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85 勇気を振り絞って

 俺は出窓の桟から下りて、窓を閉めた。窓の外の景色はいつの間にか、日は沈み、夜が訪れようとしていた。

 電気をつけて、もう一度本棚に手を伸ばした。『異世界チート』の第一巻を手に取り、ベッドに戻ってページをめくり始めた。大和の冒険を通して、愛おしく充実した、そしてもう二度と戻れない日々を懐かしんだ。一冊読み終えても、胸を締め付けるような寂しさも、哀愁も今度は湧いてこなかった。その代わり、あの異世界で過ごした温かな日々の記憶が、優しく心を照らし出してくれるのを感じた。

 二冊目の半ばに目を通す頃になって、ドアをノックする音が聞こえた。反射的にどきん、と心臓が緊張して跳ねる音を聞いた。

「彼方。夕飯、ドアの前に置いておくからね」

 ドア越しに、母の声が聞こえてきた。

 読書に熱中している間に、母が帰ってきて、食事の準備を終えていたのだ。そして、自室に引きこもって出てこない俺のために、盆に食事を乗せて、いつも通りドアの脇に置いていく。

 母は返事なんか期待していない。俺はいつも、声を掛けられても黙殺している。母の足音が遠ざかったのを確認してから、ドアから出てきて、自室に籠もったまま食事を取るのが日常だったから……。

 でも、これからはそれじゃあ、いけない。俺は読みかけの本を閉じた。ドアノブに手を伸ばすと、心臓が悲鳴を上げるかのように騒ぎ出すのを感じた。

 部屋の外に出るのが、俺は怖い。家族の誰かがいるときに、自室から出るのは夜の墓地を散歩するより度胸が要った。

 母とまともな会話をしたのは、いつが最後だっただろうか。もし顔を合わせたりなんかしたら、罵倒されるんじゃないか。お前なんか生むんじゃなかった、優秀な弟だけで良かった……そんな風に、今までため込んでいた鬱憤をぶつけられてしまうような気がした。

 それでも、俺は自室から出た。震える手でドアノブを押し開け、遠ざかろうとする母の背中に声を掛けた。

「待って、母さん。……俺、その……今日はリビングで食べるよ」

 ぎこちなく声を掛けると、ぴたり、と母の足が止まった。凍り付いたように立ち止まって、振り返るまでに少し時間が掛かった。

「え、ええ……。じゃあ、そのお盆、リビングに持っていくわね……」

 そう言って、置いていったお盆を取るとそそくさとリビングに向かった。

 久方の息子との会話は、気まずそうだった。あるいは不気味がっているのだろうか。それもそうか、自室に引きこもった俺が突然そんなこと言い出したら、母にしたら気味が悪いだろう。

 言うんじゃなかった、と後悔しそうになって、俺は慌てて首を振った。

 こんな些細なことで挫けてはいけない。人生をやり直すと、エリーと約束したのだから。

 


 重い足取りでリビングに向かうと、食器に食事を忙しそうによそう母の姿だけではなく、弟の姿もあった。母を手伝って、茶碗に米をよそうところだったが、俺の姿を認めるやいなや、その手がぴたりと止まる。

「えっ……兄さん、ここで食うの?」

 心底驚いた様子で貴斗が言う。俺は小さく頷いた。

「うん……」

 貴斗の素直な反応に、俺は沈んだ声で答えた。嫌がられているのだろうか、と内心不安になった。

「ふうん。ま、いいけど。突っ立ってるの邪魔だから、座っといてよ」

 貴斗は素っ気なく言うと、何事もなかったかのように茶碗に米をよそう作業に戻った。

 拒絶はされなかった。ほんの少し安堵して、食卓につく。俺の分は既に盆によそってあるので、母と貴斗は二人分の食事の仕度を終えると席についた。

 各々で、いただきます、と言ってから、食事に手をつける。

 それきり食卓はしんと静まりかえっていた。母も、貴斗も一言も喋らない。

 俺のせいだ。それぐらい分かる。突然自室から出てきて、一緒に食べると言い出した俺をどう扱って良いのか測りかねている、あるいは不気味がっている、というところだろうか。

 だったら、この冷ややかな雰囲気を作った本人がどうにかする責任があるのではないか。

「あの……母さん」

 精一杯、喉から振り絞ったはずの声はひどく弱々しかった。ちゃんと聞こえただろうか、と不安になるぐらいに。

 母も、一瞬聞き間違いだと思ったのだろうか。一拍おいてから反応があった。

「……どうかしたの」

 母の声が冷たく聞こえる。今更何の用だ、と言われたような気さえした。

 思わず黙りそうになる。けど、短く息を吐いて自分を落ち着かせて口を開いた。

「仕事、どう? 忙しい?」

「え……」

 母は目を見張って、俺を見た。驚きと戸惑いがありありとその表情から読み取れた。

「ああ、そうね。忙しいわね。今、繁忙期だから」

 早口で母が言う。さっさと会話を切り上げようとしているみたいに。

 でも、ここで話を終わらせたら、またさっきの静かな食卓に逆戻りだ。何か言うべきことは無いか、と俺は必死で言葉を探して、目の前の食事に目が止まった。

 ご飯に味噌汁、ほうれん草の和え物、それと肉じゃが。ありふれた献立に今までなら、何か感じることはなかった。けれども、今の俺には脳裏によぎる光景があった。

 俺が自分のドーノで命を絶とうとしたあの日、エリーは山菜と狩った獲物でスープを作ってくれた。手間暇掛けて作ってくれたのだろうと思い、俺が労いの言葉を掛けると、彼女は大したことじゃない、と言って目頭を押さえていた。

