87 再会
再び高校に通い始めたあの日から、もう六十年は経過していた。
年老いた俺の目の前には、ひどく懐かしい光景が広がっていた。
長い人生からすればたったの一年を過ごした狭い家だ。それは現代日本ではない。中世ヨーロッパの世界のような異世界で暮らした、懐かしくも愛おしい我が家。
リビングの奥の台所から、声が聞こえる。どうやら上機嫌に鼻歌を歌っているらしい。その声が誰か、俺が聞き間違えるなんてあり得ない。例え、もう何十年もその声を聞いてなかったとしても。
俺は声の方向へ向かって歩き出した。すると、鼻歌が止まる。足音を聞いて、彼女もまた俺の方へ歩み寄ってきた。
「いらっしゃい、カナタ。あんたもついにここに来たのね」
すっと切れ上がった目元に、涼しげな雰囲気が特徴的な黒髪の少女。長い髪をくくり、平服にエプロンを掛けた軽装で俺の前に立っている。
遙か昔の記憶から変わらない彼女の姿に、俺は胸が一杯になるのを感じた。そう……彼女は、エリーだ。異世界で出会い、そして一度は別れた大切な人。
「ああ、そうだね。いきなり懐かしいこの家にいたから、何事かと驚いたけど……まあ、そういうことなんだね」
俺は今度こそ間違いなく、現代日本で死んだのだ。
悟った事実に苦々しく笑う。ただ、惜しむほどでも悲しむほどでもない、精々やはりか、と思ったぐらいで。
そうと分かれば、なんだかいつになく体が羽のように軽く感じるのも、なんだか自分の話し方が急に変になったような気がするのも納得だ。鏡が手元にあれば、恐らく十六か十七才当時の俺の顔が映るだろう。外見に合わせて話し方も似つかわしいものに、勝手に書き代わっている感じがする。
「ねえ。どうだった? あれから、人生を新しくやり直すことは出来たの?」
エリーは穏やかに微笑みながら、問いかけてきた。
俺は迷いなく、頷いた。
「うん、やり直せたと思う。立派な人生だったか、他人に誇れる人生だったかは自信ないけれど……悔いのない人生を送ることは出来た。やれることはやった、生きて良かったと胸を張れる生涯を送れたよ」
俺はエリーの右手を取った。そして、その手にそっと指を絡めた。
「こうして、君がずっと手を握ってくれたから。だから、俺には何も怖いことなんてなかったよ。そう、何だって俺は出来たんだ……ありがとう、なんて言葉じゃとても君には感謝しきれない」
あれからも、困難も試練も度々降りかかってきた。でも、時折怯むことも迷うこともあったにせよ、一度として俺は挫けず、絶望もしなかった。異世界から戻って目を覚ましたその日以降、一度も言葉を交わすことも姿を見ることもなかったけれど、エリーはいつでも俺の傍にいて、励まし続けてくれたから。
俺の答えに、エリーは微笑んだ。
「別に、お礼を言われるほど大したことなんてしてないわ。だって、ね……」
エリーの言葉が途切れた。俺の胸に大胆に飛び込んできて、甘えるように上目遣いで俺を見つめた。
「カナタはあたしを生涯愛し続けてくれた。愛してくれる人の傍にいるのは、当然のことでしょう?」
愛しい人の、誇らしげな可憐な笑顔。俺は久しぶりに己の胸の高鳴りを聞いた。
「傍にいてくれたのは分かっていたけれど……それでも、こうしてもう一度会えて嬉しいよ、エリー」
絡めた指を解放して、エリーの背中と腰に腕を回す。彼女も俺の動きに逆らわず、体を寄せてきた。互いの体が密着し、服の感触越しに彼女の存在を感じる。
初めて彼女を抱き寄せたあの日のことを思い出した。異性への興奮ではなく、あるべきものがあるべきところに帰ってきたような安堵感をあの時感じたが……今も、当時と同じ感覚に陥っていた。お互いの穏やかなぬくもりに、俺もエリーも黙って浸かっていた。
そうしている内に、どちらからともなく視線が交わる。熱を帯びた眼差しが誘うように見つめ合う。俺は彼女の頬に手を滑らせ、彼女は差し出すように唇を寄せてきた。
俺は目を瞑った。今度は例え傍で悲鳴が聞こえてこようが、あるいは刺されようが、全て無視しようと誓っていた。どうか何事もないように、と緊張しながら祈り……そして、ようやく彼女の唇に己の唇を重ねた。
互いを貪り合うような、激しさはなかった。まるで互いに人生で初めての口付けのようにぎこちなく、淡い口付けだった。
目を開けると、エリーは恥じらうように笑っていた。
「なんだ。キスって……こんなものなの? 二回もお預けされて、この程度?」
