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83 俺の人生

 目の前には、暗闇が広がっていた。それは二度と明けることがない夜のように、いつまでも続くように思っていた。だが、しばらくすると闇に切れ込みが入った。裂け目から光が差し込み、やがて古めかしい板張りの天井がぼんやりと浮かび上がっていた。

 俺は、自分が再び目を覚ましたことを悟った。そしてここが現代の日本ではないことを、そして二年の時を過ごした異世界でもないことを理解した。

 ここは、死後の世界。現代で命を落とし、異世界に行くまでのわずかな時間を過ごした場所。

 畳に寝転がり、俺は天井を見上げていた。腹に埋め込まれた鉄片の存在は勿論、小さな体の不調さえ微塵も感じなかった。まるで作りたての、新しい体に生まれ変わったかのように生気が全身にみなぎっていた。

 懐かしい、無くなったはずの祖母の家の和室で、外から聞こえてくる鳥のさえずりに耳を傾けている。俺は地獄に送られるのがお似合いだろうと思っていたが、こんなのどかな地獄はないだろう。

 しばらくの間、ぼうっと天井を眺めていた。ついさっきまでいたはずの異世界も、ましてや体感で言えば二年以上離れていた現代日本はそれ以上に遠く思われた。別段、記憶を失ったわけではない、何があったかは全て覚えている。言うなれば、そこで起こった数多の出来事も、出会ったたくさんの人々も……全てはもはや過ぎ去った思い出のように感じられた。

 ただ、一人を除いて。地獄であろうが、異世界であろうが、ずっと一緒だと約束してくれた少女。彼女の存在だけは、懐かしむべき遠い過去には出来ない。他の何もかもが一刻を経るごとに色褪せ、掠れていくように思われる中で、彼女だけは鮮やかに俺の心に焼き付いている。

 廊下からしずしずと歩く足音が聞こえ、間を置かずにがらりと襖が開いた。体を起こして足音の主を見やると、予想通りの人物が立っていた。

 祖母だった。きっちりと着物を着こなし、穏やかな眼差しで俺を見ていた。

「おばあちゃん……この世界に、俺とおばあちゃん以外の人って……誰か、いる? その……」

 俺は一瞬、口ごもった。

「長い、黒髪の女の子なんだ。一見すると、ちょっと冷たい印象で……でも、本当は優しい子なんだけど」

 何を差し置いても知りたいことを、祖母に不器用に問いかけた。すると、祖母は少し困ったように微笑んだ。

「いいえ。ここにいるのは、私と彼方の二人だけ。この世界には、他に人は居ないよ」

 声は柔らかだったが、その答えは氷柱のように鋭利に突き刺さった。

「そっ……か」

 俺は嘆息した。

 ここが地獄でも、異世界でもないからか。死んでも一緒なんて……彼女にもどうしたって出来ないことはある。やっぱりだめだったんだ、と心の中でつぶやいた。

 とにかく、もう彼女には会えない。その事実を俺は認めた。

 黙り込んでいると、祖母が俺の前に向かい合って座った。

「どうだった、彼方? あちらの世界で……お前はどんな風に生きたんだい?」

 トラックに轢かれて死んだときも、似たようなことを聞かれたな。俺はほろ苦い笑いがこみ上げてくるのを感じた。

「ああ、今回も碌でもない人生だったよ。都合の良い道具として弄ばれて、そして用が済んだら、自分がやって来たことを残らず踏みにじられて処分された。前の人生より、一層酷い終わり方をしたよ」

 こみ上げてきたのは、自嘲の笑みだ。

「おばあちゃんは俺が望んだとおり、優れた力を与えて、もう一度人生をやり直すチャンスをくれた。でも、だめだった。力があろうがなかろうが、俺はまともな人生を送れなかった……」

 俺は力なく首を横に振り、そのまま深く頭を下げた。

「おばあちゃん、ごめんね。……こんな不甲斐ない孫で、ごめん」

 現世よりマシな人生を今度こそ送ってほしい、と祖母は願って俺を送り出してくれたに違いないのに。こんな情けない報告しか出来ない自分が、恥ずかしくてならなかった。

 下げた頭に、祖母の視線が向けられるのを感じた。

 頭上から降ってきたのは、くすりと笑う祖母の声だった。

「でも、お前は新しい人生で見つけたんだろう? とても、大切な人を」

 祖母の問いかけに、俺は息を呑んだ。

「……うん」

 否定など出来るはずがない。俺は頭を下げたまま、頷いた。

「その人と過ごした時間は、幸せだったかい?」

「……もちろん」

「その人と出会って良かったと思うかい?」

「それは……」

 俺は、一瞬だけ言葉に詰まった。彼女と過ごしたのは、幸せな時間ばかりではなかったことを、苦しい時間も辛い時間もあったから。

 それでも、答えは決まっている。

「うん。心の底から、彼女と出会えて良かったと思う」

 俺が答えると、下げたままの頭に祖母の手がふわりと触れた。

「いい人生を送ったと思うよ、彼方は。少なくとも、おばあちゃんの目にはそう見える」

 枯れ木のように乾いた、けれどもあたたかい手の感触がひどく懐かしい。祖母の小さな手が、優しく俺の頭を撫でた。

「彼方が送った人生は、他人に誇れるような立派な人生ではなかったかもしれない。たくさんの苦労を積み重ねたのに、報われない人生を送ったと彼方自身も思っているかもしれない。でもね、どちらも大したことじゃないんだよ」