 俺は思った。母も……同じなんだろうか、と。

「そっか。……忙しい中、ご飯作ってくれてありがとう」

 心の中で湧き上がってきた言葉をそのまま口にした。今まで一度も掛けたことのない感謝の言葉を、母へ。

 母は、何も言わなかった。ただ黙って箸を置いて、ぼうっとした様子でテーブルに視線を落としていた。まるで体を置いて、魂だけがどこかに行ってしまったみたいに。

 素直に思ったことを口に出来たせいか、喉に詰まっていた栓が外れたような心地がした。

 相手の反応なんか急にどうでもよくなった。そう、異世界で過ごす内に俺は気づいていたはずだ。相手の顔色を伺ったって仕方ない、ただ俺が話したいように話せば良いんだ、と。

「なあ、貴斗。学校はどう? 楽しい?」

 黙々と食事をしていた貴斗に、今度は気楽に話しかける。すると、貴斗はぎょっとした様子で眉を跳ね上げた。まるで動物園のライオンから話しかけられて心底驚いてるみたいな顔をしていた。

「まあ、ぼちぼちだけど。……っていうか、兄さん、突然どうしたの?」

 一応律儀に答えた後、訝るように俺の顔をじろじろと眺めた。

「リビングで飯食うって言い出すだけならまだしも、やけに喋るじゃん。人が変わった、っていうか……頭でも打った?」

 貴斗は、ずばりと疑問を口にした。

 確かに傍から見れば、今日の俺はおかしいだろうな。貴斗の歯に衣着せぬ言葉に、俺は苦笑した。多分、母も同じ違和感を覚えて、戸惑っていただろうとも思った。

 でも、そんなことはもう知らない。俺は話したいように、話すだけ。

「実はね、俺は異世界に行ってたんだ。現代日本とは全然違う、中世ヨーロッパみたいな世界に」

 貴斗の目が、皿のように丸くなった。

「絹江ばあちゃんが、俺に人生のやり直しをさせるために連れて行ってくれたんだ。そこで色んな経験を積んで……それで、人が変わったように見えるんだと思う」

 俺は生真面目に気斗の問いかけに答えた。あの世界での出来事は俺にとってこれ以上無いほど大切なことで、嘘や誤魔化しで汚したくなかったから。

 貴斗は眉をひそめ、複雑な表情になった。

「……頭、大丈夫? 明日、病院行ってきたら?」

 哀れむように、貴斗が言う。俺の言葉など、頭から信じていない様子だ。

 そりゃ、こういう反応になるよな。俺が貴斗の立場だったら、多分同じことを言うだろう。引きこもりの兄がとうとうおかしくなった、と考えるだろう。

 けど、後悔はない。無理に分かってもらおうとは思わない。俺はただ、言いたいことを言いたいように言っただけなのだから。

 貴斗の訝しげな視線に、俺は知らん顔をして食事を続けた。さっきまでよく分からなかった食べ物の味が、なんだか鮮明に感じられるようになった。母の料理が二年ぶりであることを思いだし、懐かしく慣れ親しんだ味に舌鼓を打った。

 そうしているうちに、くすくすと笑う声が聞こえてきた。貴斗じゃない。無論、俺でもない。声の主は、母だった。

 俺も、貴斗も突然笑い出した母を見た。母はまだ笑っていた。

「確かに、絹江ばあちゃんなら……それぐらいのこと、やりかねないわね」

 母は笑いすぎて息苦しそうなぐらいだった。

 何でそんなに笑っているのだろう。あっけにとられて母を見つめていると、母も俺の方を見返した。

「異世界とやらで何を経験してきたのか、お母さんは知らないけれど。……彼方は、色んな事を学んできたのね」

 いつぶりだろうか。俺の目を見て、優しく微笑んでくれた。

 俺はしばらく呆然としていた。母の言葉と微笑みが意外すぎた。てっきり貴斗と同じかそれ以上に呆れ返っていて、黙り込んでいるものだと思っていたのだけれど……どうも、違うらしい。

 母が何を思って笑ったのか、はっきりと理解できたわけではない。けれども、一つだけ分かったことがある。

 俺は母を誤解していた。社会に上手く適合できない俺は、母から疎まれていると、憎まれていると思っていた。でも、どうもそれは違ったらしい……。

 母に向き直った。そして、彼女が俺に向けてくれたように、俺もまた優しい微笑を返した。

「そうなんだ。俺、家に帰ってくるのは実は二年ぶりなんだよ。……だから、ただいま、だね」

 声を掛けると、母は深々と頷いた。

「おかえりなさい、彼方……」

 俯いた母は、そっと目頭を押さえていた。

 貴斗は互いに向かい合う母と俺を、胡乱げに見ていた。どうかしたんじゃないか、とでも言いたげに。だが、不意に視線を外すと、ぽつりとつぶやいた。

「ま……やばい症状が出てきたら、本当に病院行った方が良いよ。……二人とも」

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