84 帰還
まばゆい太陽が目を焼いた。あまりのまぶしさに目を細め、反射的に手でひさしを作っていると、取り巻く空気が嫌に湿り気を帯び、真夏のじめじめした不愉快な暑さに晒されていることに気づいた。
紛れもない、現代日本の夏。少し前まで暮らしていた異世界の、日差しは強いが湿気の少ない気候とはまるで違う。
尻餅をついたアスファルトは太陽に焦がされ、まるで鉄板のように熱くなっている。たまらず立ち上がると、男性が雷のようにがなるのが聞こえた。
「よそ見すんな! 気をつけろよ!」
声の方向を振り返ると、トラックの窓から中年の男性がカンカンになって顔を出している。視線と声の方向からすると、相手は俺だ。
何が起こっているのか、理解が追いつかない。男性の怒鳴り声に呆然としている内に、トラックは走り去ってしまった。
俺って、トラックに轢かれて死んだんじゃなかったっけ。体感では二年前の記憶をなんとか、思い返す。確か……横断歩道の信号が変わったと思って飛び出したら、実はまだ変わってなかった。走ってきたトラックが目の前に迫り、それから目を瞑って……気がついたら取り壊したはずの祖母の家にいた。
轢かれた瞬間の記憶は、確かにない。トラックに潰されて死んでいるなら、忘れようがない激痛を味わっていそうなものなのに。
それと、最後に聞いた祖母の言葉を思い返した。死んだと言った俺に、死んでなどいないと意地悪く笑った祖母……。
つまり、俺はトラックに轢かれてなどいない。轢かれる寸前のところで尻餅をついただけ。当然、死んだ事実もない。
前後の状況から察するに、俺はこの現代日本で短い時間気を失っていただけに過ぎない。異世界への転生なんて、する暇はなかったはずだ。
なら、あの日々は夢なのか? 魔物が実在し、そして渦巻く陰謀に弄ばれたあの世界で過ごした時間はあまりにも長く、そして現実感がありすぎた。わずかな時間に垣間見た白昼夢として片付けるには……。
到底、納得など出来なかった。現代日本で死んでいなかったことも、異世界で過ごした日々なんてなかったことも、推論の上では明らかなことなのに、熱した火箸を飲み込むことを拒絶するように、未だに受け入れがたかった。
だが、いつまでも道路で尻餅をついている場合じゃない。渋々立ち上がり、歩道に戻った。
これからどうしようかと途方に暮れていると、照りつける太陽がじりじりと肌を焼き、汗が滝のように流れていくのを感じた。ここに突っ立っていても仕方が無いし、他に行くべきところなどない。仕方なく、自宅へ戻ることにした。
二年以上前の記憶をたどって自宅に帰っても、誰もいなかった。父は単身赴任でこの家には滅多に帰ってこないし、母はまだ仕事中。弟の貴斗は学校にいるはず。
誰もいないがらんとした自宅に、ひどく違和感を覚える。自宅って、こんなに寂しいところだったか。自分以外に誰もいない家は、こんなにも孤独に感じられるものだったのか?
