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80 別れ

 俺の眼前で、手足を拘束されたエリーの顔色が急速に青ざめていく。彼女が自らの口の中に生成した毒水のせいで、生命が少しずつ体から流れ出ていくのが分かる。

 エリーのドーノの秘密を、俺は誰にも明かさなかった。彼女の言うとおり、ソフィアにもマスターにも、当然マルチェラにも。けれども、今、それで良かったのだろうかと疑念を抱いている。マルチェラが知っていたなら、何らかの対策を講じて、エリーの毒による自死を防げたかもしれない。そんな倒錯した、馬鹿げた考えが浮かんでくるのを止められない……。

 予期しなかったエリーの行動にマルチェラは動揺していたようだが、落ち着きを取り戻すのにさほど時間は掛からなかった。奴は落ち着き払った声で、周囲の部下達に呼びかけるのが聞こえてきた。

「その死にかけの女にはもう、人質としての価値はない。捨て置け」

 俺やエリーに話しかけるときの声とは別人だった。鼻につく甘ったるさはなく、まるで機械のような冷たさを放っている。

 仮面を脱ぎ捨てた奴の声が続ける。

「『死神』だけを連れて行け。そいつにはまだ利用価値がある。女が使えなくなっても、本人の爪を剥ぎ、腕を折れば……一度や二度言うことを聞かせることは出来るだろう」

 感情のない声で女は淡々と言う。

「なっ……!」

 俺は反射的に声を上げた。膠着していた状況が動き出そうとしていることを悟って。

 が、俺の声など連中が気に掛けることなどない。マルチェラの部下の手で後ろから目隠しが被せられ、視界が暗闇に閉ざされる。

 次に椅子と体を結んでいた縄を切られた。何が行われているのか、理解しつつあった。奴らは瀕死のエリーを置いて、俺をどこかに連れて行こうとしている。

 彼女と切り離されようとしている事実を理解すると、世界でひとりぼっちになったような、冷たい孤独感と絶望感がこみ上げてきた。

「やめろ、離せ! 触るな! 俺を放っておけ、捨て置け!」

 こみ上げてきた感情に押し出されるように、声を振り絞って叫んだ。手足はまだ拘束されているが、少しだけ自由を取り戻した体を捩って暴れる。

 だが、男達の無骨な手が俺の体を呆気なく、地面に押さえつける。背中や腰を足で踏みつけられ、体の自由はあっさりと奪われる。

 それでも、俺は抵抗を止められない。無意味と分かっていても、力を振り絞った。

 もう、エリーと離れたくない。彼女の手を二度と離すものかと誓ったばかりだったのに。

「エリー! エリー……!」

 苦しい息の下で、何度も彼女の名を繰り返した。他の言葉を全て忘れてしまったかのように、全身全霊を込めて叫び続けた。

 だが、俺の叫び声などこの世に存在しないかのように、周囲の状況は変化を止めない。マルチェラの部下達が短く交わすささやき声に、彼らの足音、そして、車輪が地面を噛む音、馬の蹄の音が聞こえてくる。連中が馬車に乗せて俺を連れ出そうとする作業は滞りなく進み、ついに俺の体が押さえつけられていた地面から持ち上げられる。

 馬車に積み込まれる! 俺は最後のチャンスとばかりに、体に残った気力を振り絞って身を捩った。だが、屈強な男達は抵抗などお構いなしに、俺の体を抱え上げた。そして、荷物のように馬車に俺を放り込んだ。木製の床板に叩き付けられ、その痛みで一瞬意識が飛びかけた。

「嫌だ……! エリー……!」

 だが、歯を食いしばって意識を保った。今にも消え入りそうな、弱々しい叫び声が口を突いた。

 すると、すぐ傍から女の声が聞こえてきた。甲高い、はしゃぐような笑い声が。

「ごめんなさいねえ、ひどいことしちゃって。でもねえ、こんなことになったのは、あなたが悪いからですよ……」

 熱を帯びた吐息が俺の耳に掛かり、奴は毒々しく甘ったるい声で囁いた。マルチェラのしなやかな手が、両手で俺の頬を包み込んだ。

 そして、その直後、女の瑞々しい唇が吸い付き、熱い舌が歯を割って入り、まさぐるように俺の舌に絡みついてきた。口を塞がれた息苦しさに、汚らわしい舌の感触から逃れようと顔を背けたくても、頬から後頭部にずらした女の手がそれを許さない。艶っぽい、おぞましい音が延々と耳朶を打った。

