです」
「さて、この悪徳学における長期的な目標を、ひとつお伝えしましょう。20になるまでに、『希望』となる人物を見つけ出して契約を交わし、その人物の手綱を常に握り続けなさい、ということです」