リビングの冷蔵庫を開けると、よく冷えた麦茶が入っていた。まるで魔法の箱だ、と感心しながら麦茶を飲んだ。向こうじゃ氷は貴重品で、暑い日にキンキンに冷えた飲み物なんて王侯貴族の贅沢品でしかないのに……。
シャワーを浴びて服を着替え、自室に戻って冷房をつけた。そんなありふれた行動を取っただけなのに、俺はいちいちその便利さと快適さに驚き、感激してしまった。
ほら、やっぱり俺は異世界に行っていたんだ、とベッドに寝転がりながら思う。そうでなきゃおかしい。現代日本で当たり前のことが、当たり前でなくなっている。異世界の暮らしが骨身にまで沁みているから、こんなことになっているのだ。
あそこは便利な家電もない、蛇口を捻っても水は出てこない、極めて不便な世界だった。ただ、『女神の抱擁亭』に行けば、乱暴な看板娘と糸目のマスターが出迎えてくれて、自宅に戻れば……彼女がいる。
毎日が忙しく、刺激に満ちあふれていた。不便だけど、寂しさとも孤独とも無縁だった。
間違いなく、俺の居場所はあの世界だったのだ。夢では決して無い……。
いつの間にか、自室のベッドに横たわっている内に眠りに落ちていた。窓の外から差し込む光は、夕暮れが近づいてきたことを教えてくれた。
相変わらず、周囲は静かだった。家には俺以外、誰もいない。
何もすることがなく、手持ち無沙汰だった。まるで、フォルツァの遠征軍に囚われていた日々みたいだ。ただひたすら時間が過ぎていくことを願っていた、あの時の虚無感を思い出した。
とは言え、今は誰かに囚われているわけじゃないし、暇を潰す道具ならいくらでも視界に転がっている。モニターにはゲーム機が繋いであるし、ノートパソコンも置いてある。本棚にはびっしりと隙間なく漫画や小説が詰め込んである。
そういえば、俺はそもそも『異世界チート』の新刊を買うために外出したんだった。思い出して、鞄から取り出し読み始める。二年ぶりに目を通した愛読書の新刊は、最初はなかなか読み進められなかった。前巻までの話の内容は朧気にしか覚えていないし、存在自体忘れていたキャラクターもぼちぼちいた。だが、読んでいく内に段々思い出していく。話の中身がようやく頭に入っていく。
そんな都合のいい話があるか、と言いたくなる箇所は正直あった。出てくる登場人物が皆、主人公のギフトの強さを褒め称え、新しく出てきたヒロインが一目惚れも同然で主人公に好意を寄せるようになるとか。甘い、甘い。異世界の暮らしがそんなに甘いわけがない。異世界の人たちはそう簡単には他人を褒めてくれないし、大してイケメンでもない相手に一目惚れする女性なんていない。
でも、大和が所持するギフトを駆使して困難な冒険を乗り越え、仲間達と絆を深めていく過程には心が躍った。懐かしさがつのった。自分が経験してきた数々の冒険が思い浮かび、ハラハラした緊張感や依頼を達成した高揚感を、いつも傍らにいた彼女と分かち合ったことを思い出した。
さほど時間は掛からず、一冊読み終えた。俺は満足して、本を閉じた。本棚に巻数通りに並べた列に、今し方読み終えた一冊を並べる。やっぱりなんだかんだで『異世界チート』はおもしろいな、と心の中でつぶやく。そして……ふと、思った。
俺も、帰りたい。あの充実した日々に。ソフィアに、マスターに……エリーに、会いたい。
締め付けられたように、胸が痛い。目の奥から涙がこみ上げてきそうになって、目蓋をこする。
皆はもう、いないんだよ。俺は自分に言い聞かせる。あの世界に例え、戻れたとしても彼らはもういない。だって、死んだのだから。死んだ人にはもう会えない……。
彼らと出会った日々は夢ではない。でも、もう過去なのだ。どれほど足掻いても、過去には戻れない。あの異世界から戻ってきた俺には、トラックに轢かれそうになる前と何一つ変わっていない現代日本という世界が待っていた。友人は一人もおらず、家族とも疎遠。ましてや愛する人はもういないこの世界で、生きていくしかない。
底のない闇に突き落とされたようなぞっとした寒気が背中に走った。
そうだ、俺は現代日本に帰ってきてしまったのだ。今まで、どこか他人事のように感じられていたことが、急に身に迫って感じられた……。
足に力が入らず、体がふらりとよろけた。とっさに体を支えようと手をつくと、出窓の桟を掴んでいた。
カーテンは開けっぱなしで、外の光景が窓から見えた。ここはマンションの十階。周囲は住宅街で、戸建てや低いマンションが広がる町並みを見下ろせる。
あの懐かしい世界に戻れたとしても、もう愛しい人はいない。死んだのだから。でも、ここから飛び降りれば、彼女の元にたどり着けるかもしれない。今度こそ間違いなく死ねば、死後の世界で彼女に会えるかもしれない。
吸い寄せられるように、俺は出窓に手を伸ばした。掛かっていた鍵を外して、窓を開けると外の生ぬるい風が頬を撫でた。
窓から真下を覗き込めば、アスファルトで舗装された道路がある。人通りはなく、がらんとしている。
今なら、誰も巻き込まずに済む。
俺は出窓の桟に足を掛けた。躊躇も恐れもなかった。まるで誰かに操られているみたいに淡々と、出窓の桟に体を乗せた。窓を全開にすると、真下に広がる硬いアスファルトの地面をもう一度、見下ろした。
この、現代日本という世界には何の未練も無かった。
開いた窓から上半身を乗り出した。後は、そのまま窓から落ちれば良いだけ……。
待っていて。今、君の元に行くよ。
俺は声には出さずに、彼女に呼びかけた。愛する人に再び出会える喜びに、胸を躍らせて。
歓喜と共に、俺は窓の外に飛び出そうとした、はずだった。
だが、出来なかった。腕をぐいと引かれたせいで、未だに俺の体は窓の桟の上にあった。
一体誰の手だ? はっとして顔を上げようとすると、それを制するように声を掛けられた。
『だめよ、カナタ。あなたはこの世界で……生きていかなくちゃ』
背後から耳元で囁かれたような声は紛れもなく、今から会いに行こうとした人。
振り向けば、会いたい人に会える。動け、動けと念じた。例え、一目でも彼女の姿を見たかった。出来ることなら、言葉を交わしたかった。何よりも、その腕を掴んでもう二度と手放したくなかった……!