 祖母の手が頭から離れた。

「ねえ、彼方。お前は、生きて良かったと胸を張って言えるかい? 全てが上手くいく人生は送れなかっただろうけれど……それでも、お前は自分の一生に納得することはできたかい?」

 俺は、目を瞑った。目蓋の裏には今まで生きてきた人生の光景が、流れる川のように溢れてきた。

 トラックに轢かれる前は、悲惨な記憶ばかりが思い出された。教室で孤立し、同級生たちの心のない嫌がらせに身も心もすり減らしていた。暗く孤独な自室に籠もっても安堵などできず、無力な自分への苛立ちと閉塞感ばかりを募らせていた。

 俺が異世界で過ごしたのは、たかだか二年程度のこと。でも、そこで過ごした日々は、過去の十六年よりも遙かに濃厚で、刺激に溢れていた。

 初めての依頼で、ゴブリンの大軍を打ち破った英雄になった。初めて会ったときは怖くて仕方なかった看板娘にも、いつの間にか恐れず言い返すことが出来るようになって、最初は他人行儀だった糸目のマスターにも認められて、まるで父親のように色んな助言を貰った。他にも、ラクサ村の女将さんのような、強い意志を持った立派な人間にも、マルコのような下劣で、そして同時に気の毒な人間にも、マルチェラのような心のない人間にも、数多くの人々と出会い、別れていった。

 そして、誰よりも俺にとって大きな存在だったのは、言うまでもない。最初は行きずりの通行人として出会い、冒険の相棒となり、そして、いつしか愛する人となった。彼女はすぐにくじけそうになる俺をいつも励まし、導いてくれた。ドーノの使い方も軽口の叩き方を教えてくれたのも、生きる希望も深い愛情も、全て教えてくれたのは彼女だった……。

 俺の人生の終わりは、確かに悲惨だった。顔も知らない女王とやらに玩具にされ、彼女との愛を無残にも踏みにじられたことは否定しようがない。だが、それは即ち、俺の人生の全てが無駄だったことを意味するのだろうか? 苦痛と絶望ばかりの人生だったと認めることになるのだろうか?

 トラックに轢かれた後、祖母とのやり取りで認めたときと同じように俺は今、自分が生きた日々に納得せず、後悔ばかりを募らせているのだろうか?

 答えは、出た。俺は目を開け、顔を上げて祖母をまっすぐに見返した。

「俺は色んな過ちを重ねてきた。たくさんの人々に迷惑を掛けた。でも前とは違って、俺を支えてくれる人が居て、俺自身も一生懸命生きることが出来た。だから……納得している。碌でもない人生だった、でも、生きて良かった、そう思うよ。……けど、さ」

 滑らかに話していたのに、突如声が詰まった。

「一つだけ、後悔していることがあるんだ。悔やんでも、悔やみきれないことが、あって……」

 こみ上げてきた嗚咽が、言葉を遮った。

「彼女と……一緒に、生きたかった。ずっと、一緒に、いてくれるって……約束、して、くれたのに……」

 押さえた目頭から、涙が幾度となく滑り落ちる。喉の奥からこみ上げる慟哭が、言葉は愚か呼吸すら奪い、息が苦しい。

 それでも、俺は話を止められない。今にも後悔で張り裂けそうになる胸の痛みを、吐き出さずにはいられない。

「今、ここに……エリーはいない。……もう、きっと二度と……会えない……」

 俺は一度、大きく息を吐いた。

「それが、たまらなく……苦しい」

 想いを吐露しきると、祖母がそっと俺を抱き寄せた。

「大丈夫だよ。お前がそれほど強く望むなら……いつかきっと、また出会えるよ」

 枯れ木のような手が背中を優しくさすった。俺は小さく首を振った。

「でも……そんなこと言っても……」

 やはり声を詰まらせながら、俺は口を開いた。

「俺はもう……死んだんだ。ここに、いないなら……彼女とはもう、会えないよ」

 この後、俺がどうなるかはよく分からない。この空間にそのまま留め置かれるのか、それとも別の世界に、それこそ本物の地獄に堕とされるのか、分からない。

 しかしいずれにせよ、彼女と生きた世界で別れた以上、再び巡り会うなんて奇跡がそう簡単に起こるとは思えない。どこの世界にいけば会えるのかすら判然としない彼女に会いたいなんて、広大な海から狙いの一滴をくみ上げるよりよっぽど難しい。

 誰だって、そう思うはずだ。なのに、祖母は突如肩を揺すって笑い始めた。

 そんなに笑うことだったか、と不思議に思って祖母の顔を見返す。祖母は何がおかしいのか、未だに口元を抑えながら言った。

「あら、大きな勘違いをしているみたいだね」

「……え?」

 思いがけない答えに、俺は呆然とする。

 祖母はようやく笑うのを止めて、教えてくれた。

「お前は、死んでなんかいませんよ」

 どこか意地の悪い祖母の声を最後に、急に意識が遠ざかった。

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