 永遠にも思える時間が経ち、女の手から解放されたときには、息も絶え絶えだった。未だに口内に残る舌の感触にぞっと全身が寒気だち、その場で体を折って嘔吐した。少し前に行われようとしていた愛しい人との口付けは、汚され、侮辱され、奪われた。

「ね、私はとっても嫉妬深いの……あなたが浮気なんてするから、いけないんですよ」

 鈴を転がすような声で、マルチェラは笑う。さながら悪魔が笑うように。

 その声がまるで合図だったかのように、馬のいななきが聞こえる。床板の振動を通して、馬車の車輪が動き出したことを知る。

 俺は叫びもせず、暴れもしなかった。屍も同然に生きている。ただ、息を吐いて吸っている。心臓が勝手に動いて、俺を生かしている。だが、生かされたところで何も出来ない。怒りも悲しみも、根こそぎ焼き払われたかのように湧いてこない。

 終わった。もう、どうしようもない。……静かな諦念だけが、俺の心にあった。

 だが、弓の風切り音が、俺の半ば死にかけた心を震わせた。そして、遠くから人間の怒号と馬車に弓が突き立つ鈍い音。次いで聞こえるのは、馬の悲鳴じみた嘶きに、マルチェラの部下の男達の叫ぶ声。

「フォルツァ軍の奴らだ!」「このままじゃ、囲まれる!」

 男達の悲鳴じみた報告が響く。

「……まさか。あの無能共の集まりに見つかるなんて……いや……あの女の差し金か」

 マルチェラが声を低くしてつぶやくと、その直後に苛立たしげな舌打ちが響いた。

 すると、マルチェラの声に答える声があった。

「その通り。陣地に残った仲間に……お願いしてあったの。『死神』が逃げた後は、報復がありえるから周囲を警戒して巡回するよう、上官を説得してとね……。あんたたちの策なんて、お見通しってわけよ」

 馬車の外から、兵士達の怒号に混じって弱々しい声が聞こえる。まだ辛うじて命を繋いでいるエリーの声だ。

「カナタは渡さない。言ったでしょ。あんたたちの思うとおりになんか……させないって」

 苦しげに吐息を吐きつつも、エリーは誇らしげに言う。

「……狂っている。たかが男一人のために、ここまでするなんて」

 マルチェラは、ぞっとして寒気を覚えたようにつぶやく。 自ら毒を呷り、そして人質としての価値を失った後ですら、思うようにはさせないというエリーの執念に奴は慄いている。

「人の皮を被った悪魔のあんたには分かりっこないでしょう、人間の愛ってやつを……!」

 残された僅かな命を燃やして、エリーはあざ笑う。散々、苦汁を舐めさせられた女相手に一矢報いた優越感に酔いしれるように。

 マルチェラはしばらく黙っていた。返す言葉もなく、ゆっくりと立ち上がる物音を立てた。

「ええ、認めるわ。私には理解できないの、人間の愛というものは」

 穏やかな水面のような、落ち着き払った声でマルチェラが言った。

「一人の男を愛するあなたも、それから数多の民を想う我が主も、狂人だわ。だって、他者なんてただの駒ですもの。彼らが幸せになろうが、苦しもうが、私は何も感じない。ただ、私が望むように動いてくれればそれでいい……」

 マルチェラは、ふっと笑みをこぼす。

「私はあなたに負けた。我が主以来よ、こんなことはね。……でも、ね。だからといって、あなたの勝ちというわけでもない」

 声が急に、鋼のような冷たい鋭さを帯びた。

「私だって、全てをあなたの思うようにはさせない」

 何事か、と身構える暇さえなかった。目隠しをされた視界が真っ赤になるほどの痛みは走った。硬い、鋭利な物体がずぶりと突き立ち、腹を食い破るのを感じ、俺は叫んだ。

「カナタ……!?」

 俺の異変を察知した、エリーの悲鳴が聞こえる。

 マルチェラが鈴を転がしたような声で楽しげに笑う。

「ごめんなさいね。主の敵に、彼を渡すわけにはいかないから」

 馬車からひらりと飛び降りる音が聞こえた。

「それじゃあ、後は仲良く二人で死んでいってちょうだいね」

 軽やかな足音が遠ざかると、二度とマルチェラの声は聞こえてくることはなかった。

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