でも、俺の必死の抵抗も虚しく、全身が金縛りに遭ったように動かせなかった。指先一つ、ぴくりとも動かせない。まるで、俺に姿を見られまいと彼女が望んでいるかのように。
『この世界で生きていくのが怖いのね? またひとりぼっちになってしまった、って絶望しているのね? でも、心配なんかいらないわ。だってね……』
腕を掴まれた感覚が喪失した。その代わりに、俺の固まった拳をほぐすように指が絡められ、ぎゅっと俺の手を握った。
『あたしがこうして手を握っていてあげる。だから、あなたは何だって出来る。もう一度人生をやり直すことだって……出来るよ』
俺の目に彼女の指は見えない。でも、分かる。彼女のぬくもりが、異世界にまでやって来た彼女の愛が、握られた指を通して伝わってくる。
けど、そんなものはいらない。
優しさも愛も、何もいらない。ただただ、君が傍にいてほしい。俺はそう言いたかった。君のいない人生なんてやり直す価値はない、と声を枯らしてでも、叫びたかった。
だが、体はやはり動かなかった。俺の想いを彼女に伝えることが禁じられているかのように、唇は動かなかった。
もう一方の彼女の手が、動かない俺の体を撫でていく。腕を伝い、肩から胸に掛けて指が滑り、やがて止まった。
彼女の声が、柔らかに笑うのを聞いた。
『大丈夫。あたしはもう、カナタの傍を離れないよ。……ずっとここにいるよ』
指の感触が止まったのは、心臓の位置。
ずっと、ここにいるよ。そう彼女が言い残した時、全身を戒めていた金縛りが解けた。
体に自由が戻った途端、俺はもどかしく背後を振り返った。
誰も、いなかった。彼女の姿はどこにもなかった。まるで最初から存在しなかったかのように。
けれども、そんなはずはない。彼女の声も指の感触も、溶けてしまった雪のように今はもうないけれど、夢や幻ではありえない。
自由になった手で胸を押さえた。すると、感じる。彼女が残してくれたぬくもりがじんわりと掌に広がるのを。そこには、彼女の存在そのものが宿っていることが、分かる。
彼女はいなくなったんじゃない。ちゃんと約束を守って、彼女からすれば異世界であるこの世界にまでやってきてくれた。そして、今もいる。言葉を交わすことも、握った手を感じることも、これからはもうないかもしれないけれど……彼女は確かに俺の手を握っている。俺の胸の中に住み着いていて、ずっと傍にいてくれる。
それなら、彼女の言うとおり俺は何だって出来る。躊躇うことも、恐れることもない。今度こそ人生をやり直すことだって、きっと……!
胸に置いた手を通じて、彼女に語りかけた。声には出さないけれど、間違いなくこの想いは届くと確信を持って。
君のことは、生涯愛し続けるから。だから……これから一生、傍にいてくれるかい?
声はもう、何も聞こえなかった。でも、俺は彼女の答えを確かに受け取った。胸のぬくもりが、あたたかく俺の手を包んでくれたから。