81 ずっと一緒に
しばらくの間、周囲の喧噪に耳を澄ませるばかりだった。兵士達の怒号や馬の嘶きや蹄の音、逃げ惑うマルチェラの部下達の悲鳴が聞こえる。
その間、俺は顔を上げることすら叶わずに伏していた。急速に体から熱が奪われていくのを感じていた。傷口から命が流れ出していくのをはっきりと理解していた。そう長くは持たないことは明らかだった。
俺の人生って、一体何だったんだろう。馬車の荷台の堅さと命が流れ出ていく寒気に震えながら、俺は考えた。
現代日本では、温かい家族も、親しい友達も、愛する人も居ない寂しい人生があっけなく終わり、俺はやり直すことを望んだ。この世界にやって来て、前の人生で手に入れられなかった物を手に入れたはずだった。
だが、自らの選択でそれらを破壊した。俺は馬鹿な選択を悔いた。もうあの頃には戻れないと自らに言い聞かせた。でも、かつて自ら放棄したはずの親しい人や愛する人が、命を賭けて俺を呼び戻してくれた。そう、俺は彼らの手を取って、『死神』であることを辞めて、一人の人間に戻ることを決意したばかりだった。
その決意は踏みにじられた。遊び飽きた玩具をたたき壊すかのように、無邪気に、無慈悲に、残酷に。戦争のために俺を拾い、そして戦争を終わらせるために俺を捨てた。顔も知らない女王の傲慢極まりない我が儘に振り回され、俺は二度目の人生を終える。
突っ伏したまま、笑った。
「俺は……何をやっても、だめなんだ」
掠れた笑い声が、虚しく響いた。
俺のような出来損ないは、何度人生を繰り返したって変わらない。欲しいものは手に入れられない。自分が傷つくだけならともかく、その上周囲も巻き込んで不幸にした。マスターやソフィアを無残な最期に追い込み、エリーに自ら毒を呷らせたのは俺なのだ……。
ごぼり、と喉の奥から血がこみ上げてきて吐いた。まるでため息のように。
「生まれてくるべきじゃ……なかったんだな」
やはり、俺は生まれてきたこと自体が間違いだったのだ。生まれてきてはいけない存在だった……。
次こそ、間違いなく死ねるだろうか。薄れ行く意識の中、思った。もう転生なんてごめんだ。このまま、死なせてくれ。地獄でも何でも良いから……生きるのだけはもう、ごめんだ。
この意識が、体に残った命が、消えて無くなる時を静かに待った。周囲はうるさいはずなのに、段々と静かになっていく。もう既に死後の世界にたどり着いたかと錯覚してしまうほどだった。
けれども、意識が落ちきる前に、拘束された手に何かが触れた。氷のように冷たい指が震えながら、俺の手を掴んだ。
「そんなことないよ……あたしはカナタに会えて……良かったよ。この世界にやってきてくれて……ありがとう」
聞こえてきたのは、今にも途切れそうな弱々しい、愛しい人の声。
頭から水を被ったように、意識が鮮明になった。
目隠しが解かれ、次いでナイフで手足の拘束が解かれた。雪のように白い顔をし、唇から血を滴らせたエリーが、俺を見下ろしていた。
彼女だって身動きが取れない状態で放置されていたのではないのか? 頭の中の疑問を読み取ったように、エリーは微笑み、口を開いた。
「仲間に縄を切ってもらって……ここに連れてきてもらったの。ああ、兵士は……逃げていったあいつらを追いかけてるみたい」
最後に残った生命の欠片を絞り出して、俺の傍らに座っていた。
俺はもう、己はもう助からないと思い、死を静かに待つばかりだった。だが、彼女は懸命に最期の時を生きようとしていた。
まだ、死んではいけない。彼女に応えなければならない。死の瞬間を待ち望むばかりだった俺は、力の入らない体を叱咤し、彼女を見つめた。
目が合うと、彼女は血の気の引いた唇から鮮血をこぼしながら、俺の手にぎこちなく指を絡めた。
「ね……カナタ。これからは、ずっと……一緒だよ」
「だめだよ……」
俺は彼女が絡めてきた指から、己の指をそっと引き抜いた。
「俺は、きっと地獄行きだから。君のことは……連れて行けないよ……」
俺は地獄なんて怖くない。宗教心のない現代人には死後の世界などどうでもいいし、何よりもそれだけのことをやってきた。似合いの末路だ。
だが、彼女は違う。俺のような罪は彼女にはない。地獄に送られる理由なんて一つも無い。
俺の拒絶を、エリーは弱々しい声で笑った。
「心にもないことを。……素直になれって……言いだしたのは、あんた……でしょ」
そして微笑み、俺が引っ込めようとした指をもう一度絡め取った。
「地獄だろうが……それこそ、異世界だろうが……関係ないわ。あたしは……ずっと、あなたと一緒に……いるから」
今にも散り行こうとする花のように、儚く美しい微笑みだった。
類い希なその美しさに見惚れている内に、心の中で、何かがぽきりと折れる音がした。 俺はエリーの指を握り返していた。
「ごめん……やっぱり、一緒に来てよ」
地獄には連れて行けない、と言ったけれど。それが俺のささやかな強がりだと、賢いエリーにはやはり見抜かれていた。本心では、地獄だろうがどこであろうが一緒に来てほしいと望んでいることを。
だが、もう俺の言葉に彼女は応えなかった。
まるで眠るように、彼女は目蓋を下ろしていた。意志の強い黒い瞳はもう二度と開かれることなく、握ったはずの指からは何の力も感じられず、生命のぬくもりは微塵も感じられなかった。
俺は今になって理解した。あの美しい微笑みは、彼女の生命が最期の輝きを振り絞って生み出したものだったのだ、と。
エリーが事切れたことを認めると、俺はわずかに残っていた命を長らえる理由を失った。ただ、残った力を使って、彼女の指を意識が続く限り強く握りしめた。
悲しみはこみ上げてこなかった。エリーが言うなら、きっと俺たちは離れずに済むだろうと思ったから。今度こそ、ずっと一緒にいられると思ったから……。
目蓋の重みを感じ、目を閉じると、腹部の痛みがふっと消え、穏やかな眠りに誘われた。