がっかりした、とでも言いたげな口ぶりだったが、火が付いたように頬を赤らめていた。
初心な反応に愛おしさがこみ上げてきた一方で、こんな可愛らしい口付けさえ知らずに人生を終えてしまったのだと思うと、切なさで胸が締め付けられるように痛んだ。
自然と彼女を抱きしめる腕に力が入り、もう一度強く抱き寄せた。
「これからは、いくらでも出来るよ。もう二度と誰にも邪魔されずにね」
腕の中のエリーは、小さく頷いた。
「うん……」
か細い声を震わせて、エリーは答えた。その後、何も言わずに佇む彼女を俺も黙って抱きしめ続けた。長く、失われていた二人の時間を今から取り返すそうとするかのように。
「ねえ、カナタ……あの約束、覚えてる? もう随分昔のことだから……覚えてないかもしれないけれど」
長い抱擁を続ける中で、エリーがぽつりと言った。
「あたしの故郷に来て、家族に会って欲しいって約束。どう? 今からでも……守ってくれる?」
エリーはおずおずと顔を上げ、言葉を口にした。
「両親も弟妹も、皆こっちに来てる。だから、カナタをちゃんと紹介したいの。あたしの一番大切な人として、ね」
緊張した面持ちで、エリーが言う。
俺の答えなんか、端から決まっている。
「行くよ。覚えてないわけないだろ」
エリーはやっと安堵した様子で表情を和らげた。
「ああ、犬のブチもいるわよ。あんたとそっくりの、どんくさい犬」
一生懸命隠そうとしているけれど、口元には嬉しそうな微笑があった。いじらしい彼女の笑顔に、俺もつられて口元に笑みが自然と浮かんでしまう。
「へえ、どれほど似てるのやら。ぜひとも、見せて貰おうか」
「言ったわね。どっちがよりどんくさいか、勝負してもらおうじゃないの」
「ひどいな、いくら何でも犬には負けないって」
顔を見合わせて、俺とエリーは笑い合った。かつて、笑い声を響かせあったあの頃と同じように。
ようやく長い抱擁を解き、エリーを解放すると、懐でじゃらりと音が鳴ったのに気づいた。気になって、懐を探るとこれまた懐かしいものを見つけ、俺は目を細めた。
「なあに、それ?」
エリーが俺の手元を覗き込むと、驚きのあまり息を呑んだ。
「そう、これも約束していたね。……首に掛けてあげるよ」
俺の手元にあったのは、焼き捨てたはずのもの。かつてエリーが俺に掛けて欲しいとねだった、白い石に可憐な花が彫刻された首飾り。まるで気の利いた誰かが、そっと俺の懐に忍ばせてくれたようだった。
エリーは小さく頷くと、エプロンを外し、きちんと居住まいを正して俺の前に立った。首飾りの金具を外して、結んだ黒髪の下の白いうなじで付け直した。エリーはつけて貰った首飾りの彫刻をちらりと一瞥した。
「もう、一体いつまで待たせたのよ。ずうっとこれ、欲しかったのよ」
花の彫刻を愛おしげに撫でながら、エリーがぼやく。そう、彼女はずっとこの首飾りを欲しがっていた。一度は間接的に、直接二度もねだられていたのに、渡すまでに恐ろしく遠回りをしてしまった。
「ごめんね、遅くなって。……とても似合うよ」
偽りのない言葉を彼女に掛ける。すると、エリーは首飾りの彫刻よりも愛らしく笑った。
「ありがとう。……あたし、今、どうしようもないぐらい幸福よ」
彼女の瞳から、すうっと一筋だけ涙がこぼれた。
俺もまた、目が潤むのを感じた。彼女が感じた幸福を、俺も間違いなく共にしていた。この幸福を掴むために支払った数多の苦難と長い年月を思えば、一筋の涙では到底その喜びを表現しきることは出来なかっただろうが。
こぼれた涙を手で拭うと、彼女はその手を俺に差し出した。
「さあ、行きましょ。あたしの家族だけじゃないの。皆が、あなたを待っているから。あなたとたくさん話をしたくて待ちわびている……」
それは、今までやって来たように俺を立ち上がらせるためではない。共に歩むために差し出された手。
俺は迷わず彼女の手を取った。
「分かった。それじゃあ……行こうか」
彼女と手を繋いで、ゆったりとした足取りで懐かしい自宅を後にする。
どうせここにはもう、予定も都合も何もない。ただ穏やかに時を過ごすための場所なのだ。行きたいときに、行きたいところへ行けば良い。やりたいことをやりたいようにやっても許される、そんな優しい世界に俺たちはようやく辿り着いた。
果たせなかった約束と掴みきれなかった幸せを取り戻す旅へ、俺はエリーと一緒に旅だった。